そして、帰途へ
不気味な男──悪魔信仰の中心と思しき男が叫ぶ。するとスティカと向き合っていたレオを人質に取る眷属の動きが一瞬止まる。そのまま眷属は舌打ちし、叫んだ男を振り返った。
「ちょ、ボス!なんで俺の名前…っ」
「『ルミエール』『エイブラム』『ケイシー』『マイク』…誰でもいい、化け物を足止めして私を逃がせ!」
「…ああもう!」
もう一つ大きな舌打ちの後、ルミエールと呼ばれた眷属の男は、人質にしていたレオを放り出して屋根から飛び降りる。そのまま地面に降り立って、既に背を向けて逃げ出しているボスの退路を守るように、護衛の前に立ち塞がる。
一方、屋根の上に雑に放り出されたレオは自力でその場に踏み止まることもできずに、屋根を伝って転がり落ちていく。なんとか追い付いたスティカが法衣を掴んで落下を防ごうとするが、長身なレオに対して小柄なスティカは、瞬発力はあっても見た目通りに非力である。そのまま一緒にじりじりとずり落ちていく。
「なんだってボスは突然逃げ腰になったんだぁ?隣の村だってもう少しで俺らの根城にできそうだってのに、今更神父が数人来ただけで怖気付いたのかよ!」
ルミエールは苛立った様子で吐き捨てる。立ち塞がる彼を特に気にした様子のない護衛は、ただすたすたと進んで歩みを止めない。その腰に提げられた抜かれてもいない鉄製の剣を見咎めて、一層ルミエールの表情は険しくなる。この男の足止めのために、自分は悪魔祓いたちの前で名を明かされたのだ。つまり、悪魔祓いと聖騎士たちがこぞってルミエールら名を明かされた悪魔たちを祓っているうちに、ボス1人が逃げ出す算段。強大な魔力と身体能力のために、敵わないと判じたからこそボスだと仰いで担いできたのに、こんな幕引きは許されない。ルミエールほどの悪魔をこき使うボスなのだから、少々分が悪くなったとしてそれをひっくり返すだけの能力を持っていて然るべきだし、それがこんなどこにでもいそうな(どこにでも?いや、こんな気配の男はこれまで見たことはないが、特別に警戒すべき気配や魔力を漂わせている訳でもない)男を化け物と呼んで、尻尾を巻いて逃げ出すような男であって良いはずがなかったのだ。ルミエールは激しく失望していた。そして怒っていた。怒りは暴言となって止まらない。
「人質だっていたんだ、あのままガキの聖騎士をどうにかしていれば、俺たちに有利だった!なのに、余計な横槍入れやがって」
「うるさいぞ、『ルミエール』」
朗らかに護衛が言う。人間如きが俺の名を呼ぶな、と怒鳴るつもりでルミエールは大きく息を吸い込んで口を開けた。直後驚きに目を見開いて固まる。喉を抑え、己の身に起きた変化を探すように体を見下ろす。当然、誰も触れてもいない彼の体に目に見える変化など起きてはいない。そのまま寄ってきた護衛が一つげんこつを落として、哀れなルミエールは状況を理解する暇すら与えられずにそのまま地面に突っ伏すことになる。
護衛が顔を上げると、既にボスと呼ばれた不気味な男は姿を消していた。眷属の類いまれなる身体能力と超常的な魔力を逃走に集中させたのだろう。だが、いくらもしないうちにがさがさと近くの林の木々が揺れて、投げ出されたように転がり出てくる男がいた。逃げ出したはずのボスだった。先までの威圧感などなりを潜め、怯えたように地面を這い蹲る男が護衛を見上げて震える。
「な、なぜ、こんな場所に」
「愚問だな、俺がここにいる理由なんて」
歯を見せて護衛が男を見下ろす。人間よりも鋭い犬歯が覗き、金の瞳が獲物を見定めたように細められる。振り下ろされたのは、やはり固く握られた拳。化け物の返答を聞くことなく、男の脳天にげんこつが炸裂した。
