飛び込み営業
黒いローブに黒い革の手袋で指先までを覆い、銀製の輪に鎖を繋いだ首飾りを提げた姿を見れば、それが悪魔祓いであることは道行く子供ですら知っていた。一見、暗黒を思わせる重苦しい装束は、見る者に畏怖すら抱かせたが、己に恥じるところのない善良な市民が悪魔祓いを恐れる必要はない。彼らの敵は、人を欺き苦しめる悪魔のみ。
彼らの注ぐ聖水に魔を祓う力こそあれど、人を傷付けることはない。純粋な水から聖職者の祈りによって聖成されるそれは、悪魔祓いの唯一にして最大の武器だ。人に取り憑き、邪を為す悪魔を消滅せしめ、消耗した人間の気力を癒す。彼らは祈りの込められた聖なる水を小分けに持ち運び、悪魔に苦しむ人々の元を訪ねては、その手で穢れを清めて回るのだった。
そんな悪魔祓いの姿そのものの神父が往来を歩けば、やはり道行く市民は足を止めて振り返る。教会から派遣される正式な悪魔祓いを目にする機会は少ない。それが貴人用の馬車も使わず徒歩で移動しているとなればなおさら。先の依頼で外套を駄目にしてしまったのは失敗だった、と神父は密かに眉根を寄せる。行きはその外套を羽織ってきたので、好奇の目で見られることもなかったが、膝丈まである外套は金持ちな商人の邸宅で、悪魔憑きの吐く消化液で穴が空き、その上小競り合いの最中ぼろぼろに裂けて使い物にならなくなっていた。こうなれば、道中で外套を新調すべきだろうか。あるいは、今からでも馬車を用意して教会に戻るべきか。
そんなことを考えていると、突然首根っこを掴まれて後ろに引き摺り倒される。一番上まで留めてあった詰襟が一層締まって、息が詰まる。即座にこんな悪ふざけをする男の顔を思い浮かべて神父は脳内に十の文句と小言をそれぞれ思い浮かべた。位置からしても、状況からしても、神父にこんな真似をするのは背後を歩く護衛の男を置いて他にない。喉まで出かかったそれらの言葉は、しかし口にするには至らない。
次の瞬間、神父が直前まで立っていたその場所に、高所から素焼きの植木鉢が落ちてきて、そのまま石畳の道に叩き付けられて砕け散った。遅れて往来に悲鳴が上がる。見上げると、道沿いの建物のベランダから、吊るされていた鉢が落ちたようだった。
「ぼさっと歩いてんなよ」
呆然と飛び散る黒土を見つめる神父を、掴んだ首根をそのまま持ち上げて護衛の男が立ち上がらせる。遅れて自分が助けられたことを悟った神父は、何とも言えない表情で視線を逸らすとそのまま舌打ちを吐き捨てる。礼の一つも言えないのか、と護衛は呆れたように手を離した。
「そ、そのお姿、あなた様はもしや教会の神父様ですか!?」
鉢植えの落下で衆目を集めたのだろう、いつの間にか神父とその護衛の周りには小さな人集りができており、その中の一人が声を上げる。さっと人の壁が割れ、声を上げた初老の男が進み出て来る。神父は護衛に引き摺られて乱れた装束を整えながら、小さく溜息を零す。やはり、早めに外套を調達すべきだった。
「…ええ、まぁ…そうなりますね」
「天は我々を見放さなかった…!!ここに悪魔祓いの神父様を遣わして下さるとは!!」
感極まった様子で男が天を仰ぐ。面倒なことになった、と隠すでもなく神父は眉尻を下げる。
「いえ、あの、遣わされたのではなく、他の依頼でたまたま…」
「たまたまここを通りがかった!それこそ主神の御導き…!神父様、立ち話もなんです、どうぞ我々の屋敷に」
神父が男の言葉を遮るつもりで上げた手を、男は差し伸べられた救いの手だとでも言うように握り返した。否、本当に困窮しているのだろう、その熱意には神父も気圧されてしまう。背後でまた護衛が笑いを堪えているのが知れた。それが余計に気に障り、神父の語気も思わず荒くなる。
「そういう訳にはいきません。悪魔祓いは入念な準備と下調べを済ませた上で臨む必要のある儀式です。教会にご依頼の上、然る手順で手配された悪魔祓いが向かうのが筋かと」
建前としてはそうなっている。無論、それ以外にも理由はある。まずは悪魔祓いに必要な聖水がない。これは貴重なものだ。不純物の含まれない水に、聖職者の祈りを捧げることで聖成されたものだけが聖水と呼ばれる。無論、今回の正式な依頼に際し、予備の聖水はいくつか小瓶に詰めて持ってきたが、これで足りる保証もない。
