聖なる水の力
「あとから泣いて許しを乞うても、もう待ってやらないぜ」
護衛の男が動く気配のないのを確認すると、悪魔憑き二人はげらげらと下品な笑い声を上げて神父を取り囲んだ。神父は壁を背に素早く周囲を見渡す。扉の近くに気を失ったもう一人の職員が倒れ、近くに小さめの斧が転がっている。武器としては──却下。神父の生業が悪魔を祓うことで人を殺すことではない。武器の扱いも神父は得手とは言えなかった。それを悪魔憑きらに使われることの方が厄介だったが、既に斧を手にした方の悪魔憑きはさほど筋力のある男でもなく、斧を二本両手に振り回すことを選ぶ可能性は低い。問題は図体のでかい秘書の男だが、これはむしろ己の肉体をこそ武器と考えているようで、新たな武器を使おうとする素振りを見せなかった。なら、勝機は十二分にある。神父は腰を落として身構える。
気合いの掛け声と共に、秘書の悪魔憑きの方が拳を振るい、職員の悪魔憑きが斧を振り被って襲い掛かってくる。相打ちにでもなってくれれば、と思いもしたが、さすがにそこまでの考え無しでもなく、悪魔憑きたちの攻撃は的確に神父だけを狙って繰り出される。細身を生かしてそれをひょいひょいと躱していく神父は、しまいに廊下の突き当たりへと追いやられていく。市長が遠くで悲鳴を上げるのが聞こえたが、さすがにそれを気にする余裕はなかった。
廊下の突き当たりには控えめな台に飾られた花瓶が置かれ、慎ましい花々がそこに生けられていた。後頭部を狙って伸ばされる太い腕を屈んで避けて、下から跳ね上げるように振り抜かれる斧を上体を逸らして躱す。と、その瞬間はやってきた。がつん、と凄まじい音がして、職員の振り抜いた斧が壁に突き刺さったのだった。
「ぐ」
壁に刺さった得物をなんとか引き抜こうとする男の顔面目掛けて神父はすかさず小瓶を叩き付ける。もはや蓋を開けて中身を注ぐ余裕もない。砕けた小瓶から飛び散る聖水は、余さず職員の悪魔憑きの頭から体に掛かっていった。同時に職員の体から黒い靄が蒸発するように立ち昇る。苦悶の悲鳴が上がり、職員はそのまま仰向けにひっくり返って動かなくなった。聖水の小瓶は、残り一つ。
「き、貴様ッ!」
さすがに焦った様子で残りの悪魔憑きが突進してくる。逃げようとした神父は、しかしここが廊下の突き当たりで逃げ場のないことを今更のように思い至る。
巨体に突き飛ばされて、神父の体は易々と浮き上がる。そのまま突き当たりの壁に叩き付けられて、息が詰まる。呼吸を整える暇もなく、悪魔憑きが神父の首を締める。だが、これは好機。これだけ密着していれば、聖水を掛けることも容易い…とそこまで考えて腰元に提げていたはずの小瓶をまさぐるが、無い。突き飛ばされた衝撃で外れてしまったのだ。何とか視線を巡らせると、足元に砕けた小瓶が転がっている。なるほど、まずい。足をばたつかせてみても、床に爪先が擦れるだけだ。
「よくも兄弟をやってくれたな…!だが、ここまでだ。せっかくだから、貴様の体を新たな宿主にしてやるぜ」
「…私の体では貧弱で戦闘には向きません…」
「確かにな。だが、神父のフリでもしてりゃ、しばらくは生きやすそうだ」
異臭を放つ口を開いて、悪魔憑きが笑う。同時に男は嘔吐き、口からヘドロのようなものが這い出してくる。これが悪魔の正体だった。人間の世界で肉体を持てず、宿主に寄生して能力を発揮する悍ましい者共。これが今度は、神父の口元へとにじり寄る。胃液や唾液に塗れたそれが放つ悪臭に思わず神父は顔を逸らす。そうして逸らした目線の先に、先ほど目にした花瓶があることに気が付いた。
──花瓶。
咄嗟に手を伸ばし、花瓶の縁を引っ掴む。そのまま勢いよく悪魔憑きの頭目掛けて花瓶を投げ付ける。粉砕させる。花と一緒に中に溜められていた水が辺りに降り注いだ。
それなりの衝撃があったのだろう、拘束も緩み、神父は転がるように悪魔憑きの脇の下を潜り抜けてその場を離れる。口からヘドロのような本体を剥き出したまま、悪魔憑きは花瓶の水を滴らせながら振り返る。