時は少し遡り、屋根の上でレオを抱えてなんとか踏み止まっていたスティカに気が付いたテオと神父が、慌ててその軒下に辿り着いて頭上を見上げていた頃。もはやレオの足は屋根の外に投げ出され、スティカ共々屋根から転落するのは時間の問題である。重傷のレオが受け身など取れるはずもなく、二階建ての家屋の屋根から落下すれば、打ち所が悪ければ生死に関わるかもしれなかった。神父はどうすれば、と考えて、屋根の下で受け止めようと身構えているテオの肩を掴む。
「端を持ってください」
何を、とテオが聞き返す前に神父は身に付けていた丈の長い法衣を脱ぐ。ローブの形をしたそれは、悪魔祓いの正装として上等な布で誂えてある。これを広げて、受け止めようと言うのだった。テオはまごつくこともなく要領良く法衣の端を探し出した。これでどうにか、と息を付く間もなく、「もう、ダメ!」とスティカの悲鳴が絞り出される。神父とテオは同時に落下してくるレオの姿を見上げ、咄嗟に手元の布を目一杯に広げた。
「どわぁ!」
小柄なテオ、細身の神父では高所から落下してくるレオの体重と衝撃を支え切ることはできず、情けなく地面に潰れてしまう。だが、それだけだった。多少不恰好で打ち身はあるものの、運良く背中から落下してきたレオの体はすっぽりと神父らの広げた布の中に包まれて、大怪我もなく受け止めることに成功していたのだ。
「テオ!神父様!」
スティカが心配そうに屋根の上から声をかける。レオの長い足の下で潰れながら、手だけを伸ばしてテオはひらひらと振った。
「なんとか間に合ったよ、スティカ。1人でよく頑張ってくれた」
「ありがとうございます」
神父も屋根の上を見上げて礼を言う。スティカは一瞬、微妙な顔をしたが、すぐさま思い直したように頷きに変えてはにかんだ。
「間に合ってよかった」
「本当に」
視線をレオンハルトに戻して、神父は神妙に頷く。痛みに呻く彼の姿は、いつぞやの己のようにぼろぼろで、酷い拷問の痕が窺える。何をされたのかは聞くに及ばなかった。悍ましいことだけは確かだった。ただ、それだけに腑に落ちないことがある。
「あなた、どうして我々の名前を言わなかったのですか」
レオたちを救出に向かう際、神父らの作戦は奇襲によって名による縛りを受ける前に人質の奪還を達成するという雑な計画であった。無論、それは神父の味方に付く護衛がいてこその作戦だが、結果として誰一人──神父やテオ、スティカはおろかレオの聖騎士に至るまで──眷属の首魁に名を呼ばれ、行動を制限されることはなかったのである。奇襲によってそれだけ敵勢の不意を突けたものとも思ったが、違う。そもそも悪魔信仰はレオから神父ら一行の名を聞き出せなかったのだ。
咳き込みながら、レオは半目で神父を見上げる。怪我人にそれを聞くか、と気怠げにする彼の表情が物語っている。レオはぼそぼそと囁くように答えた。
「私が…服従を誓うのは主神のみ…。悪魔の命令になど、屈するものか…」
「へえ〜、レオ神父って意外とガッツあるんですね」
「意外とはなんだ意外とは!」
横から覗き込んでくるテオがしみじみとそう呟くと、遅れて悪魔憑きたちを斬り伏せた聖騎士がやってきてテオの無礼を叱る。それらは敢えて視界に入れず、神父は独りごちるように頷いた。
「…あなたのような方を、死なすには惜しいと言うのでしょうね」
「なに…?」
「いえ、ご無事で何より。酷い怪我です、まだ動かない方がいい」
それまでレオの頭を支えていた神父は、さっと立ち上がって周囲を見渡す。支えを失って地面にしたたか頬を打ち付けるレオに慌てて聖騎士2人が駆け寄って、改めて楽な体勢になるように彼を抱き起こした。神父が見渡す限り、周囲に敵影はない。テオと神父、聖騎士の2人で悪魔憑きたちは祓い清められた。トマスも護衛に気絶させられてどこかに転がっているはず。一方で眷属の男2人を引き摺りながらこちらに歩いてくる護衛が、のほほんと「終わったな」と告げた。
