前任の護衛
愛想笑いすら浮かべることもできず、ただただ困惑の表情でもって神父は首を傾げた。
「えっと…」
慕っている。言葉通りに受け取るなら、尊敬しているとか、そういうことだろう。出会った当初からそれは隠そうとしないブラッドであった。銀の剣の聖成を行ったことに端を発し、神父を敬愛しており、護衛を名乗り出たのもそういう経緯があったからだ。
だが、ブラッドの熱の篭った視線を受けて、なおそんな惚けたことが言えるほどに神父も愚鈍ではない。ブラッドのほんのりと上気したその顔は真剣そのもので、神父の腕を握る手にも力が入る。
「お会いする前からずっとです」
「それは」
確認の言葉を返す前に、ブラッドが続けるので、神父は閉口してしまう。一度口を開くとブラッドは止まらなかった。
「胸に秘めておこうと思いました。この気持ちが神父様のご迷惑になるやもしれぬことも承知しております。でも、まさか、あなたの護衛に選ばれるだなんて望外の誉れを得ることがあるなんて、夢にも思いませんでした」
「あぅ…」
「お側に控え、その身を守ることが許されると聞いた時、これ以上望むことはないと思いました。けれど、あなたの近くにいると、その先を望んでしまいたくなる」
じりじりとにじり寄ってくるブラッドに押され、いつの間にか神父は壁際まで後退していた。とうとう逃げ場を失った神父だが、鍛え抜かれた筋力で押さえ付けてくるブラッドの拘束を解くことは叶わない。彼はそのまま浅い呼吸を繰り返すブラッドを見上げるしかなかった。
「この2週間、あなたのことを考えなかった時はない。今まで遠くでお姿を拝見するだけで満足していたのに、こうして近くに侍る喜び、その身に触れられる幸せ、そのどれもが言葉に尽くしがたい!けれど、魅力的なお方であるから、あなたに近付く男も多い!後輩だというあの神父も、金髪のすかした神父も、あなたに馴れ馴れしくし過ぎではありませんか?俺は近くで見ていて気が気ではありませんでした!それに、一番は、前任の護衛だという男!」
毒を吐くようにブラッドはとうとうと続ける。もはや口を挟むことも出来ず、神父は凍り付いたように彼の声を聞いていた。
「俺の知らぬ内にいつの間にか護衛に付いて、神父様のお側に控える栄誉を俺から横取りした!その癖、神父様をお守りできずにどこへ行ったかも知れない…忌々しい!誰もかれもがそんな男が護衛に相応しいと俺と比べる。俺の方がこんなに神父様を愛しているのに?こんなに護衛として優秀なのに?」
「そ、それは……」
「一体奴はどんな手を使ってあなたに近付いたのですか?何を話したのですか?何度あなたに触れたでしょう?清らかなあなたに?」
だんだんと、いやあるいは初めから、ブラッドの言っていることがおかしくなってきていることに神父は勘付いている。とにかく正気じゃない。いつまでもこの話を聞いているべきではないと脳内で危険を察知する器官が全力で警鐘を鳴らしていた。それでも神父がブラッドの剣幕を前に全く口を挟めないのは、もちろん彼の異常な熱意に気圧されているからであるし、ぎりぎりと力を込めて壁に押し付けてくる力の強さのためでもある。腕どころか足まで割り入れられて、左右上下全てに逃げ道を塞がれてしまった。
押さえ付けられ、青い顔をしている神父がようやく目に入ったのか、ブラッドは束の間正気に戻った様子で眉尻を下げた。良かった、これなら話を聞いてくれるかもしれない、と神父は慌てて口を開く。
「ブラッドさん、その…あなたのお気持ちは、分かりました…けれど」
「ええ、ええ、皆まで言わずとも分かっております」
自分で言いながら、ブラッドは虚ろな目で視線を落とした。
「聖騎士の誓いを立てた折、我が心身は主神に捧げると誓いました。いえ、そもそも主神は同性同士の愛の形を認めていない。それは異端です」
では、諦めてくれるのか、との神父の期待を、ブラッドは打ち砕いた。
