天使のお告げ
白い。視界の全てが白かった。天地の区別すら定かでなく、見渡す限り眩しいほどの白が埋め尽くす。実際、眩しいと感じていた。光を遮ろうと伸ばした己の手さえ白く反射していて、神父は目を細める他ない。
調子外れな子供の笑い声が聞こえる。周囲に子供の姿はない。あるいは、この眩しい光の中に埋もれているのかもしれないが、それを確認する術はない。笑い声は耳に心地良く、数人の子供達が幸福そうにじゃれ合っている光景が想像できた。
名前を呼ばれた、気がした。
顔を上げると、一際眩い光に包まれた何かが目の前に降り立って、そうして言った。
「──よ、お前の献身と服従に、主神は大層お喜びだ」
厳かな口調とは裏腹に、聞こえてくる声は周囲の笑い声と同様に随分と幼い。漠然と、神父はこれが天上からのお告げなのだなと直感した。夢枕に天使が現れ、お告げを下す。そうして祝福された聖職者は、様々な奇跡に見舞われ、一層主神への信仰を深める──。
光に包まれたままの天使は続けた。
「その清らかな魂に、更なる愛と祝福を。天の国の門は、いつでもお前の前に開かれている」
ふと天使が動く気配がして、神父もまた動きにつられて天使が示したと思われる方向を見やる。眩いばかりの光の世界に、遠く巨大な門が見える。天まで届くような高さのそれは、これだけ離れていてもその全貌を視認することは難しく、はるか上層には霞みがかっていた。周囲の子供達の笑い声が離れていく。門の方に向かって行ったようだった。
「無論、お前が望めばこのまま天の国へ招くこともできる」
温かなものに背中を押される。このまま歩いて行けば、それが許されるのだと分かる。死後、人間の魂の行く先は二つに分かれる。主神の統べる天上の国か、あるいは魂の罪を洗い流す地底の国か。生前の行いと、それより以前の前世の行いを加味されて、天使がその行き先を定めている。
「天の国に招かれることは、これ以上ない幸福である。主神の慈悲を受け、我々は苦しみが蔓延る現世から解き放たれ、主神に直に仕える誉を得る」
天使は耳元で囁いた。
「主神の御許で、我々は恐怖もなく、老いもなく、病もない。喜びだけがそこにある。さぁ、早く、魂が穢れてしまうその前に…」
一層強く背中を押され、神父の足は一歩、また一歩と前に進み出る。どうしてここにいるのかも考えられなかった。ただ、行くべきだと言われるのなら、そうなのだろうという気持ちだけが足を進ませる。何か、やるべきことがあった気もするが、思い出せない。しかし、幸福である。この光に包まれていることは、きっと幸福なことに間違いない…。
「随分焦ってるんだな?」
唐突に、聞き慣れた声がして、腕を引かれる。踏み出しかけた足を引き戻される。光ばかりが支配するそこで、異質な黒い影が神父の足元に広がる。振り仰ぐと、一軒家ほどの大きな影が神父の腕を掴んだまま背後に佇んでいた。その輪郭は、光に照らされるせいか境界も曖昧で全容を追えないが、金色の六目だけが変わらず小馬鹿にしたように細められる。化け物だ、と思い至ると靄がかっていた思考が澄み渡る。そうだ、天の国に行くにはまだ早い。
気が付くと、光に包まれた天使と影の中の化け物は、神父を挟んで対峙していた。
「夢現の世界から、魂だけ引き抜こうってか?天使様はやることがえげつない」
「…なるほど、邪魔していたのは貴様か」
それまで無機質に語りかけるだけだった天使の声音に不愉快の色が混じる。
「主神の意向に背くなど、恥を知るがいい。庇護されぬ者よ」
「庇護されてねーから、そっちのおっさんに気遣う必要もなくてな」
「………不敬な!」
一際光が強くなり、神父はもはや目も開けていられなくなった。何かに縋らなければ、と手を伸ばした先にあった化け物の体らしき部分に触れる。冷たく硬い鱗のような肌触りが不思議だった。その鱗が震えて喋る声が神父の骨に直接響く。
「そっちの神様とやらの横暴は目に余る。たまには思い通りにならないこともあるんだって、教えてやったらどうだ?」
「主神の思い通りにならぬことなどない。あってはならない!」
「そうだな、そうなると不興を買ったお前が堕天させられるかもしれない」
天使が閉口した。あまりの暴言に返す言葉も失ってしまったらしい。喉の奥で笑う化け物の声は、普段よりも獰猛だった。
「気難しい上司を持つと大変だな?同情するぜ。もし堕天して魔界に来たら、多少は優しくしてやるよ」
「──」
激昂した天使が何かを言いかけたところで、神父の意識はぶつりと途切れる。
目が覚めた。見慣れた天井があり、布団からはみ出た二の腕が肌寒い。体を起こすのが億劫で、目だけを動かして部屋の中を見る。部屋に招き入れた覚えのない護衛が、勝手に椅子に座って机の上に積まれた本を読んでいた。
「よう」
神父には目もくれずに護衛が言う。のろのろと体を起こしながら、神父はぼやいた。
「えー…今のは…」
「お告げだなぁ」
