蛇を食う男
悪魔信仰の眷属だった男を引き摺り、引き摺り、神父が近くの街に辿り着いたのは、村を出発したのが昼過ぎであるのに対し、すっかり影が伸びた夕暮れ時だった。護衛の男の手を借りるつもりはない。男は、あくまで神父の命を守ることにしか頓着がなく、それ以外の頼み事は率先して行わなかった。気紛れで手を貸すこともあるが、本当に猫のような気紛れさで神父にとってもその行動を予測することは難しい。基本的に神父のなすことには愉快そうに笑っているが、どういうタイミングで不機嫌になるのかも神父は把握していなかった。
およそひと月と半分ほどを共に過ごし、およそ分かってきたことといえば、護衛──自称悪魔であるこの男は、神父の虚勢を面白がっているらしいということだ。少々暴言を吐いた程度では気分を害することはなく、恭順の姿勢よりも対等であろうとする神父の姿をいじらしく思っているようだった。初め、神父は自宅近くまで付いてきた男に大層怯えて、何をするのにも彼の機嫌を損ねないように戦々恐々としていたが、男が笑いながら「そういう態度は好きじゃないな」と告げるので、やけくそで居直って悪魔のめちゃくちゃな要求を糾弾した。勝手に来て、断れない状況で交渉を持ち掛けてくるなんて、全くフェアじゃない。いや、そもそも見ていたならどうしてもっと早く助けに来なかった。平時であれば、男の要求にももう少し損得を加味して答えることができたはずだと、そんなようなことを口走った。果たして、それが正解かどうかは定かでないが、ひとまずこれまで化け物は神父を見捨てたことはない。多分、反抗的にしている方が面白いのだろう、と推察し、以降神父のスタンスは「頼んでもいないのに付きまとわれて迷惑している」である。
街の交易場から、教会本部に早馬を飛ばす。悪魔信仰の活動あり、至急応援頼む、という内容の書簡を持たせ、教会御用達の信の置ける伝令に託す。捕らえた悪魔信仰の徒はひとまず街の衛兵に頼んで拘束してもらい、他の道中に置いてきた仲間たちも、一応捕縛を依頼した。もしかすると、既に逃走してしまっているかもしれないが、放っておくよりはマシだろう。
早馬とはいえ、この街から教会本部までは距離がある。伝令が届き、応援の悪魔祓いと聖騎士が編成されて、この街に到着するまでは数日を要するだろう。それまで体を休めておかなければ、いかに神父を守る男が規格外の化け物であっても、任務で足を引っ張るような無様は晒せない。それに、働き通しで沐浴も満足に出来ていない。古びた教会の掃除で法衣も薄汚れているし、体を洗い清めたいところである。
そういう訳で、神父は街の宿場に来ていた。通常、遠方での任務に掛かる旅費は経費として計上できることになっている。任務に必要なことであるから、と上等な客室を選ぶことに一切の躊躇のない神父の様子に護衛は相変わらず爆笑している。それを無視して神父が話を進めていると、宿の受付嬢が台帳を指し示して言った。
「二日以上宿泊のお客様には、お名前の記帳をお願いしております」
防犯の為に、と受付嬢は用意された口上をそのまま読み上げるように続けるが、神父は護衛を見て露骨に嫌そうな顔をした。
名前というのは、魂に直結する情報だ。名を知られるということは、魂を丸裸にして目の前に差し出すのと同義である。超常的な力を持たない只人は、相手の名を知ったところで出来ることなどほぼ無いが、魔力を持つ悪魔は違う。魔力を以って真名を読み上げられると、その命令に逆らうことはできない。呪いの一種であるそれは、逆もまた然りであった。悪魔であっても聖水によって極限まで魂を擦り減らし、弱らせることで、真名さえ分かれば人間である悪魔祓いがものを命じることができた。
