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天国か地獄か  作者: 垓
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間章5

 思えば、初めて出会った時から何かがおかしかった。

 悪魔の子と呼ばれ、教会では腫れ物を扱うように隠され、育てられてきたスティカであったが、実際彼女が悪魔の超常的な能力を発現したことなどない。それもそのはず、悪魔の魂は生まれてすぐに洗礼によって取り除かれて、スティカには悪魔の負荷に耐え得る丈夫な体だけが残された。手を触れずに物を動かす能力も、口から物を溶かしてしまうような液体を吐き出すこともない。人より少々運動能力は高いようだが、その程度だった。

 それが、何かがおかしいと思い始めたのは、『あの街』で、あの男に出会ってからだった。悪魔信仰に街全体が侵されていた異端の街で、スティカは確かに人ならざる者の気配を感じ取っていたのだ。無論、悪魔憑きと眷属たちの蔓延る街は人ならざる者共の巣窟だっただろうが、そうではない。それよりもっと大きな何かがそこにいる。近付いてはならない。けれど、どうしても気になってしまう。同行していたテオと同様、眼鏡の神父の安否も気掛かりではあったので、そんな感覚的なことを言い出す暇もなく、スティカはテオと一緒に路地に飛び込み、そうして見た。不自然に暗い路地の真ん中に、眼鏡の神父と並び立つ不思議な男を。

 以降、スティカの視界の端には度々不思議な影がちらつくようになった。それは概ね、眼鏡の神父と一緒にいる時に現れて、戯れるように神父の足下を撫でたり、時には窮地から救うように背中を引っ張ったりした。いつか、訓練場で神父の頭上に剣が降り注いだ時に見た影もそれだった。悪魔信仰との戦いで、屋根から落下したレオ神父を受け止めようとする眼鏡の神父をそっと支える影も見えていた。スティカはそれが、神父に取り憑く悪魔の姿なのだと思った。悪魔祓いは時として、祓うべき悪魔に返り討ちに遭い、己が悪魔に取り憑かれてしまうことも少なくはない。大抵、そうした時には傍目にも変化が分かるのですぐに他の悪魔祓いによるケアが入るが、眼鏡の神父は一見以前までと変わらず悪魔祓いとして仕事をこなしているようだった。そもそも、影には神父を傷付けるような害意がないように見えた。

 スティカは結局、それを誰にも言い出さなかった。神父が悪魔憑きである、などと確証もなく言い出すことは憚られたし、唯一の根拠である悪魔の姿も他の者たちに見えている様子はない。となると、それが見えるのはスティカのみであって、これこそが悪魔の子の証なのだと認めることになってしまう。スティカはそれを恐れていた。スティカは間違いなく悪魔の子であるが、不可思議な能力の発現はこれまで認められておらず、そのために聖騎士として教会の監視下にあることを条件に、ある程度の自由を許されている。随分とテオが教会に掛け合ってくれたことも、本人は言わないが知っている。そんな幸福な現状を壊しかねない情報を、敢えて口にすることは彼女はできなかった。

 スティカの心配など露知らず、眼鏡の神父は不思議な護衛に守られて、全く不自由なく暮らしている。テオは慇懃無礼なその護衛を快く思っていない様子だったが、あれは親しい先輩神父に別な友人が出来て嫉妬しているのだとすぐに分かった。スティカより一回りほど歳上であるのに、テオはそういったところで子供らしい一面を見せるのだ、と内心でスティカは訳知り顔で思っている。本人に直接言うと、理路整然と反論してくるので言いはしないが。

 何度か会って話す内に、スティカはその影が見えているのが自分だけではないと気が付いた。時々、不思議な護衛の視線が影を追っている。彼にも見えているのだ、と気が付くと妙に安堵した。誰にも言えずに胸の内にわだかまっていたものがすっと溶けていくようにさえ思えた。同時に、もしや彼は自分と同じなのでは、とすら考えた。丸腰で、武装したスティカを圧倒するような男だった。彼もスティカと同じように、悪魔の子として生まれ、育ち、そうして強靭な肉体を持っているが故に不思議な力を宿しているのではないか…。

 そんな期待から、スティカは自然と護衛に話し掛ける機会が増えた。武人としての憧れもあるし、粗野な口調ながら護衛は随分と博識で世間知らずなスティカには耳新しいことを教えてくれた。勝手に同族意識を抱いていたのだろう、兄がいれば、このような雰囲気だったかもしれないとすら思っていた。

 そうではないのだ、と護衛の足下に蠢く影を見てスティカは悟った。護衛には影が見えて当然だ。影こそが護衛の一部であるのだから。いや、あるいは護衛こそが、影の一部であるのかもしれない。同族などと、おこがましい。これまで退治してきた悪魔憑きとは、別な何かがそこにはいる。初めて出会ったその時から、スティカは感じていたはずだった。「大きな何か」がいると。あの路地にいたのは、本当に護衛と神父だけだったのか?思い出す。不自然に暗い路地。月の明るい晩に、どうしてあの路地だけ光の差し込まないことがあるだろう。暗かったのではなく、暗闇こそがそこにいたのだ。スティカの視界の端に度々映った影の本体が、あの日彼女たちの目の前にいた。

 どうして──。思うのは、そんな得体の知れない護衛と一緒にいる神父の思惑だ。確かに、出会った当初は随分と怯えていたようにも見えたし、お世辞にも仲が良いようには見えなかった。一度は決別までしていたが、その後何があったのか、2人は元の鞘に収まった様子。神父は護衛の正体を知っているのか。知っていて側に置いているなら、何故──。

