喰べ過ぎる男
※嘔吐などなどあります。
神父が隔離されている小屋には、ひとまず生活用品が残されており、食事もテオらが外から用意してくれているので不自由することはなかった。とはいえ、するべきこともなく、外界から得られる情報も少ない。聞けばその都度スティカが答えてくれたが、そのために彼女があちこちを奔走して情報を得ているようだったので、神父は早々に情報収集を諦めた。そもそも、外に出られない神父が知っていたところで意味などなかった。
神父が助けた司祭が亡くなったかもしれないという情報を聞かされた時はさすがに堪えた。そうして同時に、自分も同じ末路を辿るのではないかと慌てて手足を確認してみたが、神父の四肢は相変わらず貧弱なまま、普段通りの肌色をしていた。この小屋に隔離されてから度々、神父は己が本当に病に感染しているのだろうかと疑問に思う。黒死病といえばやはり皮膚が黒ずみ四肢が壊死する症状が有名で、現在神父にそのような変化は見られない。ただ、少し咳が出て、頭が痛んだが、それは連日の仕事の疲れが出たものではないかとも思えてしまう。
無論、己の処遇に不満がある訳ではないが、物事を楽観的に考えがちなのは人間の常とも言える。神父はさほど黒死病に詳しくなかったが、テオの話によると通常は潜伏期間というものが存在し、発症までには時間が空くらしいということだった。
日が沈み、部屋の中が薄暗くなって来た頃、神父はテオが持ってきた食事を口にした。空腹だったはずだが、食べたものが胃の奥でつかえたように気分が悪い。さほど量を取ることもできずに、神父は食べたものを水場に吐き戻していた。食べたものに留まらず、胃液と喉の奥に絡んだ痰のようなものまでを何度も何度も吐き出して、それが落ち着く頃に神父は汗だくになっていた。なんとか水分だけは取ることができて、テオの用意した聖水を吞み下すといくらか気分はマシになったものの、もう一度物を食べる気にはなれずに、そのまま神父は部屋の隅の固い寝台に横になった。
別段肌寒い季節ではないはずなのに、用意された薄手の毛布だけでは全く暖が取れなかった。神父は咳き込みながら寝台の中で体を丸めて毛布を体に巻き付ける。それも全く慰めにはならない。寒い。寒い。そうして、息苦しい。咳き込む度に血の混じった痰と胃液の中間のようなものが喉の奥から込み上げたが、もはや水場まで歩いて行くことも億劫だった。割れるような、それでいて締め付けられるような強烈な頭痛が神父からあらゆる鋭気を奪った。
──あの化け物は、どうしているだろう?寿命を全うさせると言っていたが、それは外的な事故から守るという意味で、病までもを想定はしていないだろう。せっかくここまで生きながらえた命なのに、そう思うと酷く残念に思えた。以前ほど、己の死への恐怖はなかった。死後、自分がどこに行くのかを知っているからかもしれない。きっと、神父の魂はそのまま天上へと召し上げられて、主神の身許で働くことになるのだろう。そうなったら、化け物はどんな顔をするかを想像すると、神父の息苦しさは和らいだ。あれが慌てたり悔しがったりする様は、一見の価値はある。
不思議と、和らいだのは頭痛だけではなかった。薄い毛布しかなかったはずの体が、何かに包まれたようにほんのりの温い。それなのに、額に触れる冷たい何かが心地良い。薄っすらと目を開けてみるが、部屋は既に夜の帳が下りて久しく、暗闇ばかりで何者も神父の目には映らない。神父は眠りに落ちるように、もう一度目を閉じる。もはや苦しさはあまり感じない。それどころか、心地の良い温さと、顔に触れる対照的な冷たさとで熱も痛みも息苦しささえ引いていくようだった。
それはそれは酷い有様だった。硬い寝台の上でガタガタと震える神父の姿は一層憐れで、寝台の横の床には血の混じった吐瀉物が撒き散らされている。後輩神父や聖騎士の少女を追い払い、そうして神父の隔離された小屋に足を踏み入れた護衛は顔をしかめる。神父の容態に──ではなく、己が後手に回った現状に対して、ではある。
大抵、護衛が近付くと、神父は胡乱な顔をして減らず口の一つでも叩くのが常だったが、今の彼は護衛が小屋に立ち入ったことさえ気が付いていないようだった。むしろ意識があるのかさえ怪しい。じっとりと汗の滲んだ顔面に普段掛けている眼鏡はなく、魘されるように眉間に皺を寄せているのが気になって額に触れる。あまたの症状の内に高熱というものがあった気がするが、生憎と護衛の掌は人間の平熱と発熱時の温度とを区別できるほど繊細ではなかった。
このまま放っておけば、神父はあっさり死ぬだろうという確信があった。護衛に未来予知の能力はないが、天上の者共が考えそうなことは分かる。運悪く流行病を拾った神父が、運悪く医者の治療が間に合わず、運悪くそのまま死んでしまう。ありがちだ。そうした命運を歪め、偶然を呼び起こすことで望み通りの結末を手繰り寄せることこそ、天使の権能であった。彼らは神に愛されるが故、彼らの望みは運命の悪戯によって必ず叶えられる。医者が辿り着くのは二日後になるだろうとの報せを受けたが、恐らく二日では到着すまい。橋が崩れたとか、道が塞がったとかで医者の到着は遅れ、治る病も治らないと言う筋書きがより盤石か。
無論、死なせるつもりはない。この自分がそばにいて、天使共に出し抜かれて手放すなんてあり得ない。手放してなるものかという思いが具現化したように、影なる四肢が寝台の下から這い出して、神父の体を絡め取る。どこかに連れ去られようとしている彼を、覆い隠してしまうように。
いっそ、このまま食べてしまえば、誰に奪われる心配もなくなるというもの。この先数十年生きようが、今ここで死のうが、神父の魂の味や鮮度が落ちるとは思えない。それほど彼の魂は奇跡の魅力を宿していた。前世か、前々世か、聖人であったのか、あるいは救国の英雄だったのか。ともあれ、一度や二度の献身ではこの輝きは得られまい。この魂は、輪廻の度に数奇な運命に導かれ、主神の目鏡に適う善行(善行とは、要するに主神の気にいる行いのことを言う)を積んでいったに違いない。護衛は神父の寝顔を覗き込んで悩んだ。吹けば消えるような灯火を守り続ける労力を何故自分が払い続ける理由があるだろう?