帰りの馬車に揺られ、一行は既に教会本部への帰途にある。辺境の地での悪魔信仰の調査は、聖騎士2名の尊い犠牲を出しながら、構成員を全員捕縛することで一応の終結を見た。激しい戦闘の最中に傷を負った悪魔祓いとその同行者である聖騎士たちは、ひとまずの療養と休息、そして報告のために、事後処理を地元の教会に任せて出立を許された。
この馬車には生存者が乗っている。重傷のトマスとレオは馬車の後方の座席を広く使って横たえ、神父が新しく用意した聖水を飲ませてひとまずは治療としている。簡単な応急処置は街の教会や医者が施してくれたが、やはり王都に勝る技術と物資はない。さっさと教会本部に戻るのが得策だった。
特に、トマスは重傷だった。度重なる拷問と聖騎士を死なせたショックで精神的に立ち直れない程に痛め付けられてしまったように見える。彼は悪魔信仰の村から離れてもしきりに許しを乞い、何かに怯えたまま会話もままならない状態だった。聖水を飲ませ、なんとか眠らせて今は静かだが、彼が悪魔祓いに復帰するのは望み薄に思われた。
「き、君は一体どういう原理で眷属と戦っていたのかね!?」
とはいえ、レオの方は比較的軽傷である。足は折れ、肋も数本身動ぎする度に痛むそうだが、意識ははっきりと覚醒している彼は道中、眷属との戦いで活躍を見せた護衛に興味津々といった様子で質問が絶えなかった。
「銀の剣も、それ以外の銀の武器も使っていないように見える!なのに、君は次々と眷属を倒してしまった!」
「それ、私も気になる」
スティカが身を乗り出す。彼女はこの任務の間にすっかり護衛に懐いてしまったようで、彼の隣の位置を確保している。護衛は話題の中心となって居心地悪そうに視線を泳がせた。
「あー、その、なんだろうな。説明が難しいんだが」
「うん」
「特殊な…ええと、歩法、そう、それだな、特殊な歩法で場を清めながら戦っている」
随分と悩みながら、それでも表情だけは大真面目に答える護衛に、スティカ、レオはぽかんと口を開けて固まる。全く聞いたことのない格闘術である、とテオは護衛の反対隣に座る神父に耳打ちする。
「アイツの言ってること、本当なんですかね?なんか胡散臭い……先輩?」
ところが、テオの言葉にも神父は反応を寄越さない。彼は護衛の隣で真っ青な顔をしたままひたすら己の爪先を見つめて、周囲の会話も全く耳に入っていないようだった。これは只事ではない、とテオは神父の肩を揺らす。
「先輩、大丈夫ですか?」
「えっ、あ、はい」
初めてテオが隣にいることに気が付いた様子で、神父は顔を上げる。もしや、とテオは彼に詰め寄った。
「もしかして、先ほどの戦闘でどこかお怪我を?」
「いえ、怪我はしてません」
隠しているなら、嘘を付くのが下手な先輩神父は何かボロを出すだろう、とテオは敢えて眼鏡の奥の神父の目を覗き込むように尋ねたが、神父はそもそも心ここにあらずといった様子でぼんやりと遠くを見るようにして視線が合わない。
では何が、と言い掛けて、護衛が2人の間に顔を覗かせる。気のせいか、神父の顔色は一層悪くなったように見えた。
「神父様は随分と疲れているようだ」
テオの予想に反し、護衛の男の指摘は普通だった。どうせ、また神父に不遜な軽口を言うのだろうと思っていたテオは、用意していた返しの言葉を忘れてただ頷く。
「…ええ、そうですね。疲れていらっしゃるように見えます」
休んだ方が良いのでは、とテオが提案したが、神父は小さく首を振っただけで教会までの道中を一睡もすることはなかった。
一応、護衛が言ってる特殊な歩法で〜というのは適当なでまかせです。




