味見
※ボーイズラブと残虐描写の中間くらいの表現が続きます
馬車が教会本部の正門を潜り、大聖堂前の広間に乗り付ける頃には、夜もすっかり更けて深夜を過ぎていた。その頃にはレオも静かに横になっており、スティカはこくこくと舟を漕いで寝息を立てている。テオは立ち上がり、少女の肩を軽く叩く。
「スティカ、疲れているだろうけど起きて。もう着いたよ」
「…ん」
重そうな瞼を懸命も持ち上げて、スティカはぼんやりと周囲を見渡す。長旅に全員の疲労も頂点を越えて久しく、馬車の中の空気は全体的に澱んで重苦しい。外側から御者が扉を開くと、そんな客車の中にひんやりとした外部の空気が吹き込んで、スティカはぶるりと震えた。
「お疲れ様でした、神父様がた。大聖堂に着きましたよ」
年老いた御者が告げる。それまで一切口を開かなかった神父が勢いよく立ち上がり、唐突に声を張り上げて宣言した。
「怪我人を運びましょう」
「えっ、まぁ、…あ、本部から人を呼んできましょう。後続の馬車には…遺体もありますし」
先輩神父の提案は最もだったが、レオは足が折れているから運ぶのにも人手がいるし、トマスも自分では歩けないだろう。遺体に関しては既に簡素な棺におさめて、もう一台の馬車に移送を依頼している。レオの聖騎士2人は力自慢の屈強な男だが、それでも人の手は足りない。テオが人を呼んで来ようと言うと、神父は今気が付いたというように頷いて、「では私が」とさっさと馬車から降りて行こうとする。慌ててテオはその腕を掴んで引き止めた。
「せ、先輩、待ってください、人くらいぼくが呼んで来ます」
「いえ、大丈夫です、他にもまだやることがたくさん」
「先輩!」
思わず語気を強めて呼び止める。振り返りもせず、神父は既に馬車の外に出てテオを引き摺る勢いだった。それでもテオの声は届いたのか、振り向いた神父の顔色は、月明かりのせいだろうか、馬車で見たより一層青白い。テオは神父が逃げ出さないように反対の腕も捕まえて続ける。
「先輩、ちょっと変ですよ。落ち着いてください」
「変?私が?こんなに落ち着いてるのに?」
言いながら、テオの腕さえ振り払ってしまいそうな神父の挙動である。落ち着いている人間の言動ではない、との指摘を敢えて呑み込むだけの聡明さを持ち合わせるテオは、語調を和らげた。
「…きっと、疲れているんですよ。先輩はぼくたちより先にあの街にいましたし、だから、先輩は先に休んだ方がいいです」
「それは、あの、困ります。だって、まだ」
何故か酷く取り乱して、神父が何かを懸命に言い募ったが、テオは首を振る。トマス、レオが負傷し、この場で年長の司祭となるのはこの先輩神父だった。彼が事後処理を取り仕切り、怪我人の治療の手配と、事件の仔細の報告とを務めるべきなのは明らかだったが、今の神父にそれらをこなせる余力があるようには見えなかった。
「後のことは、ぼくがやっておきます。もちろん、後日改めて先輩にも報告書は作ってもらうことになるでしょうけど…今日のところは、ぼくが司教様にも上手く言っておきますので」
「で、でも、テオ……」
ようやく神父が顔を上げてテオを見たが、そのまま彼の視線はテオを通り越した位置を見据えて固まる。落ちた影にテオもつられて振り返ると、護衛の男が背後に立っていた。足音くらい立てれば良いのに、と胸中で静かにぼやいて、テオは護衛を見上げる。
「ちょうど良かった。先輩は大層お疲れだ。アンタ、護衛なんだから、家まで送ってくれないか」
護衛は神父を見て笑みを深め、その視線をテオに戻すと歯を見せてそれを了承した。
「神父様の後輩は気が利くな」
「当たり前だろ。先輩、歩いて帰れますか…」
テオが神父を振り返ると、彼はだらだらと冷や汗を浮かべて足元を見つめていた。これは本格的に不味いのでは、と駆け寄ろうとしたテオに先んじて、護衛が神父の肩を抱く。
