間章3
「ああ、君!」
呼び止められて、足を止める。野太い声に思わず体が竦む。修道院では女学生に囲まれて過ごしてきた。教師も女性、学友も女性。近頃ようやく修道女を名乗ることが許されて、教会本部での奉仕活動に参加するようになった彼女は、これまで異性と交流らしい交流を持ったことがなかった。そういった修道女は珍しくない。貞淑な女性に、との願いを込めて親が娘を修道院に入れるケースは少なくない。声を掛けた相手の方は、それを悟ったのか、ほどほどの距離感を保ったまま声の調子を和らげてくれた。
「悪い、少し頼みたいことがあって。これから、眼鏡の神父様のところに行くんだろう?」
屈強な体躯に磨き上げられた銀の鎧、真紅の外套を肩から羽織り、腰には煌めく銀の剣。お手本のような聖騎士の男である。修道女はおずおずと聖騎士の爪先辺りを見つめて囁く。
「は、はい…ええと、38番目の使徒様のことですか…?」
今日の修道女の仕事は、地方の教会に配布するための聖水を作り上げる聖成の儀式の補助である。純粋な水にするための蒸留作業や、必要な分量に取り分ける作業、聖成には聖職者が行う祝福以外の工程にも手間暇がかかる。そのための手伝いという訳だが、修道女は単に場所と持ち物の指定を受けただけで、これから向かう先で待つ司祭が眼鏡を掛けているかどうかなど知らない。ただ、少々気難しい男なので、あまり馴れ馴れしくしないように、というのが先輩の修道女からもらったアドバイスだった。聖騎士はたこまみれの手で頬を掻く。
「あー、確かそれくらいの番号だったかな?まぁ、あれだ、ちょっと礼を伝えて欲しくって」
「そ、それくらいでしたら喜んで」
博愛は主神の推奨するところであり、日々主神が創りたもうた世界とその理に感謝すること、ひいては生きとし生ける全ての命に感謝することは信仰の基本である。敬虔な修道女は、人見知りよりも人助けに対する尊敬の念が勝る。聖騎士は彼女の態度の軟化を知って相好を崩した。
「先日、同じ依頼先で助けて頂いたんだ。そのあとバタバタしていて、きちんとお礼にも伺えなくてさ。レオ神父様はまだ職務にも復帰できていないし、無事な俺たちは代わりの仕事が回ってきて時間が中々…」
話に出てきた名前を反芻し、修道女は改めてまじまじと聖騎士の顔を見る。そうして気が付く。彼はレオンハルト神父の護衛を務める男だった。世間知らずな修道女でも、華やかで人当たりの良いレオンハルト神父の評判は(主に修道女仲間から)よく耳にする。長く整えられた金髪と甘い顔立ち、優秀な悪魔祓いでもある彼の活躍は、任務に出掛ける度に修道女たちの噂の的になる。修道女とて例外でなく、彼の姿を一目見ようと柱の影からこっそり覗いて見たこともあるが、その時大抵彼のそばに控え、半歩後ろを付いて歩くのがこの男であることに、今更思い至ったのだ。
「では、その、眼鏡の神父様に、先日のお礼を、と?」
「ああ、それから、多分護衛殿も一緒にいると思うから、その方にも」
そこまで言ったところで、誰かが呼ばわる声に聖騎士は振り返る。そうして広間の大時計を見上げて不味い、と独りごちる。彼は既に修道女に背を向けながら続けた。
「じゃ、そういう訳で、できたらでいいからよろしく伝えといてくれ!」
「わかりました」
「慌ただしくて悪いな」
本当に慌ただしく、聖騎士はそのまま走って広間の入り口で待っていたもう1人の騎士と落ち合うと、そのまま2人で厳しい表情で話し合いながら大股で歩き出し、あっという間に姿が見えなくなった。嵐のような邂逅に、修道女は気を悪くするどころか善行の機会を得て感謝の気持ちに満たされる。早く神父様にお伝えしなくては、とそんな淡い使命感すら抱いて、彼女は指定された儀式の間までを小走りに進んだ。
修道女が儀式の間に近付くと、既にそこには先客がいるようで、男が2人何事かを言い合っている声が聞こえてきた。1人の声は扉越しにもよく通るので、廊下にまで響いてくる。盗み聞きするつもりもないのに、修道女は彼らの問答の原因を知ることになる。
「…ですから、お怪我をされているのであれば、無理に動かれるのは良くないかと!」
何となく、今部屋に入ってはいけない空気である。修道女は思わず息を呑んで立ち尽くす。対するもう1人の声はくぐもっていてよく聞こえないが、続ける一方は再び廊下によく響く声で言った。