「ふ、ふふ、なかなか手癖の悪い神父様じゃ…な…、なんだ…?」
思わぬ反撃にも余裕を見せるつもりだったはずの悪魔憑きは、己の体の異変に気が付いて声を震わせる。それまで手足として動かしてきた人間の体から、黒い靄が立ち昇っている。正確には、融け出した己の魂が。
「な、なぜ!聖水でもないのに、どうして我々の魂に干渉できる!?」
「もちろん、聖水です。ようくご覧になりました?」
戦闘の最中に付いた汚れを払い落としながら神父が答える。悪魔憑きは反論の声を上げようとして、そのままヘドロを口から吐き出した。秘書の男の体が壁にぶつかって横倒しになる。吐き出されたヘドロは床に広がり、端から蒸発するように消えていく。そのヘドロから、尚も未練がましい声が続く。
「花瓶に細工してあったのか!?」
「いえ、花瓶の水を聖成しました」
「はあ?!」
その声は悪魔のみならず市長の声とも重なる。護衛の背後に隠れて戦況を見守っていたらしい市長は、それでも我慢ならないといった様子で顔を出した。
「で、では神父様はあの戦闘の最中に聖水を聖成されたというのですか…!?通常、三日は祈りを捧げなければ、主神に祈りは届かないと聞きます!」
「………」
神父は微妙な顔をして黙り込む。無論、市長の指摘通りだ。聖職者の祈りが主神──あるいは、その眷属である天使に聞き届けられ、人は聖なる加護を得ることができる。加護を与えるのが聖水という形が多いのは、不純物を取り除いた純水として取り出すのが容易であるからで、他にも銀や金属を聖成することがあるが、資金面から見て水の方が圧倒的に使い捨てやすいのだ。だが、それもただ祈れば得られる加護ではない。敬虔な信者が、時間を掛けて祈りを捧げてようやく得られるものになる。早いもので半刻。長いものでは数日掛かると言われている。
神父は、この祈りというものを十分以上捧げたことがなかった。
だがそれを素直に申告しては、聖水の価値が暴落してしまう。聖水の手持ちがないから、と悪魔祓いを断ろうとしていたことにも矛盾が生じる。神父はしばしの沈黙ののち、ふらふらとよろめいて壁にもたれてみせた。
「ええ、咄嗟のことでしたが、何とか…。しかし、体に無理な負荷を掛けて行う奥の手でした。これで悪魔を祓えたから良かったものの、危ないところでした…」
「くっ」
護衛が堪えきれずにといった様子で口を押さえる。市長が不思議そうに護衛を振り返ったので、神父は眼鏡の下から半目で護衛を睨み付ける。余計なことは言うなと。それが伝わったのかどうか定かではないが、護衛は一つ咳払いをした後、すたすたと壁にもたれる神父の元まで歩み寄ってきて言った。
「神父様は大層お疲れのようだ。休む場所を借りても?」
言いながら、護衛が神父の体を小脇に抱える。ぞんざいな扱いに神父の表情は険しくなるが、話の辻褄を合わせる茶番としては及第点だろう。甘んじてそのまま神父は荷物に徹する。
「悪魔に憑かれていた人々も、もう大丈夫です。彼らの体を清めて差し上げてください」
神父が護衛に抱えられながらそう指示すると、市長が慌てた様子で他の職員を呼び、担架を持って来させた。神父には休む部屋の手配を、と市長が慌ただしくその場を離れていくので、護衛がその背を見送りながら小声で囁く。
「ちょっと綱渡りが過ぎるんじゃないですかね、神父様?」
「…そうでしたか?」
護衛の指摘は最もだが、認めるのは癪でとぼけてみせる。護衛は喉を鳴らして笑い、未だ床で燻っている悪魔の残滓を踏みにじった。ぎぇ、と小さな悲鳴を上げてヘドロは跡形もなく消え失せる。
「詰めも甘い」
これには反論の余地もなく、神父は黙ってその場をやり過ごす他なかった。
「本当に、ありがとうございました、神父様!」
市長を含め、役場にいた職員らが皆揃って神父の前で頭を下げる。休息のために、と神父に充てがわれた小さな医務室の寝台の前でのことである。