「あなたと添い遂げることが今生では叶わないということがよく分かりました。ですが、このまま他の男にあなたが穢されるのを黙って見ているつもりもない…。であれば、もはや来世であなたと結ばれることを祈るしかない」
「えっ」
思わず声を上げた神父の首に、ブラッドの厚い手のひらが添えられる。大きな手のひらは易々とその首を両手で一周し、気道と頸動脈を同時に締める。
ブラッドは顔を上げて幸福そうに微笑んで見せる。神父を安心させようという配慮だったのだろうが、もちろんそんなことで神父が安堵できるはずもない。
「ご安心ください、俺もすぐに同じ場所に向かいます!」
「ま、って、…」
「お美しい神父様の顔に傷を付けたくはないので、どうか暴れないでください」
「やめ、くだ」
「愛しております、神父様!」
助けを呼ばなければ、と霞む視界で神父は考える。貧弱な神父が力で聖騎士に叶うはずもない。大声を出したかったが、喉を押さえ付けられて掠れた声を絞り出すのが精一杯。そもそも、周囲は人払いをしてあって誰かが通りかかる可能性は皆無だった。では、誰に?──本当は、最初から助けを呼ぶ相手など決まっていた。呼ぶための名前すら知らないが、彼がどうすれば助けてくれるかは分かっていた。
思い浮かべるのは、金の瞳の男のことだ。
彼のことを考えると、今にも死にそうだというのに、神父は不思議と頭が冷えていくのを感じた。覆い被さって首を絞めてくる男はただの人間であるし、己を見つめるこげ茶の瞳も苦手ではあるが恐ろしくはない。それより一層腹が立った。どうせ影の中から見ているくせに、ここまで傍観して放置していた化け物に、苛立ちが募る。
「あ……て…」
「え?何ですか?」
ぎりぎりと首を絞める力を緩めることもなく、ブラッドが問うてくる。泡を吹きながら、今際の言葉を吐こうとしている神父に対する彼なりの誠意なのかもしれない。だが、もはや神父はブラッドにかける言葉など持たない。飛びそうになる意識を全力で繋ぎ止め、神父は食い縛った歯の隙間から声を絞り出す。
「味、見て、いいです」
「味?」
首を傾げるブラッドの背後に、黒い影が立つ。
「うーん、まぁ、それで手を打つか」
その声に背後を取られたことを察したブラッドが咄嗟に振り向くと、短い黒髪の男がにこやかに微笑んで待っていた。前任の護衛である。いつの間に、との呟きを聞き終わる前に、振り抜かれた護衛の拳がブラッドの顔面を捉える。短い呻き声を上げて、ブラッドはもんどり打って反対の壁際まで吹き飛ばされた。
護衛は自分で振り抜いた拳を見つめ、不思議そうに呟く。
「あれ、やり過ぎた」
同時にブラッドの拘束から解放された神父がその場で膝を付いて咳き込む。慌てて酸素を取り込もうとする危なっかしい呼吸の音に、護衛はニタニタと笑いながらその横にしゃがみ込む。
「ほうら神父様、落ち着いて。ちゃんと吐かないと過呼吸になるぞー」
「……!」
何かを言いたげに神父は顔を上げて護衛を睨んだが、涙ぐむ彼の睨みなど当然護衛に毛ほども威嚇にはならない。そのうちにがたがたと音がして、剣を構えたブラッドが血走った目で起き上がる。護衛の拳を顔面に喰らい、ぼたぼたと鼻血を垂らしながら血泡を吹く姿は痛ましいが、それも気にした様子もないのが何より狂気的だった。それに気が付いた神父は後退って護衛の影に隠れるようにするので、ブラッドは一層激昂した。
「神父様、誰ですかそいつは!?どうやってここに…いや、まさか、お前が前任の護衛」
「よお、随分元気だな」
対する護衛の返しは軽い。それがブラッドの神経を逆撫でしたか、彼は口上もなく斬り掛かってきた。激昂しているとはいえ、隙のない鋭い一太刀であったが、護衛は長い足で剣を握るブラッドの手元を踏み付け地面に切っ先を逸らし、バランスを崩した彼の脳天に固く握ったげんこつを落とした。それで、おしまいだった。
ブラッドは気を失ってその場に倒れ伏した。
帰ってきました。




