試用期間終了
人払いを済ませた小さな空き部屋で、神父とブラッドは向かい合って座る。間に置かれたテーブルには書類の束が置かれており、この試用期間に彼がこなしてきた仕事の詳細な報告書がまとめられていた。試用期間を設けて護衛の適正を判断するという旨の書面も併せて置かれ、これはちょうど2週間前に神父とブラッドが交わした契約のそもそもの発端となる書類である。ブラッドはそんな書類の山々を見て固唾を呑んだ。今日がその約束の日、試用期間終了となる2週間目の昼下がりのことである。
「まずは、2週間お疲れ様でした」
神父が切り出すと、ブラッドは一層背筋を伸ばして次なる言葉を待つ。緊張しているのが傍目にもよく分かった。だがそれは神父も同じだ。神父もまた、緊張していた。だから、どうでもいい口上などを先に回して、言わねばならないことを後回しにしてしまう。
「報告書はもちろん、近くで見させていただいたあなたの働き、大変素晴らしいものでした」
「い、いえ、まだまだです」
ブラッドは謙遜するが、実際のところ彼の護衛としての働きは申し分なかった。悪魔憑きと相対しても、相手を殺傷することなく無力化し、神父の補佐をする。道中は聖騎士の出で立ちをした彼が隣にいるだけで物盗りの影すらなかった。
「献身的な護衛、本当に感謝しています。悪魔憑きを圧倒する剣の腕も、私には及びも付かないような訓練の賜物であるのでしょう。ですから…」
後に続く言葉を言い出せずに神父は沈黙する。既に結論は出ていたし、司教にもどうするつもりかは報告済みだった。期待を込めた目でこちらを見つめて一言も聞き漏らすまいとしているブラッドの視線を受け止めることができず、神父はただただ己の手元を見つめて震える声で囁いた。
「ですから…」
「はい」
「その…」
「はい」
「……他の活躍の場があるのではないかと…」
一切の沈黙が降りる。はるか階下、修道院の広間から微かに響く談笑の声さえ聞こえるほどに、室内には静寂が横たわっていた。ブラッドがどのような顔をしているかさえ確認するだに恐ろしく、神父は言い募る。
「本当に、あなたの活躍は素晴らしいものでした。一介の神父の護衛で収まるような器ではないでしょう。要するに、もっと華々しい舞台での活躍が、あなたには、相応しいのではないかと思うのです。私などには勿体ない──」
「そんな」
ブラッドが引き絞るような声を出すので、神父は恐る恐る顔を上げる。打ちのめされたように萎れた顔で、ブラッドは縋るように神父を見返した。
「では、護衛は…」
「別な者を探します」
机の上で音が鳴るほど強く拳を握り締めるブラッドの姿が痛ましい。そもそも、初めから神父は彼が苦手だった。じっと目を覗き込んでくるのも苦手だし、善意と好意の塊のような親切が苦手だった。もしかしたら、その印象も変わるかもしれないと押し負けて、試用期間を設けたものの、これなら最初から断った方がお互いのためであったと反省している。
ところがブラッドはすぐには納得してくれなかった。椅子を蹴って立ち上がり、必死の形相で食い下がる。
「どこが!俺のどこが悪かったのでしょうか!?」
あまりの剣幕に、神父は完全に気圧されてしまう。そんな神父の様子に我に返った様子のブラッドはいくらか声量を落としたが、それでも状況はさほど変わらなかった。
「教えていただければ、すぐにでも直しますので…!ですから、どうか、もう一度、チャンスを…」
そういうところが苦手なのだ、とは口が裂けても言えない神父である。恐らく、悪気はないのだろうが、彼の親切は独り善がりが過ぎる。迷惑だと口に出さない神父も悪いが、休みの日にまで押し掛けて来られた時には、神父の心は相当不採用に固まっていた。