あるいは、魂の練度が高い者は、真名を呼ばれて命じられても、抗うことができるとされている。レオンハルト神父が度々大声で名乗りを上げるのは、己の魂がそれだけ徳を積んで練度が高いと信じているためだが、神父にとって練度がどうとかいう話は、この化け物の前ではあまり意味がないのではという予感がしている。事実、いつぞやかに神父は、護衛に名を聞かれ「悪魔に名乗る名はない」と突っぱねた。名を知られ、交渉も何もかもをすっ飛ばして魂を差し出すように命じられては敵わない、とその理由を続けたが、護衛は例によってにたにたと笑い、「そんな品のないことはしない」と答えた。あくまでしないだけであって、出来ない訳ではないのだ、と薄ら寒い思いをしたのを神父はありありと覚えている。
神父が渋い顔をしている横から台帳を覗き見て、護衛が言った。
「んなもん、適当に偽名でも書いときゃいいだろ」
堂々と偽名を推奨する護衛の軽口に受付嬢は貼り付けた笑みを強張らせる。神父は護衛を押し退けて唸った。
「ちょっとあなた、余計なこと言わないでください」
「だって神父様が困ってるからさ」
「護衛様も宿泊されるのですよね、是非ご記帳を」
受付嬢が固い笑顔のまま護衛にペンを差し出す。護衛が笑顔のまま固まる。今度は神父が眼鏡の下でうっすらと笑う番だった。
神父は敢えて化け物の名を聞いてこなかった。教えたんだからお前も教えろ、などと言われるのはごめんだったからだ。だが、不可抗力で知ってしまったのなら、そんな要求は聞かずに済むだろうと思うと、ついつい悪ノリしてしまう。
「ほらぁ、どうしたんですか。お名前、ご自分で書いたらいいじゃないですか」
「はぁ〜?俺の名前を、こんな場末の宿屋で明かすか?」
この街の中では随分と高級な部類に入る宿屋である。護衛の言葉に従業員たちはいい顔をしない。神父は慌てて護衛の口を塞いだ。茶番はおしまいでいいだろう。
「ああ、失敬。何かあれば、主神教本部までお問い合わせください。悪魔祓い38番目の使徒だと言えば分かるので」
言いながら、神父は首から提げた銀の首飾りを外し、その裏に刻まれた文字が見えるように受付嬢に渡す。祝福を受けた銀の飾りは悪魔を祓うのみならず、聖職者、特に悪魔祓いの身の証としても通用する。立場上、名を明かすのを渋る悪魔祓いの為に用意されたものであるが、悪魔祓いの場以外で真名の秘匿に神経を尖らせる者は少なかった。かつて、悪魔信仰が蔓延る街で、神父はこれを破損していたが、改めて新調した物が現在首に掛かっている。受付嬢は注意深くこれを確認し、渋々といった様子で首飾りを神父に返した。
「…では、確かに。部屋のキーはこちらになります」
「どうも」
古めかしい真鍮製の鍵を二本受け取り、神父は申し訳程度の愛想笑いを浮かべて見せた。
今回の任務は、そもそも司教から直に下された命令である。見送りまでされているので、護衛を伴っていることは明白で、にも拘らず教会への宿泊費の請求が一人分では、護衛にどんな仕打ちをしているのかと神父の方が審問されてしまう。無論、化け物と同室に泊まるのは御免被りたい神父は、護衛用の部屋を頼んでいた。隣室になるのは百歩譲って我慢しよう。そもそも、普段からどこで寝泊まりしているか分からない男である。
「はい」
神父は真鍮の鍵の内の一つを護衛に渡す。護衛はそれを摘み上げ、興味深げに様々な角度から見つめた。
「鍵、ねぇ」
そんな護衛が寝間着に着替えて布団を被っている姿が想像できず、神父は気が付くと口を開いていた。
「あなたも眠る必要があるのですか?」
「ううむ、難しい質問だな」
護衛は大真面目に腕を組んで視線を上方に逸らす。
「羽根を畳んで休むことはあるが、お前たちのように意識を失っている時間はない。となると、眠っているとは言い難いか」
