奮起する神父様
翌日、普段よりも一層目付きの悪い神父が、妙に左肩辺りを痛がりながら司教の部屋を訪ねてきたのは昼も過ぎて随分経った後のことだった。テオは非常に要領よく事後処理をこなしており、神父に関しても翌日は丸一日を休みにして欲しいとの請願を届け、それが本部に受理されていたそうなので、本来神父は教会本部に顔を出さなくても良かったのだが、そもそも神父が司教の元を訪ねたのはそんなことのためではない。
司教は読みかけの資料を机に置いて、神父に向き直った。
「…えーと、もう一回言ってくれるかい?」
「ですから、聖騎士を紹介して欲しいと言いました」
神父の目元は薄っすらと腫れていて、眠っていないのか、泣き腫らしたのか、とにかく何かがあったのだということははっきり分かる。司教は咳払いを一つ落として、あのね、と続ける。
「順を追って教えてくれないと分からないよ。お前には、とっても優秀な護衛がいただろう?」
その護衛が、今回の任務で目覚ましい活躍をしたことは既に司教の耳にも届いている。また神父から報告があるだろう、と前置きした上でテオは律儀に司教の元まで報告にやってきた。原理は謎だが、武器もなく悪魔を退ける男である、との情報は、司教を大いに驚かせた。無論、だからこそ悪魔信仰への調査にも向かわせたのだ。調査で終わらせるつもりだったので、犠牲が出たのは残念だが、この少人数で捕らえた悪魔信仰の信徒の数は27名。大捕物だ。護衛として申し分なし。それなのに、彼以外の護衛が欲しいということか。
「今の護衛ともう1人聖騎士を雇うというなら、お前の仕事の幅も広がって良いかもしれないね。でも、多分違うのだろう。今の彼を解雇して、新しい聖騎士を雇いたいということだね」
神父はじっと司教の手前に置かれた机を睨み付ける。なんと説明したものか考えているのだろう。もっと要領のいい子なら、この部屋に入って来る前にそういった言い訳を考えてくるはずだが、この神父は変に律儀で融通の利かない──よく言えば素直でわかりやすいところがあるので、その考える時間を司教は敢えて邪魔しない。
「…彼とは合わないので…」
随分長い時間を掛けて絞り出した言葉がそれである。司教はうんうんと噛み砕くように頷く。
「喧嘩したのかな?」
神父はぶんぶんと首を横に振りかけて、痛みに顔を顰めてやめた。上まで留められた詰襟から首に巻かれた包帯が覗き見える。
「…多分、違うと思います。怒っていないと言っていました」
悄然としている風な神父である。相手を怒らせた自覚があるのなら、非は己にあると感じているのだろうか。
「では、何故?」
「私が、耐えられません」
最後の一言だけは悲痛で、それには司教も疑問を差し挟む余地はない。なるほど、と頷いて司教は目を細めた。
「分かりました。では、聖騎士は紹介しよう。しかし…護衛の彼は今どこに?」
例え神父の護衛でなくなったにせよ、野にあるには惜しい人材。それどころか、聖騎士でなく、教会関係者でもない身元不詳の男であるので、教会とは別に悪魔を祓う業でも始められては、異端として糾弾されかねない。古来より、悪魔を誅する力を持つのは主神とその加護を受けた聖職者のみだ。早急に保護、そして監視の目の下に置く必要がある。
「分かりません」
しかし、神父は申し訳なさそうに目を伏せる。隠している様子ではなく、本気で知らないようだった。それなら、と司教は身を乗り出す。
「それなら、名前は?それに、彼の経歴は。前の職業や、出身地、何か分かることは──」
司教独自の情報網で探らせていたが、結局今日に至るまで護衛の情報らしい情報は入ってこなかった。神父の護衛に付いてからも、どこで寝泊まりしているかすら分からないので、これは只者ではないということだけが司教には理解されている。それだけ尾行や監視に敏感なのだろう。少なくとも、一緒にいた時間の長い神父なら何かしら知っているはずで、そこから男に関する情報の糸口を掴みたい司教だったが、神父は震える声で首を振りながら囁いた。