いつまでも優柔不断でいるからいけないのだ、と神父は心を鬼にして息を吐き出す。椅子に座り直して、眼鏡の奥からこげ茶の瞳を見つめ返す。
「当初の約束通りです。2週間の試用期間は終わりました。これで採用の可否を決めると、書面にもそうあるでしょう」
「それはそうなのですが…」
「あなたの剣の腕でしたら、どこでも素晴らしい活躍を期待できるでしょう。あなたの武勇を耳にできる日を楽しみにしておりますよ」
「俺は」
「2週間分の給金はきちんと支払わせていただきます。本当にありがとうございました」
「神父様!」
机の上の書類を纏め、帰る準備を始める神父にブラッドが声を荒げる。声に出してから己の声量を恥じるように身動ぎしたが、ブラッドは机の上に身を乗り出して問うた。
「もしや、前任の護衛を呼び戻すのでしょうか」
神父は一瞬、ブラッドを見たが、そのまま視線を逸らして書類を集める作業を再開した。
「それも一つの道かもしれません」
「………」
苦々しげに食いしばった歯の隙間から息を漏らすブラッドの声にならない声が聞こえた。護衛に他の者を、と神父は言ったが、実際にどうするかはまだ何も考えていない。だが、どうせ近くにいるのなら、化け物に頼んだ方が色々と気楽で良いかもしれないと思い始めているのは事実だ。
確かに恐ろしい化け物だったが、彼が恐ろしいのは「知らない」「分からない」からで、時間が経てば経つほど、神父は自分が彼にした仕打ちが誠意のない行為だったと思うようになっている。彼は約束通りにレオやトマスを救出してくれた。神父はその報酬に味見を許した。味見を終えた化け物に、信じられない仕打ちを受けたというような反応をしてみせたのは、お門違いだったのだ。いや、だったら化け物の方も、味見がどんなものなのか事前に説明していてくれれば、神父だってもう少し心の準備を整えてからあの時を迎えられたはずで──。
それは今考えても仕方のないことだった。
書類を集め終え、神父はそれらを腕に抱えて立ち上がる。椅子を机の中に押し込み、未だに立ち尽くしているブラッドに会釈をして「では」と部屋をあとにしようとする。あまり穏便にはいかなかったが、ここで彼の押しに負けてずるずると試用期間を伸ばしたり、あるいは正式採用に踏み切るのは、さすがの神父も心が保たない。縁が無かったと諦めてもらうより他ない。それに、他の活躍の場が相応しいと言ったのは、何もお世辞ではない。ブラッドは本当に腕の立つ武人だった。きっと彼にはもっと華やかな相応しい舞台が用意されるだろう。
「…っ、神父様!」
一際大声で呼ばれ、乱暴に腕を引かれる。余りの勢いに神父は持っていた書類を取り落として、そのまま床にばら撒いてしまう。何を、と怪訝な表情で神父はブラッドを見上げた。さすがにこれは目に余る横暴。じんじんと痛む肩が神父の眉根を寄せさせる。ブラッドは睨むような彼の視線を受けて一瞬たじろいだが、それでも思い詰めた様子でその手を離そうとはしなかった。
「ブラッドさん」
「も、申し訳ありません神父様、ですが、最後にどうしても、聞いていただきたいことが」
懺悔を聞くのは、聖職者の仕事であった。罪を許し、洗礼を与えるのもまた聖職者。そんな本職の習慣が、神父に足を止めさせる。妙に期待を持たせて2週間を過ごさせてしまった罪悪感もあったかもしれない。とにかく、最後であるなら、と神父は苦手なブラッドのこげ茶の視線にも耐えたし、無礼な引き止め方にも目を瞑り、話を聞く姿勢を整えた。
ブラッドは深呼吸を繰り返し、生唾を飲み込んだ。それだけにとどまらず、空いた手で神父のもう片方の腕を掴み、正面に立った上で、言った。
「お慕いしております、神父様」