度々、護衛は自らの生態について話すことがあった。深く関わり合いたくない神父は努めてそれを聞かないようにしていたが、剽軽な物言いとは裏腹に護衛は博識だった。悪魔を自称する割に、人間の歴史や風俗にも明るく、それらの知識と合わせて、悪魔たちの事情にも信憑性があるような話をするので、全てを疑ってかかることに神父は既に限界を感じている。恐らく、彼の言う通り、人に取り憑く必要のある悪魔たちとは、この化け物は一線を画した存在なのだろう。
ぼんやりとそんなことを考えていると、護衛が受け取った鍵を使って扉を開ける。明かりのない室内はそれにしても異様に暗く、窓明かりすら差し込まない。遅れて、既に護衛の『本体』の方が部屋の中にいるのだと察しが付いた。
「まぁ、さすがに宿屋で死ぬようなことはないだろう。ゆっくり休めよ、神父様」
そのまま暗がりに消えていく男の姿は既に闇に溶けて定かでない。六つ並んだ金の瞳だけがうっすらと細められてこちらを見ていた。神父は慌ててその扉を閉めて宿の廊下を見渡す。人に見られてでもいたらどうするつもりなのか。──これまで、護衛がそのようなヘマをしたことは今まで一度もなかったが。
溜息を吐く。最初は、あの金の瞳が恐ろしくて仕方なかったというのに、随分と慣れてしまったものだ。護衛と出会った当初は、暗がり全てに化け物が潜んでいるのではないかと気が気ではなかったが、最近はそれにも慣れた。化け物は神父の目に付く影には大体いた。それこそ、神父の足元に落ちる影の中にすら。どのような原理でかは不明だが、化け物の一部は影の中を行き来して、護衛が近くにいなくても神父を助けて来た。毎回それに怯えるのにも疲れてしまって、今ではそういうものだと納得している神父である。
神父もまた、割り当てられた部屋の鍵を開けて、中に入る。汚れた法衣を脱ぎ去って、ひとまず湯浴みを、と浴室に立ち入る。綺麗に清掃されたそこには、宿泊者用に白いタオルが畳まれて置かれていて、何とは無しに神父はそのタオルを持ち上げる。妙に重量のあるそれに視線を落とすと、細長い黒い影がちらついた。蛇だった。
「わ」
田舎の宿場では、建物も古く虫や動物が部屋に紛れ込むことなど日常茶飯事だが、古アパートとはいえ整備された王都に住む神父にはここ数年お目にかかる機会のない生き物である。突然の来訪者に驚いた蛇が大きく顎を開く。漠然と、蛇には毒があるらしいという記憶だけが神父の脳裏を過ぎる。
「こら」
どこからともなく声がして、牙を見せていた蛇の鎌首を違う黒い何かが掴む。それは神父の足元から伸びた一筋の影だった。蛇は抵抗するように影に巻き付いたが、影は気にした様子もない。何が、と目を白黒させている神父の前で、影が蛇を掴んだまま言う。
「いや…あのな、そんなすぐ死にそうになられると、俺もびっくりするんだが…」
化け物の声でそう言って、影は肩を落とすような仕草をして見せる。言われて、神父はようやく驚いた様子で目を丸くした。
「え、私死にそうになってたんですか?」
「そうだよ!?ほら、毒蛇!」
影は蛇の体を伸ばして見せて、体の横にこの模様がある蛇は毒があるから要注意、というようなことを懇々と説明した。神父はそれを聞き流す。どうせ覚えたところで、何かあればこの化け物がどうにかしてしまうのだから。
あまり神父が真面目に聞いていないのを悟ると、影は蛇を掴んだまま神父の足元の影に引っ込んだ。思わず声を上げて神父は足元を覗き込む。蛇の姿まで跡形もなく消えている。
「えっ!さ、さっきの蛇はどうしたんですか」
「あ?」
律儀に答える影は未だに足元にいるらしく、そこから声が返る。影はしばし沈黙し、それから半笑いで続けた。
「知りたいか?」
「………」
瞬時に、生きた蛇を頭から踊り食いする護衛の姿を想像してしまう神父である。全力で首を横に振り、悍ましい妄想を脳内から振り払うことに専念した。