「も、申し訳ありません。分かりません。私は、彼について、何も分からないんです…」
項垂れる神父の細い肩が年齢よりも一層くたびれて見える。それが、神父が護衛を拒絶する理由なのか、と漠然と司教は理解した。
「では、神父様。こちらでお待ちを」
司教の腹心の部下でもあり、護衛でもある女性の聖騎士が仲介を引き受けて、神父は聖騎士の紹介窓口となる駐屯所を訪れている。内心、神父は仲介となったのがこの女騎士で安堵していた。男の騎士も悪い人間ではないが、思ったことは全部口に出る性分で根掘り葉掘り神父に色々聞いてくるだろうことが目に見えている。女騎士は必要なことだけを喋り、知性的で沈黙も心地よい。特に今はまともな受け答えが出来るような精神状態ではなかったので、神父にはその沈黙がありがたかった。
身動ぎする度、首筋の傷が熱を持って痛む。それが、昨晩の記憶を呼び覚まして、落ちた影の暗さも、覆い被さる化け物の重みも、当時のことを鮮明に思い出させる。護衛は、翌朝神父の部屋にもう一度やってきた。そうして普段と変わらない調子で話しかけてくるので、神父も努めて普段通りの応対を心掛けたが、出来なかった。護衛の目を見ることが恐ろしい。側に寄られると震えが止まらない。護衛は、そんな神父の様子を見て、深々と溜息を吐くと愛想を尽かしてしまったのかそのままどこかへ消えてしまった。
見限られたのだと思った。
彼がどこに行ったかなど、神父には予想できる材料もないし、そもそも探す義理もない。勝手に付き纏って、勝手に守って、勝手にいなくなったのだ。勝手尽くしの化け物だった。いなくなって清々している。──傷が痛む度、神父は誰も聞いていないのにそう胸中で毒吐いた。
女騎士は現在、この場にいない。以前より、神父に専属の護衛の聖騎士を付ける話題は定期的に教会本部より提起されていた。神父が断るので、司教の方からもやんわり受け流してもらっていたが、もし聖騎士を紹介するなら是非に、との候補が既に数人挙げられている。聖騎士も単に騎士団に所属しているより、高名な誰それとコンビを組んで国中を飛び回っている姿にこそ憧れがある。神父自身が気難しいことは有名なので、対面形式の面談で決めるのが良いだろう、とは司教の助言だった。神父もそれを承諾し、女騎士が面談の調整をしてくれるのを待っているという形である。
突然の話だったので、調整は難航していた。随分待つことになりそうだ、としばらくしてから女騎士と駐屯所を仕切る騎士が申し訳なさそうに告げに来たが、無理を言っているのはこちらなのだから致し方なしと了承する。だが、宙ぶらりんな状態で明日を迎えたくはない。いくらでも待つから、どうにか今日決めさせて欲しい、いくらでも待つ覚悟はあるから、と神父は食い下がる。それなら、と騎士が頷いて手配に向かおうとした刹那、駐屯所の建物の扉が少々乱暴に開かれて、任務を終えたらしい騎士団の一行が現れる。皆一様に上機嫌で声を上げて笑い、戦果は上々だったことが窺える。騎士たちの陽気な空気に押されて神父は道を空ける。それに気が付いた駐屯所の騎士が眉尻を下げる。
「ああ、喧しくてすみませんね。こら、お前たち、神父様の前だぞ」
「ん?ああ、眼鏡の神父様じゃないですか!しばらくぶりっすね」
「お疲れ様です!」
「今日はちっさい神父様は一緒じゃないんですかい?」
神父に気が付いた聖騎士たちは、口々に挨拶や好き勝手な質問を投げ掛けてくる。どれもに曖昧な頷きを返しつつ、やっぱりさっさと帰れば良かったと神父の心は既に折れかけている。一気に喧騒に包まれる室内で、「あ」と駐屯所の騎士がもう一度声を上げた。
「そういえば、紹介するつもりだった騎士が帰還した隊の中にいるはずです。ブラッド、ブラッドフォードはいるか」
「はい!」
騎士団の中でも後尾に並び、ほとんど扉の近くで待機していた騎士の1人が歯切れの良い返事を寄越す。ふざけあっていた聖騎士たちの列が割れて、声の主が進み出てくる。快活そうな若い青年が、駐屯所の騎士の前で敬礼して見せる。