次に、悪魔祓いを斡旋する教会の面子というものがある。通常、悪魔祓いは教会に所属し、教会に寄せられた依頼の中から最適な人選が為された上で任務として仕事が斡旋される。それは悪魔祓いたちの能力を加味したものでもあるし、あるいは得られる報酬や名声を均等化する目的もあった。教会を通さずに悪魔祓いの仕事を受けることは、基本的に悪魔祓いの仲間たちに良い顔はされない。まして、それが既に教会に依頼された相談となれば尚更だった。教会から他の悪魔祓いが向かっている可能性もある。
「し、しかし教会に相談して、神父様が派遣されたと連絡が来てから既に何週も経過しております!沙汰を待っていては、憑かれた者の体力が保ちません!」
男は食い下がる。神父の手を握る腕にも力が篭っていた。ここで見つけた天の配剤を逃すものかと思っているのは明白だ。さて、なんと言って断ったものかと神父は思案する。聖水がないと言ってしまえばそれまでだが、他にも何か都合のいい理由を付けて──
「報酬は、相場の2倍ご用意いたします!それでも足りなければ、3倍…」
「今までさぞお辛い日々を過ごしておいででしょう。ご安心ください、私が来たのはやはり主神の思し召し。悪魔共を一網打尽にしてご覧にいれましょう」
にこやかに微笑んで、神父もまた男の手を握り返す。男は泣き出さんばかりに「神父様!」と破顔して叫び、その横で護衛が我慢しきれずに噴き出していた。
縋り付いてきた男に乞われるまま、神父と護衛が案内された先は街の役場だった。公共機関の相談を何週も放置するとは、教会も対応が杜撰であると言わざるを得ない。あるいは、派遣される悪魔祓いが準備に手間取っているのだろう。神父なら、教会から要請があったその日には出立して依頼先に向かっている。悪魔祓いの仕事は割がいい。件数をこなした方がより多くの収入を得られるからだが、それはさておき。
「悪魔憑きだと思われるのは、うちの秘書でして」
初老の男は街の長である、と自己紹介をしてから、役場のロビーに急拵えで置かれたらしい応接用の椅子を神父に勧めた。神父はそれを固辞しながら話の続きを促す。
「よく気が付く温和な男なんですが、ある日を境に人が変わったように乱暴を働くようになって…。これはおかしいと街の神父様に相談したら、悪魔憑きだろうと」
「なるほど。今彼はどこに?」
「留置所に連行しようとしましたが、抵抗が激しくて。ここの応接室に閉じ込めたのですが、要求を呑まなければ宿主の男を殺すと言って、食べ物や若い女を寄越せと」
「渡したのですか?」
神父の表情が眼鏡の下で曇る。市長は「まさか」と大きく首を振った。
「悪魔憑きが女に乱暴をして、悪魔の子を孕ませるのは、街の神父様から忠告されて知っていました。ですから、食糧だけを日に数度…」
「比較的、理性のある悪魔ですね」
神父はそう呟きながら手持ちの聖水の小瓶の数を確認する。3個。先の依頼で倒した悪魔のように、肉体を手に入れた万能感に溺れ、周囲に攻撃的になる程度の知能しか持たない悪魔が相手であれば苦労は少ない。消費した聖水も2瓶。しかし、宿主の命を交渉材料に、更なる寄生主を探す知能を持つ悪魔が相手となると3瓶では心許ない。
「宿主を殺すことは、悪魔にとってもメリットはありません。人間の世界で悪魔は肉体を持たず、それ故に人に取り憑く。彼が殺されることは、今のところないでしょう」
「ですが、もうあの部屋に閉じ込めて随分立ちます。生きてはいても、あいつの体がどうなっているか…」
僅かな会話の内に、市長の人柄の良さは十分知れた。彼が必死に神父に助けを求めたのも、ひとえに秘書の男の身を案ずるあまりのことだろう。彼が報酬の額を弾むと言ったのも、私財を擲つ覚悟があってのことかもしれない。同情した訳ではないが、確かに早めに解決した方が良い案件である。神父は頷いた。
「分かりました。悪魔憑きを閉じ込めているという応接室に案内してください」
応接室の豪奢な扉は、外側から無骨な木の板が打ち付けられて固く閉ざされていた。それでも中から脱出しようと暴れたのだろう、いくつかの板は割れ、釘は飛び出て扉自体にも歪みが生じている。随分力のある悪魔なのだろう、と神父がぼんやりとそれを眺めていると、市長が応接室の向こうにいる者に聞こえないようにという配慮からか、声を潜めて言った。
「秘書は、体格のいい男なのです。趣味で格闘術も習っていたとか…閉じ込めるのに随分苦労しました」
「…あまり良くないですね」
ますます聖水3個では心許ない。市長は護衛を振り返り、彼の上背を見上げながら続ける。
「神父様の護衛殿より、身長は高いかと…。体格も、細身の護衛殿よりがっしりしてるというか」
