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天国か地獄か  作者: 垓
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神の思し召し

 物々しく全身を皮のコートで覆い、顔にも目出し帽のような目の荒い麻布を重ねた簡素なマスクを被った男たちが、もはや黒死病の病状が進んで昏睡状態に陥っている司祭を担架に乗せて運んでいった。昨晩は辛うじて神父と会話のできる状態だったが、病の菌を撒き散らさないようにという配慮から顔までを覆うように掛けられた布の下で司祭は全く動かず、微かに上下に揺れる呼吸の動きがなければ死んでいると勘違いしただろう。伝染病の発現など全く想定していなかった一行は、急ぎ黒死病を専門に診る医者の手配のために街に伝令を送り、病状の重い司祭と感染の疑いの強い神父とをそれぞれあり合わせの防護衣を纏った上で再度廃村の家屋にそれぞれ隔離した。強い感染力を持つこの病を治す特効薬はなく、特別な器具や薬品を持たないテオや警察にできることは、これ以上感染を広げて患者を増やさないことだけだった。神父の方は気怠げにしている以外は全身状態は良好であり、彼は自身の処遇に不満を唱えるでもなく隔離を受け入れていた。

「まぁ、私は……元気なので、問題ないのですが」

 閉ざされた扉越しにそう答えるのは神父の声である。心配そうにするスティカの呼び声に応えての言葉であるが、彼は単語の合間に痰が絡んだような咳を漏らした。

 テオはこの場にいない。彼もつい直前まで神父のそばに付き添うことを頑として譲らなかったが、そもそもこの廃村にやってきたのは違法な聖水の売買を取り締まるためであり、そのために捕らえた関係者たちの処遇や証拠の扱いについて警官たちの指示を仰ぐ声が止まなかったのである。要するに後処理であるが、テオはしばらく神父が隔離された家屋の前で警官たちの報告を聞いていたが、あまりにその数が多いのと周囲が雑然として落ち着かないことに気が付いて、「これでは先輩が休まりません! 高速で全部片付けてきます」との言葉を残すと再び事後処理の前線へと詰めていった。

 初め、スティカもそれに従おうとしたが、それは隔離された神父が呼び止める。表面上、スティカは戦いを不得手とする神父テオの護衛だが、過激な宗派に身元を割られ、命を狙われているのはスティカの方であり、護衛としての機能を果たしているのは寧ろテオの方だった。現状、大捕物の事後処理に忙しいテオがそちらの仕事に集中するためにも、スティカは信用できる護衛の目の届くところにいて欲しいというのが本音である。

「……護衛様は、心配じゃない?」

 テオが戻ってくるまでの間、スティカにできることは神父のそばで彼を励まし、彼を心配し、これからの出来事に不安を覚えることだけである。彼女は粗末な作りの小屋の外に雑然と積まれた木材を椅子代わりにして、ぶらぶらと浮かせた足を揺らしていた。そんな不安を紛らわすように、隣で同じように木材に腰掛ける護衛を見上げる。護衛の口数は決して多くはなかったが、聞けば必ず返事があった。護衛の得体の知れなさに畏怖したこともあったが、基本的にスティカは護衛を信のおける人物だと評価している。無論、そこには「彼の機嫌を損ねない限りは」という但し書きがつく訳だが。

 護衛は少し考えるように首を傾げ、神父のいる小屋を見やる。

「心配ではないが、昨日の采配を後悔はしている」

 後悔、と護衛の口から些か殊勝な言葉が飛び出したのにスティカは目を丸くする。護衛はスティカの様子に気付いていないのか、そのまま続けた。

「死なせるようなことはないと慢心していた、……これは俺の落ち度だ」

「ご、護衛様が悪い訳じゃないのに」

 何となくそうする必要を感じて、スティカは護衛を励ますように言った。無論、この周辺に黒死病の流行などなく、捕らわれた司祭が劣悪な幽閉環境からネズミや虫を媒介とする致死率の高い病を発症し、それがたまたま助けに来た神父に感染るなどと誰にも予想はできないだろう。運が悪かったとしか言いようがなかった。

「悪い偶然が重なっただけ……」

 護衛はようやくスティカを見て、微妙な顔をした。

「そうだな、それこそが神の思し召しという訳か」

 忌々しげに吐き捨てられた護衛の声は、これまで聞いたどの言葉よりも冷え冷えとしている。スティカはしばし竦み上がって何も答えられなかった。

 悪い偶然は、そのまま更に重なった。近隣の街へ医者を呼びに行った伝令が、肩を落として戻ってきたのだ。曰く、近隣に黒死病の治療を行える医師はおらず、通常の医者も死の伝染病を恐れて往診を拒否する始末。遠方の街で何とか治療の依頼を取り付けたものの、医者の到着は早くて二日後とのことだった。地方の田舎町では当然の結果だったかもしれない。黒死病は治療を施す医者の方にも疎まれる病だった。的確な治療法は未だなく、治療の甲斐なく死んでいく患者の数の方が多い。治療に関しても、診察する医師にも感染のリスクが高く、誰も診たがらないのが実情だった。また、重篤な症状を呈する黒死病は概ね発症から2〜3日で治療の手が入らないと死に至る。伝令の言伝を伝えにきたテオは悄然としていて、それは決して事件の事後処理に対する疲れのみが原因ではないことは明らかだった。