ページをめくりながら答える護衛は、確かに人の形をしていた。それでも鱗のしっとりとした感触がいまだに手に残っているようで、神父はしばらく護衛の姿を見つめてしまう。では、やはりあれは単なる夢ではなく。その夢に現れた化け物も、神父の願望ではなく本人そのものだったという訳だ。
だんだんと脳が活動を再開し始め、神父は考える。天上へ招かれた。天使のお告げといえば、歴史に残るような聖女や聖人たちも耳にしたという文献が残る。とはいえ、神父はそもそも熱心に天の国に行きたい訳ではなかった。寧ろ、神父がやりたいことは現世にのみ集約していて、だからこそ確実に特権の確約される司教の座に就くために、こうして悪魔祓いの仕事をこなして寄付金を集めている。だが、あれが主神に仕える天使なのかと思うと、唐突に不味いことをしたのだと気付かされた。飛び起きて、神父は頭を掻き毟った。
「ど、ど、どうしましょう!天使様の不興を買ったら、もはや聖水を作ることもできなくなるかもしれません!」
「…試してみるか?」
護衛はようやく本を閉じ、立ち上がると勝手に流しのコップを取り出して水を汲んだ。それを神父に手渡して、聖成してみろと無言で促す。恐る恐るそれを受け取り、神父は固く目を閉じながら祈った。間。目を開けてコップの水を覗き込む。水であることには変わりないが、ほのかに光を反射して煌めくそれには確かに聖性が宿っていると知れる。特別時間をかけた訳でもなく、精度も変化はしていない。ほ、と肩から力を抜いて、神父はコップを床に置いた。
「よ、良かった…」
「それだけお前の魂が魅力的で、天使共も放っておけないって訳だ」
喉の奥で笑いつつ、護衛はそのコップを取り上げて流しに戻した。
「例えお前が今から殺人鬼になったとしても、前世の行いで磨き上げられた魂は健在だからな。主神が諦めるまで、天使はお前を見放さないどころか、見逃しはしないだろう」
祝福を与えるということは、天上へ招かれる心算をせよとの事前通告でもあるのだ。主神の言葉を伝えるのみである天使の好き嫌いはそこに介在しない。護衛の言葉に一層安堵して、神父は大真面目に頷いた。
「それを聞いて安心しました。今、文無しになってしまっては、私の人生計画が丸潰れになるところでしたので」
「…お前に祝福を与えなきゃならん天使にも同情するな」
一瞬でも、天に見放されたことを恐れた神父かと思ったが、彼にとっての祝福とは仕事をするのに都合のいい技能のように思われているようだった。
稼ぎは決して少なくない男だ。教会でも稼ぎ頭とすら呼ばれるほどの働きである。しかし着ている服に華美な装飾はなく、住んでいる住居も古びた集合住宅。清貧を美徳とし、基本的には財産を持たない聖職者としてはあるべき姿かもしれないが、彼はさほど熱心な主神教の信者でないことは十分知っている護衛には不可解だ。その金が教会に寄付金として寄贈され、その献身を認められて将来の地位が約束されているとはいえ、神父はそういった地位や名誉にもさして興味があるような男には見えなかった。
「その人生計画ってのは、司教になることか?」
「はい?ええ、まぁ」
だいぶ普段の調子を取り戻してきたのか、神父は部屋のカーテンを開け、布団を畳み、郵便物の仕分けに取り掛かって、護衛のことはそっちのけで身支度に忙しい。おざなりな返事にも気分を害すことはなく、護衛はさらに問うた。
「司教になると、何かあるのか?」
「司教になれば、それは……」
言いかけて、はたと神父は動きを止める。そのままぎぎぎと音がなりそうな仕草で首を回して護衛を見やる。眉間に皺を寄せ、目を細めているのは彼が眼鏡をかけていないからで、機嫌が悪い訳ではないはずだが、今初めて護衛が何故部屋にいるのかを考えたといった様子だった。
「…っていうか、なんで勝手に部屋に入って来てるんですか?」
「そりゃお前、神父様の身を一番間近で守る為に決まっているだろう」
にたにたと笑いながら、顎に手を添えて護衛が答える。無論、夢の中ではどうも助けられたらしい…多分…が、だからといって部屋にいつまでも居座られるのは許しがたい。無論、影の中に潜む化け物の本体は、常に部屋の中と外を自由に行き来しているだろうが、それはさておいて。
「出てってください!」
「はいはい」
気が付いてしまえば、追い出す他ないのだろう。そこまで心を許しているつもりはない、と口先だけでも言わないと気が済まない神父は、護衛の背中を押して部屋の外へと追い出していく。護衛の方も居座るつもりはないらしく、そのまま大人しく玄関口まで押されていって、扉を開ける直前に神父を振り向いてにたりと笑った。
「じゃ、神父様。くれぐれもお怪我のないよう気を付けて」
言って、神父の手をすり抜けるように護衛の姿が搔き消える。足元の影に溶けて消えてしまったのだ。追い出すまでもなかった。それならおとなしく押されたりせず、さっさと立ち去れば良かったのに、と鼻から息を吐いて神父は思う。ふと床に消えた影が妙な傷など残していないか心配になって、鼻先を近付けて確認する。古い建物の木の板には、いつ付いたのかも分からない古傷しか付いていなかった。
初めて天使が出てきました。無論、化け物とは仲が悪い