「第三部隊所属ブラッドフォード、帰還しております!」
「ちょうど良かった。今こちらの神父様が護衛の聖騎士を探しておられてな」
言いながら、駐屯所の騎士が神父を振り返る。この衆目の中で紹介されるのはいささか気が引けたが、今更場所を変えて欲しいとも言い出し辛い。神父は痛む首を庇うように、分かるか分からないか程度に頷いて、目を伏せるように会釈した。
「ああ、ええと、どうも」
「………」
ところが、実直そうな見た目に反し、ブラッドフォードからの返答はない。大きな目を一層見開き、穴が空くほど神父を凝視している。何か気に障ることでもあっただろうか、と思い当たることだらけな神父は恐る恐る口を開く。
「…あの、何か?」
「…ずっと!!お会いしたかったです、神父様!」
「えっ」
かと思えば、突然に神父に詰め寄って来て、青年は花が咲いたような笑みを浮かべて神父の両手を握り締める。綺麗に並んだ白い歯列が一層青年の笑顔を際立たせた。一方で、全く面識のない男に至近距離で微笑みかけられて困惑するしかない神父は、青年の顔と握られた手とを交互に見比べる。
「ええと、…どこかでお会いしましたか?」
「いえ!こうしてお会いするのは初めてです!」
元気よくブラッドフォードは言った。神父はますます困惑する。
「では何故…」
「俺の銀の剣、聖成してくださったのは神父様なんです!是非一度、直接お会いして感謝の言葉を伝えたかった…!」
「は、はあ」
説明されても神父の困惑は変わらない。聖騎士の銀の剣に祝福を与えるのは聖職者たちの仕事だが、普通はいちいち誰がどの武器に祝福を与えたかなど気にしない。神父も度々本部から依頼されて武器の聖成を手伝うが、それが誰の手に渡ったかを知る機会はなかったし、知るつもりもなかった。神父の戸惑いにも気が付かず、ブラッドフォードは興奮冷めやらぬ様子で続ける。
「この銀の剣が、幾度も俺を悪魔の魔の手から救ってくれました。俺は今まで、あなたに守って頂いていたのと同義です!」
「あぁ、まあ、ブラッドフォードさん、その、少し離れて…」
「ブラッドとお呼びください!」
普段からそうなのだろう、ブラッドフォード、もといブラッドの対人距離は非常に狭く、ほとんど見つめ合う距離で話し掛けてくる。逃げ出そうにも手を掴まれて身動きの取れない神父の僅かな抵抗さえ、心の距離を詰める口実に変えてしまうのだから、神父も閉口してしまう。その手を離すどころか一層包み込むように握り締めて、ブラッドは駐屯所の騎士を見やった。
「もしかして、俺にこの神父様の護衛を任せてくださるのですか!?」
「いや、神父様が是とされるなら、どうかという話だが…」
「神父様!是非俺に、あなたを守らせてください!」
再びブラッドの視線が神父に戻る。眼鏡の奥の瞳の中まで真っ直ぐに覗き込んでくる無垢な視線が神父にはどうも苦手だった。目を逸らし、黙って成り行きを見ている女騎士に助けを求める視線を送る。すぐさま女騎士が助け舟を出してくれる。
「今はまだ候補からより良い者を見定めている最中だ。すぐに決定を下す訳では──」
「俺は、絶対に他の者より立派に勤めを果たしてみせます!だから、どうか俺を護衛に」
女騎士ではなく、そのままさらに神父に詰め寄ってブラッドが哀願する。手を握られ、引っ張られる度に肩の傷に響くので、とにかく早く解放して欲しくて神父は頷いた。
「わ、分かりました!分かりましたから、それではあなたにお願いします」
「やった!」
ブラッドは両の拳を頭上に突き上げて叫ぶ。尻尾でもあれば振っていそうな喜びようだった。その隙に神父は後退って距離を取る。やんわりと女騎士が庇うように神父の前に立った。
「よろしいのですか?」
女騎士がそのまま問うてくる。とても両者の合意があったとは言い難い状況。そもそも、女騎士がわざわざ駐屯所まで付いてきたのは、司教の息の掛かった聖騎士を神父の護衛に斡旋するためだった。確かに本部からの推薦にブラッドの名はあったが、女騎士、ひいては司教の狙いからは外れた人選である。神父は右腕の袖口で額の汗を拭いつつ、無言で頷いた。考えなしに了承した訳ではない。