「い、いえ、当然のことをしたまでで」
聖水の聖成に体力の消費などない神父にこの休息は必要ないが、話の辻褄を合わせるために小一時間ほどここで休みを取っている。それをここまで畏まられて礼を述べられてしまうのは、いかに慇懃無礼な神父といえども居心地が悪い。護衛が後ろでニヤついているのが見ずともよく分かった。
「秘書の体に二体の悪魔が潜んでいようなどとは、私たちも夢にも思いませんでした。それを、体を張って祓ってくださった神父様の悪魔祓いの手腕…あなた様をこの場に遣わしてくださった主神の慈悲に感謝します」
市長が涙ぐみながら続ける。確かに、自分でなければ少々厄介なことになっていたかもしれない。聖水は貴重であるし、基本的に悪魔祓いは必要量の聖水しか持ち歩かない。
「では、報酬ですが」
市長が振り返り、職員に革袋を持って来させる。盆に乗せられたそれが神父の寝台の横に置かれると、金属の擦れる重厚な音が鳴る。随分な量だった。
「お約束通り、相場の三倍ご用意いたしました。どうかお納めください」
「あなたの信心は、確かに…」
悪魔祓いの報酬は、教会への寄付という形で行われる。結果として、それが神父ら悪魔祓いの主な収入となっていることから報酬と呼んで間違いないが、建前としては「教会への寄付に見合った信心への加護」が悪魔祓いとして派遣されてくるという流れなのである。
しかし、神父がその革袋に触れる前に、血相を変えた職員が「市長!」と叫びながら部屋に飛び込んでくる。神父様の前だぞ、と市長が嗜めるが、職員の慌て様は変わらなかった。
「し、失礼いたしました…!ですが、悪魔憑きの騒動で、市の文化財である花瓶が、は、破損しております!」
「花瓶」
思わず神父が繰り返す。市長は職員に黙るように促して、それから悲壮な笑みを浮かべて神父を振り返る。
「いえ、気になさらないでください。悪魔祓いのためにあの花瓶は大いに役に立ったのだと、私には分かっておりますとも。あれのおかげで、秘書も職員も無事に戻ってくることができた」
「し、市長…!」
「私は、文化財などより、職員たちが無事でいてくれることの方が大事に思います」
職員たちが市長に抱き付き、涙ぐんでいる。文化財としてどこぞから借り受けていたのだろう花瓶の弁償は、やはり市として負担することになるはず。そんな時に悪魔祓いの法外な寄付を、相場の三倍などという額で支払っていては、この街は……。
神父は革袋に伸ばしかけた手を引っ込め、気まずさを打ち消すように盆ごと市長の元へと差し出した。
「…そんな貴重な花瓶とは露知らず…ご迷惑をお掛けしました。報酬は、通常の額で構いません。それから、寄付の方は教会を通して頂けると」
市長と職員らが一斉に顔を上げて期待に満ちた目で神父を見上げる。護衛が背後で声を殺して笑っているが、もはや殺し切れない声が静まり返った室内に漏れ聞こえている。それをかき消すように、神父は声を張り上げる。
「正式な手順を踏んで受けた依頼ではありません。誤解のないよう、教会から正規の手続きで寄付金を支払って頂けると、私としても助かります」
教会を通した悪魔祓いへの報酬は、教会側にいくらか差し引かれた金額が悪魔祓いの手元に渡る。それを嫌う悪魔祓いは、差し引かれる仲介料を上乗せした金額を悪魔祓いの報酬として要求することが常であるが、神父はそれすらしないと言ってのけたのだ。市民の味方、利己より利他、神父の献身を市長らはそう判じただろう。──実際、後々高額な花瓶を壊した犯人として禍根が残るような面倒を、神父は嫌っただけであるが、物は言い様だ。
「し、神父様…!なんと、なんとお礼を申し上げたら良いのやら…!」
神父が受け取らなかった寄付金が、いかほど花瓶の補償の充てられるのかは不明だが、相当市の財源を圧迫していたのだろう、市長は再度涙ぐんで神父の前に頭を垂れた。体を張って余計な仕事を受けたのに、割に合わない仕事であった、と神父は密かに溜息を零すしかなかった。