「本当にお疲れのようだ。ではお言葉に甘えて、先に失礼するとしよう」
テオは何かを間違えたのだと察した。神父が気にしていたのは事後処理だとか報告だとか、そういった瑣末なことではなかったのだ。だが、こうなってはテオにはもはや彼らを呼び止める理由もない。眷属さえ手玉に取るような護衛が同行するなら、神父の身の安全は守られるだろうと家まで送るように頼んだが、そもそも神父が終始怯えていたように見えたのは──。
「…また明日」
「ああ、また明日」
結局、テオにはそれしか言えなかった。テオの挨拶に応えたのは護衛の男だった。
深夜を過ぎた街の通りには人の影はなく、神父は護衛に付き添われて黙々と自宅までの道のりを歩いた。そんなつもりはないのに、護衛は神父が逃げ出さないようにか、その肩をがっちりと抱いて離さない。自然と足取りが遅くなる神父だったが、そうすると護衛の男は無理やりに神父の背中を押して先を急かす。心臓が締め付けられるように息苦しかった。護衛は何も言わなかったが、その沈黙が一層神父を責め立てるように感じられた。
「ほ、」
耐え切れず、口を開く。妙に掠れて上擦った声が出てしまうが、神父にはそんなことを構っている余裕もなかった。
「欲しいもの、何がありますか?金品に興味がないなら、美術品とか…ああ、あの、食べ物とかもいいですね、えっと、あれ、あなたが欲しいもの、想像つきませんね…」
恐る恐る神父が護衛の顔を見上げると、護衛はいつも人を食ったような笑みを貼り付けて首を横に振った。
「言ったよな」
「はい…」
「味見がしたいって」
当然覚えていた。それでも、途中で気が変わってくれはしないかと一縷の望みに賭けてみたかったのだ。この自称悪魔の男の目的は、神父の魂を食べることである。つまり、味見というのも神父の魂に関して、ということになるだろう。もはや震えを隠すこともできず、がたがたと震えながら神父は囁く。
「あ、味見というのは、やはり指一本とか、目玉一つとか、そういう…」
そもそも当初、体ごと神父を食らおうとしていた化け物である。魂を食べたいと公言する悪魔だが、それは恐らく肉体ごと喰らい付くことを意味しているのだろう。
「はは、味見で減らす気はねえよ」
渇いた声で笑って化け物が言った。
無論、神父は感謝している。護衛がいなければレオやトマスを助け出すことはできず、払うべき報酬は払うつもりがある。だが、近付く毎に思い知るのだ。人外のこの男の発する妖しい気配と理解しがたい独自の価値観、あまりに遠すぎる生物的な違いに、代償を支払う恐怖が勝って逃げ腰になる。教会に付いてあらゆる仕事を請け負おうとしたのも、恐怖を先延ばしにしたかったに過ぎない。逆にテオに心配されて、こうして帰されてしまった訳で、これは自業自得であると神父は痛感している。
気が付くと、2人は神父の自宅のある古アパートの前に立っていた。どこまで付いてくるのか、との神父の不安をよそに、護衛はそのまま勝手に神父の部屋までやってきて、鍵も使わずに扉を開けた。そのまま部屋に足を踏み入れるが、部屋の様子がおかしい。暗すぎる。窓明かりすら差し込まない玄関口で神父は立ち尽くした。
唐突に凄まじい力で服を引っ張られて壁に押さえ付けられる。したたか背中を打ち付けて呻く。薄目を開けて見上げると、己に覆い被さるようにする護衛の男がぎらついた眼で見下ろしているのが分かる。前開きのシャツが乱暴に暴かれて、ボタンがちぎれ飛ぶ。声すら上げることが出来ず、そのまま護衛が尖った歯で晒された首筋に噛み付くのを神父は見ていることしかできなかった。
「……!」