神父は喜びに舞い上がるブラッドを呼び付ける。はい、と折り目正しい返事の後、ブラッドは神父の前で敬礼して見せる。基本的には、礼儀正しく好印象な青年なのだが、と神父は彼の視線から逃れるように目を伏せる。
「ブラッドさん。まずは、試用期間を設けさせてください。これは本契約ではありません」
「はい!」
「2週間。あなたの働きを見せてください。私の活動に支障を来すようでしたら、護衛の話はなかったことにしてもらいます」
「もちろん、神父様を失望はさせません」
歯並びの良い口元を惜しげもなく晒して、ブラッドは夢見心地で頷く。本当に分かっているのか心配になるほどに、彼の表情は幸福そのものである。
周囲で一部始終を見ていた騎士団は、既に神父の気など知らないでブラッドの護衛就任を大いに喜んでお祭り騒ぎとなっている。護衛となったからには、是非帰り道は送らせてください!とブラッドが申し出たが、女騎士の助けもあって神父はそれを丁重に断った。
思った形とは違っていたが、とにかく身の振り方は決まった。それだけは安堵してもいいだろう、と神父は帰途の道すがらに回想する。女騎士は最後まで心配そうに他の護衛の候補者も呼び出そうと提案してくれたが、それらは断った。連日の悪魔信仰との戦いの疲れも癒えぬまま、昨晩の味見の件、そして新しい護衛の紹介と立て続いて、気力も体力も限界を迎えている。
それでも、1人で決めて、1人でこれからどうにかしていくための一歩は踏み出せたはず。多少道から外れていても、最終的に目的地に着いていれば良い。化け物と出会う前はそもそもなんでも1人でやって来たのだから、何も問題はないはず──。
そんなことを考えながら往来を歩いていると、進行方向が騒がしくなってくる。催し物でもあっただろうかと考えていると、それは幾人もの悲鳴であると気が付く。幾らもしないうちに石畳の通りの真ん中を六頭立ての馬車が猛進してくるのが目に入る。御者は居らず、馬はどれもが興奮している。がらがらと車輪が石畳を跳ねる音がする。わぁ、と割れる人垣につられて神父も道の脇に避ける。暴れる馬を止める手立ては当然神父にないし、事故に巻き込まれないだけで精一杯。そう思っていると、唐突に先頭の馬が道路の窪みに脚を取られて転倒した。そのまま隣の馬が繋がれた綱に引かれて横倒しになり、続く馬たちも次々と折り重なるように転倒していく。馬たちが引いていた客車は振り回されるように横滑りに歩道に乗り上げ、それがたまたま神父が逃げた先だった。背後のレンガの壁と迫る馬車の影とに挟まれ、神父は束の間思考を止める。
そんな彼の襟首を誰かが掴んで引き摺り倒す。石畳の歩道の上に転がって、あちこちを擦り剥いたが、直後に神父が立っていた場所に馬車の客車が突っ込んで、レンガの建物を半壊させたのだから、どちらがマシかは考えるまでもない。
大丈夫か、と人が駆け寄ってきて声を掛けてくるが、もはや神父にはそんなことさえどうでも良かった。馬車に轢かれそうになった刹那に神父を助けたはずの人影は、既にどこにもない。いや、そもそも始めから人影などなく、普段通りに神父は影の中に潜む「何か」に助けられたに過ぎない。それが分かって、だから一層腹が立つ。
「いるんじゃないですか!」
助け起こしに来た街の人間が、突然に怒り出す神父の声に目を丸くするのも構わずに怒鳴る。姿を消して、もう戻ってこないと思った。見限られたと思った。なのに、普通に影の中にいるなんて聞いてない!
それでも、返答はない。集まってきた野次馬の中にも見慣れた護衛の姿はなく、金色の瞳は見つからない。ああ、そうか、そういうことか。姿を見せる気はないって訳ですね!
「だったら、見てるがいいですよ、あなたなんかいなくたって、十分生き延びて天寿を全うしてやるんですからね!」




