唾を付ける男
「神父様」
護衛が振り返らずに言う。怒っているのかそうでないのか判断材料に乏しい声だが、少なくともあまり機嫌は良くない、と神父は察する。護衛はそのまま続ける、
「神父様は本当に面白いなぁ。あんなに怯えて逃げ回っていたくせに、死にそうになると俺に助けを求める訳だ」
責められている。当然だ、散々怯えて忌避していたのに、都合のいい時だけ頼り縋るなど虫が良すぎるというもの。言い負かされそうになる神父だったが、すんでのところで思い留まる。いや、そもそも。怒っているのは神父も同じなのだ。
「では、言わせてもらいますけどね」
護衛が振り向かないことが一層恐ろしかったが、今度は逃げ出すつもりはない神父である。正体が分からず恐ろしい。気まぐれにその凶暴さが己に向くことに血の気が引く。それでも、壁伝いに立ち上がり、対等に向き合えるように両足を踏みしめる。
「大体、あなたが何をするつもりなのか、最初にしっかり説明してくれていたら、私だってあんなに泣いたり怯えたりしませんでした!」
2人の間では、完全に伸びているブラッドが床に潰れて沈黙しているが、もはやそれすら見えていないかのように神父はびしりと護衛だけを指差して語調も荒く言い切った。まさか、窮地に駆け付けて助けてやった相手が、しおらしい態度で礼を言うならいざ知らず、剣呑に目を細めて己を糾弾して来ようとは思っても見なかったのだろう、護衛は金色の目を丸くして振り返り、珍しく笑みを浮かべるのも忘れた様子で神父を見た。
「いきなり引き倒して、いきなり噛み付いて、そんなことされたら誰だって驚いて腰を抜かすに決まっています!」
「…それで?」
静かに問いかけてくる護衛の声が恐ろしかったが、神父は逃げ出そうとする足を懸命にその場に押し留める。
「…やり直しを、要求します」
言いながら、神父が法衣を脱ぎ、シャツのボタンを外し始める。おいおい、と思わず止めようとする護衛の前で上裸になった神父は、脱いだ服を部屋の隅に放ってガーゼの当てられた左肩──ではなく、無事な右肩を示して言う。
「さぁどうぞ!」
「いやどうぞって」
「勝手が分かれば怯えることもありません。味見でもなんでもお好きになさってください」
ふんす、と鼻息荒くそう告げる神父は、しかし差した指先が震えていた。怯えることはない、とは言ったが、痛みを完全に忘れた訳ではない。懸命にその場に踏み止まろうとしているだけだ。獲物の方がさあ食えと捕食者を挑発している。しばしの沈黙の後に、唐突に護衛は声を上げて笑い出す。普段からよく笑う男だが、大口を開けて笑う姿は珍しかった。
その意図が汲めずに神父は困惑した様子で縮こまった。
「な、なんですか…?やっぱりまだ怒ってるんですか…?」
「だから、最初から怒ってないって言ってるだろ」
これは、神父なりの感謝と謝罪の気持ちの表れだった。護衛、こと暗闇に潜む化け物が、交渉に応えて要求を呑んでくれたことに対する感謝。彼の誠実を疑い、必要以上に怯えて手間取らせたことへの謝罪。それを併せて、先回の味見の再現を申し出ている。無論、悪魔に対して誠意など見せる必要があるだろうかという傲慢も頭の片隅には残るが、概ね誠実に神父との交渉に応じてくれている護衛に、この程度の報いはあってもいいだろうというのが神父の持論だ。簡単に言うと絆されているとも言う。
神父の意図がどの程度護衛に伝わったのかは定かでないが、護衛は進み出て神父の肩を掴む。まだ以前の味見の傷が塞がり切っていないので、ガーゼの上から力を込められると随分と傷んだが、それに関して神父は文句を言わなかった。ゆっくりと護衛が口を開き、そのまま首筋に近付いてくる。まざまざとあの晩のことが思い出される。噛み殺されるかと思った。死よりも恐ろしい物を覗き込んでしまったようだった。チカチカと明滅するような痛みの記憶が蘇る。自然と体が震え、冷や汗が吹き出る神父だったが、固く目を閉じ、口を引き結んで来たる衝撃に備えることで、なんとか漏れそうになる悲鳴を噛み殺した。
「痛」
ちくりと抓るような感覚に思わず神父は声を上げる。だが、想像した激痛はいつまで待っても続かない。すいと離れていく護衛は舌を出して唇を舐めて見せるが、そのどこにも血の痕は見えない。慌てて神父は痛みを感じた右の肩口に手を這わせる。肉が抉れた形跡はおろか、血の一滴すら出ていなかった。
「えっ?お、終わりですか?」
前回と同様、獰猛に食い荒らされるものと覚悟を決めていた神父には拍子抜けする味見だった。歯を立てられることもない。きちんと見ていた訳ではないので分からないが、恐らく口を付けただけ。
「なんだ、もっとやって欲しいのか?」