何が、起きているか、分からない。耳の裏でどくどくと血管が脈打つのが聞こえる。噛み付かれた首筋は燃えるように熱い。腰が砕けて立っていられない。仰向けに押し倒された神父を、化け物は未だに解放しない。殺されるはずがない、と高を括って受けたはずの取引で、神父は確かに死を覚悟した。本人にその気がなくても、あと少し化け物が力を入れれば神父の首など容易く取れてしまうだろうし、そうでなくてもあまりの恐ろしさに神父はそのまま息が詰まって死んでしまいそうだった。取引なんてできる相手ではない。人間が推し量れる相手ではない。
始まりが唐突だったように、終わりも唐突だった。噛み付いた傷口をざらりとした舌で舐め取って、化け物は体を起こす。顎に手を添えて、口の中に残った血を味わっているようだった。
「あー、やっぱり旨いな!」
褒めているらしかった。過呼吸になりながら、神父はその姿を見上げることしかできない。ようやくそんな神父の様子に気が付いたのか、化け物が呆れた様子で首を傾げた。
「はぁ?お前泣くことないだろ」
言いながら、化け物が手を伸ばすので、その指先から逃れようと神父は身を捩って後退る。噛み付かれた傷口が焼かれたように熱い。泣いているつもりはなかったが、涙も鼻水も唾液もどこをどのように流れているのか既に判別が付かなかった。
「ひ、ご、ごめんなさ、…」
口を突いて謝罪の言葉が漏れる。痛い。怖い。苦しい。こんな恐ろしいことをするのは怒っているからに他ならない。許しを乞わねば、また恐ろしい折檻が待っているに違いない。
「あ?別に怒ってないって」
化け物が神父の顔の横に手を付く。腕の中に囲われるような形で逃げ場を失って、神父は一層震え上がった。
そこでようやく、化け物は神父が自分に怯えていることに気が付いたらしい。不機嫌そうに何かを考えていた様子だったが、一つの了解に至ったのか頷く。
「血は止めた方がいいだろ」
不貞腐れているような声だった。血を出させたのはあなたでしょうが、と平時の神父なら金切り声で怒鳴っただろうが、今の神父はがくがくと小刻みに頷いて、己の首元を手で止血しながら這うように部屋の奥へと進んでいこうとするだけだった。腰が抜けたらしく、立ち上がることもままならない彼は、じりじりと芋虫より遅い歩みである。化け物が呆れたように息を吐いた。
「あー、じゃあ、救急箱は俺が取ってくるから、お前は…ああ、いいや、あの粗末な寝台がお前の寝床か?」
「え」
這い蹲る神父を抱え上げて、化け物はそのまま彼を寝台に放り込む。その間に部屋に広がった影が救急箱と思しき木箱を運んできて、それを受け取ると中身を一瞥して唸る。
「包帯とか馬鹿馬鹿しい…」
「す、すみません」
「謝る暇があるなら服脱げ」
身勝手な要求が止まるところを知らない化け物である。無理矢理剥かれた衣服は糸が解れて肩から袖口が裂けていた。神父は傷口を庇いながらのろのろと血塗れのシャツを脱ごうとしたが、結局化け物がやってきて、そのまま残った上着も破り取った。
首筋の傷は、咬み傷だ。歯列の形に沿って肉が抉られ、血が溢れて止まる気配がない。それを付けた張本人の化け物が手当てをするなどなんとも間抜けな話だが、神父が怯えて話にならないのでこうするしかない。怯えて逃げ出したいのを懸命に堪える神父の姿は化け物にとっていじらしかったが、もはや目も合わせようとしない神父の様子は想定外を通り越して些か面倒だった。
傷口を神父の作り置いた聖水で洗い、軟膏を塗り、聖水に浸した包帯で圧迫止血する。神父は大人しくしていたが、寧ろそれ以上動けずにそうする他ないといった様子だった。軟膏を塗るために触れるだけでも神父は大袈裟な程に震えて手当にすら難儀した。
化け物は傷の手当を終えると、そのまま影に溶けるように部屋からいなくなった。神父は朝日が登り切るまで、寝台から一歩も動けなかった。
ラブとは?




