森の中で
神父が囚われの司祭の肩を抱えて、狭い小屋から顔を出す頃には、一帯はほんのりとランタンと松明の明かりで照らし出されて人々の喧騒が聞こえ始めていた。不審火だということで、少しずつ騒ぎが大きくなり、的確な指示を出せる人間が起き始めたのだった。もしかしたら、テオたちが姿を現して衆目を集めているのかもしれない。それもまた一行の計画通りだった。幸い、この小屋の見張りはまだ戻ってこないが、いつまでもここにいては誰が路地を覗き込んで神父の姿を見つけるか分からない。急ぎましょう、と声をかけようとして、神父は担いだ司祭の姿を星明かりの下で見たことを後悔した。体表で何か小さな物が蠢いている。虫のようだった。
司祭は己の足で歩けるような余力を残しておらず、2人の歩みは遅々として進まなかった。とはいえ、司祭を責められはしない。暗い部屋に閉じ込められて、不衛生な環境、扉の小窓から投げ込まれる食事、それも日に何度あるものか、そんなところで健康でいられるはずがない。司祭は神父に抱えられながら、げほげほと咳き込んで危なっかしい呼吸を繰り返していた。病を拗らせているのは明白だ。
そのうちに背後が明るくなって、誰何の声が追い縋る。答えたところで見逃されるはずもなく、神父はただ先を急ぐ。答えぬ神父に業を煮やした男が駆け寄ってくるが、その行く手を小柄な少女が阻む。スティカだった。どこからともなく現れたように見えた彼女に男は狼狽えたが、なんてことはない、彼女の身体能力で小ぶりな家屋程度なら跳躍一つで屋根の上を越えられる。
「神父様、ここは私が」
「テオは」
「隣の通りで護衛様と人を引き付けてくれてる」
そこに至って、男は神父の抱えるそれが捕らえていた司祭であると気が付いたのだろう。あるいは、粗末な小屋の扉が破られていたことに気が付いたのかもしれない。男が顔色を変えて声を上げようとするが、それには素早く駆け寄ったスティカの当て身が容赦なく男の鳩尾に吸い込まれて、結局その口から漏れたのは潰れたカエルのような哀れな呻き声のみだ。スティカは倒れた男を跨ぎ超えて神父を振り返った。
「それじゃあ、神父様は森に隠れてて」
「ええ、お前たちも十分気を付けなさい」
「はい」
神妙に頷いた後、少女は軽やかに跳躍して近くの家屋の屋根に飛び上がった。そのままいくつかの屋根を渡り歩いて、神父から離れた屋根の上で足を止めると、なにやらしゃがんで道具を取り出し、それを上空に向かって打ち上げた。信号弾だった。か細い音と共に打ち上がったそれは、小さな破裂音で弾けて頭上に煌々と知らせを告げる光を振り撒いた。周囲の喧騒が一層大きくなる。とうとう、侵入者が現れたらしいという知らせがこの集落に行き渡ったようだった。
ともあれ、それで神父に対する追っ手は居なくなった。スティカたちが稼いだ時間と視線の間に神父は廃村を出て近くの森に隠れる手筈になっていて、そのうちにスティカの上げた信号弾の報せを見た警察組織が廃村に突入してきて、浮き足立つこの組織を一網打尽にするというのが彼らの立てた計画だ。神父はのろのろと司祭を引きずるように森の暗がりに引っ込んで、そこで息を殺して待った。度々、司祭は危なっかしく咳き込んでその声が森の中に響き渡るので、神父は肝を冷やしたが、それだけだった。追っ手のないことを確認した神父は、咳き込む司祭に手持ちの聖水を飲ませてやった。本当は体に湧く虫たちも払い除けてやりたかったが、暗がりでは手元の小瓶の蓋を開けるのにも苦労するほどで、それはもう少し安全な場所に辿り着いてからにしましょうと司祭に声を掛けると、彼は泣きながら助かったことに対する感謝の言葉を咳き込みながら述べた。