護衛が尖った歯を見せて笑う。さすがに自ら進んで傷を負いたいとは思わない神父はぶんぶんと全力で首を振ってそれを固辞する。それで済むなら神父としてもありがたかった。いや、そもそも口を付けるだけで済む味見があるなら、前回のは何だったのか。あるいは、怯える神父に配慮した護衛の優しさであるのか。問い詰めようかとも思ったが、下手に突っ込んでまた護衛の逆鱗に触れてしまうのも避けたいところである。触らぬ神に祟りなし、触らぬ悪魔に怒りなし。身構えていただけに釈然としないままに神父は投げ捨てた服を拾い上げる。
そんな折、神父の背後に立った護衛が、神父の左肩のガーゼを引き剥がす。治りかけの皮膚がガーゼと一緒に破れて剥がれ、寧ろそれが今日一番の激痛で、神父は思わず悲鳴を上げた。
「いっっっ…!何するんですか!」
「いやぁ、傷残ったなと思って」
「誰のせいだと…」
恨めしげに護衛を睨み上げる。くっきりと歯型の形に抉れた肩口の傷は服を着るのにも難儀するし、左右に首を振るのにもしばらく苦労した。剥がしたガーゼを眺めつつ、護衛はぼやく。
「まぁ、ちょうどいいかもな」
「はぁ?」
ようやく普段の人を食ったような笑みを浮かべて、護衛は金の目を細めた。憎たらしいはずなのに、その顔を見ると神父は安堵する。基本的に、護衛は友好的だ。彼の機嫌を損ねない限り。この2週間、神父は護衛の機嫌を損ね続けてきたが、何が功を奏したのか、彼の機嫌は普段通りに戻った。
「文字通り、唾を付けた訳だ。誰かの食いかけなんて、俺なら願い下げだからな」
帰宅したら、絶対に全身を石鹸で洗い流そうと心に決める神父だった。
「神父様!ご無事ですか、…!?」
唐突に、扉が押し開かれて、武装した女騎士が雪崩れ込んでくる。続いて厳しい表情の司教までもが姿を表し、室内には途端に緊迫した空気が流れる。最後に大柄な男の騎士が扉の木枠を屈んで潜る頃、既に抜刀している女騎士が素早く室内の様子を確認し、そうしてぽかんと口を空けて固まった。同じく驚いたように目を丸くして固まっている神父は床に散らばった書類を集めており、今日不採用の通達を受ける予定だったブラッドは部屋の隅で気絶している。そうして部屋の真ん中に置かれた机に腰掛けているのは、前任の護衛の男だった。
神父は司教たちの視線を追って、顔を青くした。そのまま集めた書類を放り出して、庇うように護衛の前へと走り出る。
「お、お待ちください、これには訳が」
「何があったのです」
厳しい司教の声が飛ぶ。はい、と背筋を正した神父が叫ぶ。
「ブ、ブラッドさんが…その、乱心して。私と心中しようとしたところを、この護衛に助けられました!」
「ここは人払いをしていたはずです、あなたは何故ここに」
続けて司教の厳しい視線が護衛に向くと、護衛は神父を見つつ肩を竦めた。
「神父様は目の離せないお方なので」
「それは質問の答えでは……まぁ、いいでしょう。マリナ、ブラッドフォードを拘束しなさい」
司教が鋭く女騎士に命じる。彼女は小さく頷き、倒れるブラッドの両手を後ろでに縛った。思わずその様子に神父が声を上げる。
「し、信じてくださるのですか?」
一見、室内の状況は錯綜している。ブラッドは抜刀していたが、神父の発言を裏付けるような証拠もない。ところが司教は、神父の言葉一つでブラッドの処遇を拘束という形に定めた。司教が眉間に寄せた皺を僅かに緩めて息を吐いた。
「お前が私に嘘を吐いたことがありましたか?」
「い、いえ…」
「では、疑う理由などないはずです。無論、言っていないことはあると思いますが」
司教が護衛のことを言っているのは明らかである。神父は叱られたように縮こまる。これからお説教が待っているのは間違いなかった。ただ、と司教は続ける。
「それだけが理由ではない。ブラッドの為人を知ればこそ、もしかしたら、という危惧はしておりました」
「もしかしたら?」
「お前のことを随分と好いていたようなので、例えば不採用を苦にしてお前と心中しようとするとか」
神父は何とも言えない顔をする。神父は、ブラッドの親切を護衛という職務に付くための熱心さの表れだと理解していた。だが、傍目には彼の親愛が神父1人に向いていることなど明らかで、その上神父が煮え切らない態度なので、彼に違った意味で期待を持たせてしまっているかもしれないことを、神父以外の周囲の人間はおおよそ危惧していたのだ。項垂れ、恥じる。己の優柔不断な性格が招いた一連の出来事である。護衛との決別然り、ブラッドの乱心然り。
「それにしては、いらっしゃるのが随分遅かったのでは?」
唐突にそれまで黙っていた護衛が口を挟む。問われるまで言葉を発することのなかった護衛が自ら発言することがあるとは思っていなかったらしい神父が飛び上がる。女騎士と男の騎士とが、司教の到着が遅いことを詰るような護衛の物言いに顔を顰める。唯一司教だけが表情を変えず、護衛の不敬な言葉に対して淡々と返した。
「…場所を変えましょう。私の部屋にいらっしゃい」