「そんなはずありません!現に左腕を庇っているではないですか、それは護衛として看過できません」
「──し、本当に大したことないんです」
「神父様…!」
唐突に、修道女はこの会話がこれから聖成の儀を共に行う神父とその護衛の会話であると気が付いた。無論、教会本部から貸し出されたこの部屋は、今日一日聖成の儀のために貸し切りにされているので、ここにいるのは彼ら以外にあり得ないのだが、突然の出来事に修道女はそんなことに気が付くのさえ遅れてしまった。
どうやら、神父は怪我をしているらしい。そうして護衛は、それを詰問している。護衛の声につられてか、だんだんと神父の声量も上がってきて、もはや廊下に2人の会話は筒抜けだった。幸い、今のところ廊下で聞き耳を立てているのは修道女ただ1人で、ただこの状況を幸いと表現すべきかは彼女にとって判断に悩むところであった。
そんな修道女の気など知る由もない神父と護衛の声は続く。
「怪我は、もちろんしますとも。悪魔祓いは危険な儀式です」
「では、せめて手当を」
「手当くらい自分でできます」
「ご、ご自分でされたのですか?それでは届かぬ傷もあるでしょう!」
「だから、さっきから大した怪我ではないと…ちょっと!何をするんですか!」
「怪我を見せてください、本当に大したことがないならそれで納得しますから」
「い、やです!なんで、待ってくださ」
聞いている内に雲行きが怪しくなって、室内からは声だけではなく足音が入り乱れ、物が倒れる音がする。こ、これは、黙って見過ごす訳にはいかない、と修道女はなけなしの勇気を振り絞って儀式の間の扉を開ける。
「ししし、失礼します!」
思ったよりも勢いよく扉が押し開かれて、そのまま開き切った扉が壁に当たって大きな音を立てる。それで神父と護衛は修道女の来訪に気が付いたらしく、同時に2人は動きを止めて修道女を見た。
室内にいたのは、体格の良い明るく快活そうな聖騎士と、眼鏡と重い前髪で表情の窺い辛い神父だった。ちょうど揉み合うように向かい合っていた2人は、神父の方が上着を剥かれ、肩口が大きく曝け出された状態で固まっている。とはいえ、曝け出された首から左の肩口にかけては白い包帯が何重にも巻かれ、特に首筋にはうっすらと赤い血が滲んでいた。やはり神父が護衛の指摘通りに怪我をしていたことが知れる。それ以外にも擦り傷や打ち身、青痣が至る所に散見されて、言葉を失う聖騎士から神父は慌ただしく上着を奪い取って着衣を直し始めた。
「…シスター。お見苦しいところをお見せしてすみませんでした」
そうして、何事もなかったように神父が言う。この空気のまま仕事を始めるつもりなのか、と修道女は凍り付く。聖騎士は全く何にも納得していないどころか、言いたいことは山積していると言いたげに神父を見ている。何を言えば良いのか見当も付かない修道女は、ぱくぱくと空気を求めるように口を開閉させてそのまま頷いた。
乱れた着衣を整え、包帯と青痣とを服の下にしまい込んだ神父は、まだ物言いたげに己を見つめている聖騎士を見やって溜め息を吐く。そうして言った。
「…昨日、帰りの道で転んだので、その時にできた傷です」
「こ、転んだなんて」
「この話はおしまいです。シスターも到着したことですし、聖成の儀を始めましょう」
言いながら、神父は用意されていた蒸留装置を準備し始める。本当にこのまま聖成を始める気のようだった。本来、聖成とは清らかで落ち着いた心で臨むものだ。断食を並行して行うこともある。こんな重苦しい空気の中で、悪魔を祓う祝福の加護など乞い願えるものなのか、と修道女のみならず、聖騎士にも甚だ疑問なようだった。
それらの心配は杞憂だった。作業が始まると、黙々と神父は働いて、慣れた手付きで蒸留の手筈を整え、得られた純水を小瓶に移し、祈りを込めて聖水にと変えていく。噂には聞いていたが、神父の祈りは本当に一瞬だ。修道女が見た教師の聖成の様子は、教師が汗だくになりながら小一時間祈祷を続けていた。だが、神父は小瓶を両手に包み込んで、額に寄せて一瞬念じるように動きを止め、そうして出来上がった小瓶を修道女に渡す頃には既に聖成が済んでいるといった状態だった。