木々の隙間から見える明かりは、神父らが廃村を後にしてきた時よりさらに増え、喧騒はいつの間にか怒号に変わっていた。近隣に潜んでいた警察が到着したのだろう。激しい怒鳴り声と一緒に剣戟の音が漏れ聞こえてくる。同じ頃、連れていた司祭が震え出した。ほとんど服と呼べるような物を身に付けていないのだから当然か、あるいは病であるのに無理を押して移動させたせいで熱でも出たのか、とにかく神父は震える彼の体に己の黒い法衣を巻き付けてやった。それがどれほど慰めになったのか神父には判別も付かなかった。座っているのは辛かろう、と咳き込む司祭の体を樹木の根元で横たえてみたが、いっかな司祭の呼吸や咳は安らぐ様子を見せなかった。早く事が片付いて、皆が迎えに来てくれれば良いのに、と神父はそればかりを考えて廃村の方角を見つめる。
と、その内に廃村から複数の人影がやって来る。ようやく迎えが来たか、と腰を浮かせかけた神父は、しかし息を潜めて人影の様子を木の影に身を隠しながら見守った。この暗闇で明かりも持たずに逃げてきた様子の人影たちは、しきりに背後を気にしているように廃村を振り返りながら小声で悪態を吐いた。
「クソ……どうなっているんだ!? ここは警察の介入もない安全な地域ではなかったのか」
「やはり聖水の売買で中央に目を付けられたのが良くなかったんだ! だから俺は反対したんだ」
「それは今言っても仕方ない。とにかく、金を持ち出せたのは幸運だった。ひとまず山に隠れて、警察をやり過ごせば……」
男の声が3人聞こえる。会話の内容からして神父の味方でないことは明白。立場はさておき、真主神信仰の構成員だろう。警察たちの包囲に関わらず、そこを突破できた運の良い者たちか、それともこういった事態を想定して資金の移動を任されていた重役か。逃して良い輩ではないが、かといって荒事に向かない神父に相手取れる数でもなかった。神父の側には病に苦しむ司祭もいる。と、そこまで考えたところでその司祭が咳き込んだ。静かな森の中でその声は虚しく響き渡り、逃げ惑っていた男たちも口を噤んで警戒を露わにした。まずいと思いつつ、今から司祭を担いで彼らと距離を取ったところで一層物音を立てて目立つことになるだけだった。神父は彼らがそのまま離れていってくれることを祈ったが、実際には男たちは声を頼りにじわじわと神父の隠れる木陰へと近付いてくるのだった。
「これは……運がいい」
一際太い木の幹からその後ろを覗き込んだ男が、木の影に隠れるようにして寝かされた司祭とその隣で彼を庇うようにしている神父を見てにやりと笑う。他の2人もその声に応えるようにやって来て、神父らを取り囲むように並び立つ。無論、非力な神父が腕っ節で敵うような相手には見えなかった。暗がりで確認はできないが、皆武装している風でもある。であれば、と神父は助けを呼ぶために大きく息を吸い込んだ。既に廃村内には十分警察組織が踏み込んでいる様子。大声で叫べば、テオか護衛か、警察の誰かも気付くだろう。人が集まれば、無頼漢も長居はすまい。運が良ければ諸共に捕らえてくれるかもしれない。
「おっと! 大声出されちゃ困るな」
ところが、神父の目論見は早々に破綻した。そうされることを見越していたのだろう、神父を取り囲んでいた男の1人が素早い身のこなしで神父に飛び付き、その口を手の平で塞ぎ、地面に引き倒す。抵抗らしい抵抗も出来ず、神父は呆気なく押し倒されてしまう。
倒れた衝撃から何とか立ち直り、神父は己を押し倒す男の下でじたばたと手足を振り回してみたが、全くの無駄だった。最初の男が神父と司祭とを見比べながら言った。
「なるほど、神父様を連れ出して、証拠として押さえておいて、俺たちを摘発する算段だった訳だ」
「う、うーっ」
神父は押さえ付けられた口の中で呻き声を漏らす。声はほとんど男の手の中で篭って、廃村まで届く気配もない。無論、助けが来る気配もなかった。唐突に、神父は自分が護衛の目の届かぬ遠くまで来てしまったのではないかと不安になった。夜の帳が下りた森の中に金の目が覗いている様子はない。何か不測の事態が?