 その日の夕方過ぎ、隔離されていた司祭から応答が途絶えたとの連絡が入り、一行の間には一層重い空気が流れた。大事な証人として生かして助けるつもりだったのに──とは、誰も口にはしなかったが、彼の証言が更なる情報源として期待されていたのは確かだった。しかし、助け出された司祭は即座に隔離され、伝染病を広げないためにその死体の確認さえままならない状態だった。有用な証言を何一つ得られないままになってしまった。捕らえた聖水の売人たちは、概ね読み上げられる罪状に関して己の所業を認める発言をしていた。だが、外部から彼らの身柄を解放するよう求める真主神信仰の上層部からは、警察の摘発を不当な暴力行為であるとする声が止まない。

 そうして連想されるのは、同じく1人隔離されている神父のことだ。彼もまた、司祭と同様の致死率の高い病に冒されている。医者の到着まで命が保つかは神のみぞ知るといったところ。とはいえ、テオの話にもうんうんと相槌を入れる神父は元気そうだった。扉越しにしか話すことができないので中の様子は窺えないが、皮膚にも何ら症状は出ていないと彼は言う。唯一、咳だけはなかなか治らず、会話の合間にこんこんと咳き込む声が漏れ聴こえてくるのだった。

 テオは事後処理を進めつつ、聖水の聖成も進めていたようで、聖水の詰められた小瓶と簡単な食事とを並べた盆を持って家屋の粗末な窓に寄った。窓辺にそれを置き、中にいる神父に声をかける。

「先輩、お加減はいかがですか? 食事、ここに置いておきますから」

「ありがとうございます。お前も大変だというのに、世話をかけます」

「いえ、ぼくなんて……」

 テオは言葉に詰まったように俯く。そもそも、神父を巻き込んで今回の討伐を提案したのはテオだ。責任を感じているのだろう。昨晩から休みなく働いているせいか、うっすらと充血した目元を腫らしている。既にスティカは近くの天幕で仮眠を取らせていた。本人は起きてテオの仕事を手伝うと言って聞かなかったが、いまだ幼さの抜け切らない騎士の少女は昼前からこっくりこっくりと舟を漕いで半目だった。夜中の番を頼むと上手いことテオが言いくるめて無理やり寝台に押し込むと、ほとんど間をおかずにすうすうと寝息を立て始めたので、やはり相当に疲れていたのだろう。天幕は廃村の中心近くに張られていて、警官たちの目が多くあり、テオも目が届き易くて良いだろうとのことで、休むのにうってつけの場所だった。

 テオはそのまま視線を逸らして、小屋の壁に背を預けて立つ護衛を見やる。護衛には、そういった疲れだとか焦りだとかいったものは全く見受けられなかった。あれだけの戦闘があって、防具もないのに生傷の一つも見受けられない。テオの視線に気付いてか、護衛は金の瞳を細めて笑った。

「後輩神父様も随分お疲れのようだ」

「……そうかもしれない」

「休んだ方がいい」

 護衛に指摘されるということは、そうなのだろう。テオは目を閉じ額に集まった熱を冷ますように手を当てる。黄昏時とはよく言うが、目の前の護衛の輪郭すらぼやけて見えるのは、相当に疲れている証拠だろう。やるべきことは山積していたが、急ぎの用は大体片付けたつもりだ。こうして先輩神父に会いに来る時間を捻出できたのも、ひとまずの仕事が手を離れたからである。無理を押して仕事をするのはテオの流儀に反した。今の自分は凡人以下の出来栄えだろう。であれば、この護衛の言葉に従うのも悪くない……。

「それじゃあ、スティカを起こして、ここの護衛に……」

「嬢ちゃんもまだ寝かせておいてやれ。ここは俺1人でいい」

「それはさすがに」

 見た目には疲れの見えない護衛とはいえ、昨晩から不眠不休なのは彼も同じだ。全てを彼に任せるのは気が引けてテオは言い淀んだが、それを扉の置くから神父の声が後押しした。

「そうしなさい、テオ。声だけでもお前が随分疲れているのが分かります」

「先輩」

「彼は大丈夫ですから」

 何を根拠にか、神父はそう言って護衛の働きを保証した。度々、神父は護衛に関して根拠のない自信を見せることがあった。そうして、神父がそういう時、テオは彼の言葉を疑えない。

 悩んだ挙句、自分には拒否権などないのだとテオは悟った。神父が隔離され、立ち往生している今、自分まで倒れてしまっては元も子もない。それでスティカを守る者がいなくなっては一層困る。渋々、テオは先輩神父の言葉に頷くより他なかった。

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