お墨付き
執務室に流れる空気は、異様な緊張感に包まれていた。当事者であるはずなのに、神父は向かい合う司教と護衛を見て蚊帳の外な空気を感じ、はらはらと視線を彷徨わせていた。司教は護衛のことを悪魔の子だと思っている。悪魔の孕ませた禁断の子。出生がそもそも異端であるから、育った子供もまた異端。護衛は中途半端に司教の言葉を肯定するので、誤解も加速する。無論、彼が悪魔そのものなのだと──あるいは、人間たちが悪魔と呼ぶ存在とは異なる化け物なのだと──そう説明したところで、事態が好転するとは思えない。ともあれ、神父にとっては進退窮まった状態だった。司教に良くしてもらった恩義を感じてこれまで過ごしてきたが、神父の異端は追求されるだろう…。
ところが、司教は溜め息を吐いて、乗り出していた身を長椅子に戻した。彼は冷めてしまった紅茶を口に運び、言いたいことも一緒に飲み込んでしまったようだった。
「確かに、我が弟子は神に愛されているが故か、本人の気質のせいか、少々危なっかしいところがあります」
「本当に」
「もちろん、あなたが護衛に付くからには、それらの脅威から守ってくださるのでしょう?」
何気なく放たれたその言葉に、護衛は笑みを深める。司教の根回しよりも確実に神父の命を守ってきた男だ。その表情が慢心や驕りではない自信の表れであるのはもはや明確だった。そもそも、警戒を露わにする女騎士にすら一瞥もくれないのは、そういうことだろう。ところが、その言葉に立ち上がったのは、守られている方の神父だった。
「い、今の話を聞いて、彼を護衛に認めるというのですか!」
少々大らかなところのある司教であるとは思っていたが、ここまで大らかとは思っていなかった。無論、異端審問に突き出されないのは神父にとって都合が良いが、護衛の素性を怪しんでいた司教が手のひらを返すように護衛に神父の命を預けるのも納得がいかない。
司教は呆れたように肩を落とす。
「彼を護衛に選んだお前がそれを言うかい?」
「そ、それはそうですが…!」
神父の場合は不可抗力だったのだ、とは司教に訴えても仕方ない。化け物に比べれば、悪魔の子くらい神父にとっては可愛いものだが、それを敢えて指摘するような愚鈍な真似はしない。とはいえ、これまでよく面倒を見てきてくれた司教に迷惑がかかることも神父には耐え難かった。
「もし、このことが外部に知られれば、司教様も異端に問われます。そのようなことは…」
「…あのね、今私が共犯者になったのだと思っているとしたら、それは違うよ」
諭すように司教が続ける。
「私の部下である以上、お前がその護衛殿を連れてきた瞬間から、私はお前と運命共同体なのだよ。私が真実を知ろうと知るまいとね。もし、お前を異端だと問い詰めたら、私も同じ罪で教会から迫害されるだろう」
「あ」
今気が付いたというように神父は顔を青くする。実際、今気が付いたのだろう。迷惑をかけないつもりでいたが、とっくに司教は火の粉を被っていたのだ。生真面目そうに見えて、そういう迂闊なところが神父の悪いところだと司教は思っている。無論、そういう危なっかしさが目を離せなくて世話を焼きたくなるとも言えるのだが。
司教はそのまま護衛に向き直り、言った。
「だが、この地位にも至れば隠し事の一つや二つ、どの司教にもあるものです。今更それが増えたところで、私には痛手ではありません。それよりも」
ちら、と司教は神父を見やる。
「…この部下を失う方が私には痛手だ。その点、護衛殿の仕事は信頼できる」
「ありがとうございます」
厚かましくも護衛はにこやかに微笑んでそう答えた。
「これまで問題なく過ごしてきたのですから、お前たちが私や教会に害意のないことは何となく分かっているつもりです。であれば、熱心に異端審問に掛けるよりも、お前たちを敬虔な信者と見做しておく方が、私にとっては都合が良い」
「司教様」
単に優しさだけではない、合理的な理由があるのだと言われてしまうともはや神父に反論はできなかった。隣で護衛が肩を揺らして笑っている。机の下で足でも踏んで、せめて感謝の素ぶりくらいは見せろと言いたい神父だったが、神父の拙い攻撃など脚を組み変えて易々と躱してしまう護衛である。司教は続けた。
「とはいえ、お沙汰無しとはいきません。先にも言いましたが、そもそもはお前たちが仲違いをして、周りを巻き込んだことが遠因です。奉仕活動を命じましょう」
それでも軽すぎる沙汰ではあるが、神父は頭を下げてそれを受け入れる。
「謹んでお受けいたします」
「場所や日時などは追って知らせましょう。では、今日のところはこれくらいで良しとします」