「この男も神父では? 」
神父に馬乗りになった男が、神父の首から提げられた銀の首飾りを見ながら言った。ほう、と下衆い笑みを浮かべて残りの2人が神父を見下ろす。どうもすぐに殺される雰囲気ではないことを感じ取っている神父だが、それでもろくでもないことになりそうなのは確かだった。男の1人が、腰のベルトに据え付けられた短剣を抜いて神父の首筋に押し当てた。脅しのようだった。
「大人しくしてりゃ、命は助けてやるよ。だが、暴れたら……分かるよな? 」
神父は特別に正義感がある訳でもなく、特別に強い意志を持って悪意に立ち向かっている訳でもない。そういった単純な脅しにはあっさりと屈する。痛い思いは御免だった。それまで何とか拘束から逃れようとばたつかせていた手足を止める。従順な神父に気を良くしたか、首筋に添えられる剣の切っ先が僅かに逸れる。
「そうそう、良い子だ。それで、神父様? あんた、聖水は作れるか? 」
何を聞かれているのだろう、と怪訝に思って、その思いがそのまま神父の顔に現れる。短剣を突き付ける男は笑い、一度は離した剣の切っ先を再度神父の首筋に寄せる。今度はちくりと首筋が痛んだ。
「俺たち、聖水を幅広く売り歩く仕事をしてんだ。中央教会みたいに数を制限して出し惜しみしたりするんでなくて、欲しい奴にはその分渡すって具合にな。少し前まで、そこで寝てる神父様と一緒に仕事してたんだけどよ。神父様、病気になってからすっかり仕事の効率落ちちゃって」
妙に馴れ馴れしく、そうして自分たちは被害者だとでも言いたげな語り口で男が事情を説明する。そこの神父様、と男が示したのは勿論助け出した病の司祭。男の語りに合わせて短剣の切っ先が揺れ、その度に神父の皮膚を裂いた。神父は従順を示すように頷く。未だに口は別の男に塞がれたままだった。
「それで、さ。俺たち、新しいパートナーを探してる訳。聖水を作ってくれて、俺たちに協力してくれる神父様をさ。こんな大層なものぶら下げてるってことは、あんた聖水作れるんだろ? 」
銀の首飾りは聖職者の中でも特に悪魔祓いの印であり、悪魔祓いは一般の聖職者より一際聖水の扱いに長けるものだった。そうでなくても、神父がここで「できない」と答えたところで事態は好転するどころか悪化の一途しか辿らない。利用価値のない神父は、あっさりと殺されてしまうだろう。──それよりも、と神父は視界の端で咳き込む司祭を見やる。どう転んだとして、彼らが司祭を生かして見逃すはずはない。神父が聖水作りを断れば、その代わりとして病の司祭を連れて行くだろう。もし神父が聖水作りを承諾すれば、彼らの悪事を知る司祭から情報が漏れるのを危惧して口封じを目論むだろう。詰まる所、話が纏まり次第神父にとって都合の悪いことだけが起こり得るのだ。であれば、神父にできることはとにかく話を引き延ばすことだけだった。そうしているうちに、きっと助けが来るはずだと、そう信じる他ない。
神父は人の為に進んで自己犠牲を発揮できる男ではありませんが、かと言って何の後ろめたさもなく他人を見捨てることができる男でもありません。普通……より幾ばくか臆病なだけの男です。