聖成の儀は、神聖な儀式であるが故、私語も許されない。それまでの不穏な空気は依然として部屋の中に残っていたが、それでも作業に集中することは一時修道女の心を救った。聖騎士は神聖な儀式に邪魔の入ることがないように戸口を守るように立って沈黙しており、ひとまずは彼らが喧嘩を再開することはなかった。
とはいえ、本部から請け負う聖成の量は多い。他の司祭に比べれば、それでも随分と早いペースで作っているのだろうが、神父が手渡す小瓶を布で磨き、小分けに区画された木箱に詰めて積み重ねる作業がもはや何十回目なのかも分からなくなった頃に、ようやく神父が「休憩にしましょう」と提案した。
ふう、と修道女は息を吐いて知らず額に浮いていた汗を拭う。空気の入れ替えのためか、神父が窓を開けたので、外から入ってくる風が心地よかった。だが、一行に会話はない。とにかく、先ほどまでの話題から変えなければ、と修道女は出がけに出会ったレオンハルトの護衛の聖騎士の言伝を思い出す。そうだ、こんなぎすぎすした空気は、感謝の念で洗い清めてしまえばいい。利用するようで気が引けるが、広義の愛が争いを鎮めるものだと教典も謳っている。
「あの、ここに来る途中、レオ神父様の護衛の聖騎士様にお会いしました…!」
修道女の言葉に、神父の方が視線だけを寄越す。そこにはこれまでの不機嫌さを感じず、そのことに大いに勇気付けられて修道女は声量を上げる。
「先日の、依頼先でのこと、是非神父様とその護衛様にお礼を、と仰っておりました。私は存じ上げませんが、お二方が大層ご活躍されたとか…」
この重苦しい空気を断ち切るために、どうにか共通の話題で盛り上がって欲しい。その一心で修道女は反対で控える聖騎士に話題を振る。そうして──己の失敗を悟る。にこやかに微笑みながら、聖騎士は首を横に振った。
「その護衛というのは、俺ではないね」
「えっ」
「神父様の前任の護衛のことだろう」
修道女は神父と聖騎士を見比べた。だからこの微妙な距離感!
「で、では今その護衛様はどこに?」
「さぁ…多分、その辺をほっつき歩いていると思いますよ」
妙に投げやりな様子で神父が続ける。喧嘩別れでもしたのだろうか、と修道女が思っていると、すかさず聖騎士が身を乗り出して言った。
「俺なら、神父様の護衛を放り出して、お側を離れたりはしません!」
その声量と勢いに驚いたのは、修道女だけではない。神父もまた目を丸くして聖成の器具を弄っていた手を止め、聖騎士を見る。聖騎士は、決して神父と仲違いをするつもりはないようだった。むしろ、彼は熱心に神父との交流を深めようとしている。怪我の心配をするあまり、踏み込み過ぎてしまうのも、あるいはそういった真面目さの表れなのかもしれない──修道女はそう思い始めている。
「俺がお側にいれば、あんな痛ましい傷はあなたに付けさせませんでした!俺は、前任の護衛を知りませんが、そんな奴は護衛失格だ!」
そうして、熱のこもった声で吐き捨てる。それだけ職務にプライドと責任感を持っているのだろう。あるいは、前任の護衛を随分と敵対視しているのか。ともあれ、その聖騎士の言葉はそれまでの空気を一変させた。神父が、俯き、肩を揺らす。笑っていた。
そうして顔を上げた神父は、再び器具の整頓作業に戻りつつ、愉快で堪らないといった様子で頷いた。
「…ええ、そうですね。あなたは彼と比べて、随分とまともな護衛に思えます」
「し、神父様…!ありがとうございます!」
聖騎士は、まるで褒められた子供のように表情を明るくしたが、修道女は生唾を飲み込んで手元の小瓶を磨く作業になんとか集中しようと必死だった。もはや、彼らのやりとりを見守っていることが苦痛だ。気が付いてしまったのだ。「まともな護衛」と呼ばれて聖騎士は褒められたものと思っているが、しかし──本当に?神父様は、聖騎士を褒めたのか?
無論、常識的に考えて、まともであることは好ましい。非常識は反感を買い、後ろ指を差されかねない結果を招き寄せる。神父の真意がどこにあるのか、世間知らずの修道女には推し量ることすらできなかった。そうして、今更のように思い出す。先輩修道女がこっそりと教えてくれたアドバイス──少々気難しい男であるから、と。
少々どころの騒ぎではない!願わくば、もう二度と彼らと同じ任務に就かされることのないように。それだけを祈って、修道女は聖成の儀が済むまでの時間を無心で作業に費やした。
この話はボーイズラブなのでよく主人公♂の服が脱げます。