司教がそう告げるのを聞いて、神父は頭を下げたまま息を吐いた。何とか首が繋がった。護衛の存在について、司教公認となってしまったことは喜ぶべきなのか、複雑なところではあるが、目下の心配事は払拭されたと思って良いだろう。護衛自身に関しても、どうやら護衛の任に付くことに乗り気なようで、ひとまずは元の状態に戻るのだから成果としては上々だ。既に護衛を追い払って平穏無事に過ごすことなど思い付かない程度には、神父の生活は護衛の存在に侵食されているが、彼がそのことに気が付く機会は不幸にして訪れない。
司教の執務室からの退室を許され、神父と護衛は並んで外に出る。行くあてなどないので、そのまま帰途に付く。護衛は黙って後ろを付いてくるが、それを咎めることはしない。ふと、ブラッドフォードはずっと隣を歩いていたことを思い出して神父は苦笑する。なんとなくやり辛いと感じていたのは、既に後ろを影のように付いてくる護衛に慣れてしまっていたからだ。
「ありがとうございました」
思わず口を突いて声が漏れる。言ってから、失言だったと思ったが、後ろの護衛はさして気にした様子もなく鼻で笑った。
「お前の上司、面白かったな。この弟子にしてこの師匠ありって感じだ」
「褒め言葉でしょうね?」
「もちろん。部下に自白剤盛るとは驚いたぜ」
さすがに振り返る。今更遅いが喉を押さえる。護衛はニタニタと笑って神父の様子を見ている。瞬時に神父の脳内では執務室での出来事が反芻される。──最初に飲み物を勧められたのはそのため!であれば、自覚なく不都合なことを言ってしまっているのではないか。己の発言を振り返ってみるが、その作業は護衛の声に遮られる。
「だから、最初に冷ましてやっただろうが」
「そんなことで自白剤の効果が薄れるとでも…って、何かしたんですか?」
「人間用の薬くらい、無毒化するのは訳ないな」
護衛が何でもないことのように呟く。では、子供扱いされたと思って激怒していたあの瞬間、化け物の得体の知れない力でそれは行われたのだ、と神父は戦慄する。あれだけ大勢の前で、堂々とそんなことをしでかすなんて。とはいえ、自白剤など素直に飲んでいては、神父は何を口走っていたか知れない。それだけ司教も護衛の為人を見極めるのに手段を選んでいられなかったということだろう。結果、彼の目鏡に適う人物であると──利害の一致という背景ながら──ひとまずは認められたのだから、文句の付けようはなかった。
護衛は、その後神父の住居の前まで付いてきて、そのままふと目を離した隙にいなくなっていた。以前までと変わらない在り方だった。別れを惜しむような素ぶりもなく、明日の再会を約束する言葉もない。そもそもそんな関係ではないのだから当然だが、ブラッドフォードと過ごした2週間はそれが毎日のように繰り返されて苦痛だったのだと今更気が付く。
化け物は、太陽が遮られた影の中にそのまま潜んでいる。それは神父が住むボロアパートの落とす影でもあり、神父の部屋の中に置かれたテーブルの影でもある。護衛の男としての姿はあくまで神父が化け物の姿に怯えないようにするための道具であって、彼の本質ではないのだ。寝床など当然必要はないし、司教が探し求めたような彼の素性など見つかるはずもなかった。
何となく、気分が乗って帰宅した直後から神父は部屋の掃除を始める。掃除といっても床に落ちたものを拾い集め、机の上に積み上げたり、クローゼットの中に押し込んだりするだけだが、足の踏み場がようやく生まれて神父は随分満足していた。自分だって、やる時はやるのだという肯定感さえ生まれる。いつかの拭き取りそびれた血の痕さえ、自分で聖成した聖水で掃除する程度には気持ちが乗って、随分とこざっぱりとした部屋になった気がした。どうせなら、体も洗い清めてしまおう、と少々早いが神父は着替えを用意して浴室へと向かう。適当に束ねた髪を解き、眼鏡を外し、上着の首元を緩めたところで違和感を覚えて眼鏡を掛け直す。向かい合った鏡にちらと映った己の姿を凝視する。シャツの首元を更に広げて確認する。噛み付かれた左肩には依然として痛々しい傷跡が残っているが、反対の右の首筋に、見覚えのない赤黒い痣ができていた。虫にでも刺されたような小さな痕だが、人間の唇の形をしたそれがいつできたものなのか、即座に思い至って神父は呻く。──あの化け物!!
「なんてこと、してくれてるんですか…!」
大慌てで服を脱ぎ去り、浴室に駆け込んだ。蛇口を捻って流れ出した水を頭から被りながら、神父は己に付けられた痕を洗い流そうと躍起になるのだった。
皮下出血だから洗っても落ちませんけどね