「スティカ」

 名前を呼ばれてスティカは我に返る。真主神信仰の襲撃を退け、脱走者を出すこともなく、8名の黒騎士全員を捕らえ、テオらを売ろうとした御者も捕らえて縛り上げてある。テオは神父らの乗ってきた馬車の座席に横たえてある。しばらくすれば目を覚ますだろうとの神父の言葉はスティカを安堵させたが、それでも全ての不安を払拭することはできない。神父の斜め後ろに立つ護衛の男をこそ、本来は祓い退けなければならないのではないか。だが、銀の剣を持ってしても巨大な彼の本性に敵うとは思えず、実際頭から聖水を被っても全くの無反応だったところを見ると、その予想は間違いでもないと確信できる。

「先程は簡単にしか確認できませんでしたが、あなたもどこか怪我をしているのではありませんか?」

 神父は心配そうにしながら、聖水を浸した濡れタオルで汚れたスティカの顔を拭いてくれる。小さな切り傷や擦り傷に沁みるが、これを拒否する理由はない。こっそりと神父の後ろに立つ護衛を盗み見ると、スティカを脅すでもなく、詰るでもなく、面白がるようにこちらを見ていた。

「ありがとうございます…でも、私は怪我してないから…」

「本当に?怪我を隠していたら、私が司教様に叱られてしまうんですよ」

「本当です。…私より、護衛様が」

 話題を逸らすように護衛を指差すと、神父は目に見えて面倒そうに顔を顰めて護衛を振り返った。無論、護衛は無傷だった。

「あなたの怪我なんてツバでも付けとけば治るでしょう」

「神父様、舐めてくれんのか?」

「はぁ?あなたじゃないんですから、私はそんな………」

 何かを言いかけて神父は口を噤んだ。護衛が噴き出し、笑いを堪えるように顔を逸らす。何が、と問いたげにしているスティカに気が付いて、神父は咳払いをしながら彼女に向き直った。

「…護衛の心配まで、ありがとうございます、スティカ。でも彼は大丈夫、こんな軽口が叩ける程度には元気なのですから」

「軽口って?」

「冗談って意味です」

 きっぱりと言い切って神父は再度護衛を睨む。護衛は目も合わせずに頭の後ろで両腕を組んでいる。全く堪えた様子もない。ふと視線を落とすと、客車の床にもランタンが照らす灯とそれを遮って出来る影とが入り乱れている。そこに異様な影が混じっていたとして、それを判別することは困難に思えた。

「神父様は…」

 思わず口を開いている自分に、スティカ自身が一番驚きつつ、それでも話を聞く態勢を整えてくれた神父の顔を見ると抑え切れない。護衛がどんな顔をしているのか、確認するだに恐ろしくてそちらを極力見ないようにして、スティカは問うた。

「…護衛様のこと、…どう思ってるの?」

 もっと他に選ぶべき言葉があっただろうが、スティカの少ない語彙力ではこれが限界だった。護衛の得体の知れない恐ろしさを、近くにいる神父自身が一番知っているはずだ。あるいは、護衛は彼の前では猫を被っているのかもしれないが、それなら一度は護衛を解雇しようとした説明が付かない。それでいて、また一緒にいる判断をしたのが、スティカには不思議でならなかった。もし、万が一、何も知らずに側にいるなら、それはあまりに危険なはずだ。

 神父は、スティカの深刻な調子の問い掛けとは対照的に、さほど考え込むでもなく答えた。

「よく分からない方、ですね」

「え…」

「こう見えて、怒ると怖いんですよ。結構乱暴ですし、機嫌が悪くなると態度に表れる。そのくせ、何が彼の気に障るか分からないので、私は日夜、彼のご機嫌窺いに必死なのです」

 神父は溜息を吐きながら、護衛本人がいる目の前でそう愚痴った。思わずスティカは護衛の顔を見てしまう。こんなことを面と向かって言われて、あれがどんな風に怒り出すのか…との心配は杞憂に終わる。護衛は愚痴る神父を見つめてくつくつと肩を揺らして笑っていた。

「乱暴なのは神父様の方だろうが。怒るとすぐ手が出る」

「私の手なんて当たったことないじゃないですか!」

「いやいや、さっきの頭突きは効いた」

「あれは私も負傷したので痛み分けでしょう」

 いつの間にか向き合って言い合いになっている神父と護衛を前に、スティカはポカンと口を開けてその様子を見守る。言葉は乱暴だが、彼らが本気で言い合っていないことなど明白だった。喧嘩するほど仲がいいとは誰が言い出したのか、こういうことなのかと納得さえする。

 だから、と腑に落ちる。恐ろしい何かが護衛の正体だとして、それでも神父は構わないと思ったのだ。護衛は護衛で、そんな神父をどういう訳でか随分と気に入っている様子で、そもそもテオにしても、先の護衛ブラッドフォードにしても、妙な人に好かれやすい性質の神父であるのだと思い出す。もはや、そこにスティカが口出しできるような隙間はなく、2人は2人にしか分からない了解の上にこうして共にある。

 仲良しなんだね、とは口には出さず、胸に留めておける程度にスティカは大人になった。侃侃諤諤と言い合う神父と護衛は、結局テオがその声に目を覚ますまで続いたのだった。

多分私は、聖水のことをアルコールとか、重曹とかと混同しているんだと思います

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