理由は──ある。その刹那的な衝動は、魔界で悠久の時を生きる化け物に相応しい振る舞いではないからだ。それではまるで、他人に飴玉を取られまいと、一口に飲み込んでしまう子供のよう。化け物には化け物なりの矜持があり、そのために主神を嫌い、そうして神父を生かしている。
護衛は諦めたように溜息を吐いた。ここで面倒になって投げ出すのは三下のやることだ、と己に言い聞かせる。となれば、やることは一つ。神父の命を蝕むこの病とやらを取り除いてやらねばなるまい。
実際、それはさほど苦労のいる作業ではなかった。護衛は神父の腕を取った。されるがままになっている神父の腕は脱力しきっている。袖に隠れた指先を見ると、鬱血したように血色が悪い。そこに静かに唇を寄せる。触れるよりもなお軽く、毒気を吸い出すように神父の体に唇を這わせる護衛は、手と、足と、それぞれ左右それぞれで毒気を吸い出し、咀嚼する。
病であれ、毒であれ、怪我であれ、人の身に宿る穢れを吸い出してやることで、化け物は人の不調を治癒することができた。そうして吸い出された穢れは、化け物にほとんど影響を与えない。特に人間の病や毒など、本性の巨大な化け物にしてみればそれこそそよ風も同然だった。いつぞやかに骨の折れた神父にそれを披露してやったが、あの時は本人の気が動転していて自分が何をされたかも見ていなかったのだろう。神父が護衛のその能力をあてにしている様子はない。
ひとまずこれくらいか、と護衛が顔を上げると、神父が目を覚ましていた。覚醒しているかは微妙だったが、ぼんやりと夢現な表情でこちらを見ている。そのまま神父は軽く咳をしたが、それでも眉間に皺を寄せて苦しがっていた頃より随分と顔色は良いように見えた。だが、咳となれば、病の原因は肺、気管。であれば、そこに近い器官から毒素を吸い出してやる必要がある。そう、それはそのために必要なことなのだ、と護衛は己に言い聞かせつつ、覆い被さるようにして神父の吐物に塗れた唇に口付けた。神父の口を吸う。もっと深く、もっと奥へ、脱力する彼を逃がさないように、両手で頬を支えて、角度を変えて舌を捩じ込む。ああ、やはり、この魂は、これまで食べた何よりも──
「……!」
弾かれたように神父から離れ、化け物は愕然とする。己の下でくたりと脱力する神父の呼吸は非常に遅い。まずい、「喰べ過ぎた」。
慌てて神父の口に再度口付け、今度は息を吹き込んだ。神父の胸が吹き込まれた息の分だけ膨らんで、それから規則的な寝息を立て始める。化け物が我を忘れて貪った魂の代わりに、彼の魔力を注ぎ込んだのだった。次第にその魔力は神父の魂と同化して、元の魂の総量に戻るだろう。
穢れを吸ってやるだけのつもりだったのだ、と化け物は己に言い訳した。だが、それは食材に付いた焦げを削り取るようなもの。不浄と共に、化け物は神父の魂を吸い上げていた。その魂のあまりの甘美さに、本能が理性を上回ってしまった。今となっては、護衛にはいつから己が捕食行動に移っていたのか判別さえ付かなかった。
恥ずべきことだった。同時に罪悪感をも覚えた。しかし、すやすやと穏やかな表情で寝息をたてる神父の顔を見て、このことは神父が死ぬまで黙っておこうと護衛は密かに決意する。
「……まぁでも、もう味見はやめといた方がいいな……」
味見で食べ尽くしてしまっては、とんだ間抜けというものだ。護衛はひとりごちると肩を落とし、珍しくしょぼくれた様子で小屋を出た。
ずっと書きたかったとこでした!