「細身ですって」
思わず状況を忘れて神父が口を挟む。市長は「失礼を申しました!」と慌てて頭を下げたが、神父はどこか面白がるように首を振った。護衛の方は、己の体を見下ろして何処と無く萎れたように見える。
「まぁ、ともあれ、悪魔を祓うのは聖なる加護。護衛の出る幕はありません」
一つ咳払いをし、表情を無に戻した神父は扉を開けるように市長に促す。市長は神妙に頷き、板剥がしの工具を持ち寄った職員二人に指示を出した。一つ、また一つと止め板が剥がされていく。その数が減るにつれ、作業にあたる職員の表情にも焦りと怯えの表情が混じる。あれだけ頑丈に止めてようやく閉じ込めた相手なのだ。戒めが少なくなれば、いつ残りの板を吹き飛ばして出てくるか知れない…と、そんな不安が彼らの脳裏に過ぎった頃、それは期待に応えるように現れ出た。応接室の扉が内側から蹴り破られて、大柄な男が姿を現す。その衝撃で扉の近くにいた職員は吹き飛ばされて、壁まで転がっていく。別な部屋で仕事中らしい他の職員の悲鳴が方々から響いた。
「ようやく俺様を出す気になったか!クソ市長め、貴様から八つ裂きにして食ってやる」
大柄な男が吠える。市長の言う通り、護衛より大柄な体躯のその男は、張り詰めた筋肉に血管が浮かぶ。数週に渡る監禁のために、開いた扉から異臭が漂う。食べ物の腐った臭いと糞便の臭いが混ざったそれに、市長は思わず鼻を覆って後ずさった。
その動きにようやく悪魔憑きは、状況を把握したらしい。市長の隣に並び立つ黒服の神父に初めて気が付いたのだ。彼は再び声を上げて吠えるように笑った。
「俺様の要求をかわして時間を稼いでいる間に、悪魔祓いを連れてきたって訳だな」
「ええ、そうです。私が依頼されて来た悪魔祓いです。早速ですが、お名前をお聞かせ願えますか?」
横暴な物言いと脅すような声量に気圧されることなく、神父はそれまでの調子を崩さずに問いかける。悪魔憑きは一層笑い、神父を見下ろした。
「がっはっは…!悪魔に名を聞くか。とんだ酔狂野郎だぜ、名を聞いてどうする?」
「人間の体から退去するよう命じます」
「言わなかったら?」
「仕方がないので、聖水で『言いたくなる』ように仕向けましょう」
神父の経験上、素直に名を吐く悪魔はこれまで一人たりともいなかった。だが、仕方ない。これが神父が教わったやり方だ。まずは対話を──万人を愛せよ──唯一彼が尊敬する司教の言葉である。神父にそんな博愛の精神は未だ芽生えないが、形だけでも真似ておく。
ひとしきり笑った後、悪魔憑きの男は前触れなく神父に殴りかかってきた。想定していたのか、危なげなくそれを躱して悪魔憑きの背後を取るが、外れた拳は役場の壁をやすやすと破壊して大穴を空けた。逃げ遅れた市長が悲鳴を上げるが、それは護衛が腰のベルトを掴んで退避させる。素早く神父は握っていた聖水の小瓶の蓋を弾いて開ける。暴れさせてもこちらに利はない。早々に片付けるべき、との思考は横合いから伸びてきた腕に中断される。先まで床で伸びていた職員の一人が神父に抱き付いてきたのだ。否、神父の動きを封じるように、羽交い締めにしようとしている。
思わず手元の聖水を壁を張るようにかけ流す。すんでのところで神父に新手の攻撃が届くことはなかったが、聖水は悪魔を祓うことなく床にぶちまけられてしまった。残り2本。
「…二体いたのですか」
神父は後退り、吐き捨てる。大柄な悪魔憑きの方がゴキゴキと首を鳴らしながら答える。
「おうよ、初めはこの体に二人で潜んでたって訳だ。もう一人の宿主を探す前に閉じ込められちまって、ほとほと困っていた訳よ」
「だが、神父様よ、アンタが来てくれて、扉が開いて助かった。俺たち、ルームシェアにはもう懲り懲りなんでな」
職員の一人が板剥がし用に持参した斧を拾い上げて肩に担ぐ。これも悪魔憑きと見て間違いないだろう。悪魔憑き二体に囲まれ、いよいよ分が悪くなった。一人は拳で壁を破壊するような大男。もう一人は武器を持って神父の死角を突く。
「助けて欲しいならいつでも言えよ」
囲いの外から護衛が声をかける。悪魔憑きたちが揃って声を上げて嘲笑った。
「はっはっは、健気だねぇ。神父様の身を守るために、身を挺して庇ってくれるとよ」
「護衛の鑑じゃないか。ほら、神父、早く助けを呼んだ方がいいぜ」
しかし、それまで険しい表情で悪魔憑きたちを見上げていた神父は、一層眉を吊り上げて護衛を睨み付けた。
「…手出しは無用です!私一人で何とかします」