"あの街"で起きたこと4
最初に異変に気が付いたのは、恐らく神父だっただろう。度重なる暴行によって、視覚も聴覚も正常には機能しておらず、そのうちに衝撃すら感じなくなった。痛覚が失われてしまったのだと思ったが、依然として全身は鉛のように動かず、息を吸うたびに肺が軋んで脳が痛みに悲鳴を上げた。
──息が吸える?
自分を取り囲む悪魔憑きたちの気配は残っている。だが、彼らの暴力の手が神父に届いていない。そのうちに、一人、また一人と神父を取り囲む人影が減っていく。その頃には、既に悪魔憑きたちも異変に気が付き、騒然としていたのだが、鼓膜が破れてぼんやりとしか周囲の音を聞き取れない神父にそのことは分からなかった。
眷属の大男は、その光景を見て唇を噛む。なんだ、これは。何が起きている。
悪魔憑きの雑兵たちが、住宅街の合間に出来た路地の影へと引き摺り込まれていく。黒い影のようなものが、悪魔憑きの足に絡み付き、そのまま引き摺って行くのが微かに見えたが、眷属の動体視力を持ってしてもそれ以上のことは分からない。とにかく、人間ではあり得ない。神の定めた摂理の内で生きる人間にこのような芸当ができるはずがない。であれば、影の内に潜むのは悪魔か天使か、理外の存在になる訳だが、天使は下界での出来事に不干渉であるので除外される。すると、悪魔であるという結論になる訳だが…。
悪魔たちは、姿が見えずともお互いを認識できた。一つ所に群れて集まらないのも、敢えてお互いを避けて縄張りを侵さないようにしているからで、それ故に今目の前で起こっていることはおかしかった。眷属の誰もが、影の内に潜む者が自らと同じ悪魔であると認識できていないのだ。
既に神父の周囲に悪魔憑きはおらず、皆がその路地にいる何かを警戒して距離を取っていた。その警戒を嘲笑うように、一筋の影は神父の足首に巻き付いて、彼を路地の奥、暗闇の中へと引き摺り込む。あ、と悪魔憑きたちは声を上げたが、それを追う者はいない。もはや、死にかけの神父一人の体より、今彼らが対峙している何者かに対する注意を途切れさせないことが重要だったのだ。
かくして、神父は暗闇に引き摺り込まれ、その何かを見る。掛けている眼鏡はとっくに壊れて何処かに行って、流れた血が目の中に流れ込んではっきりと物が見える状況ではなかったが、それでも暗闇の中にぼんやりと浮かぶ三対の金色の瞳が、己を見下ろしているのが分かった。暗闇は神父を宙吊りにしたまま言った。
「さすが天使共が付け狙う魂。美味そうだ」
そうして、口を開ける。そこには暗闇しかないはずだが、確かに口を開けて、食らい付こうとしているのだと神父は直感した。化け物だ。悪魔ですらない。とてつもなく大きな何かがそこにある。それがどうしてこんな狭い路地裏に収まっているのか不思議な程だった。それ程に全身で感じる重圧が、神父を餌と判じている。
噴水に投げ込まれた死体と目が合うよりも、悪魔憑きたちの異常な熱気の中で行われた暴力よりも、この得体の知れない暗闇の存在が恐ろしかった。蛇に睨まれた蛙のように、あるいは獅子に追われる兎のように。だが、実際に目の前にあるはずの化け物はそのどれもと違っていた。到底理解が及ばない。いや、理解することすら恐ろしい。輪郭すら追えないそれは、唯一金の瞳だけが煌々と輝く。
知らず、息を詰めていた神父は、皮肉にも折れた腕の痛みで我に返り、そのまま金切り声で叫んだ。
「し、死に、たくない、死にたくない死にたくない!助けてください、許してください、どうか、どうか見逃して…ッ」
命乞いを聞くような相手には見えなかったが、それでも叫び出すと止まらなかった。度重なる暴行で、顔は腫れ上がり、唇は切れて、呂律もきちんと回っていたか自信はないが、それでも化け物は神父の声に動きを止めた。首を傾げるように金の瞳が細められる。獲物との距離を測る肉食獣のような視線に、再度神父は震え上がった。
「いいぞ」
「お願いします、私にできることなら何でも…えっ?」
「死にたくないのか。それは面白いな。天使共も思い通りにならずやきもきすることだろう」
用意していた服従を誓う言葉を言い切ることなく、化け物は神父の命乞いを了承した。拍子抜けする神父の理解を超えた理屈でもって、化け物は何かを納得した様子でそのまま神父を路地の石畳に下ろす。足腰の立たない神父はそのまま地面に崩れ落ちたが、化け物が伸ばす影は既に神父の体から離れていた。
「どうせなら、寿命とやらを全うしてみるか?なに、俺にとって瞬きする間のことだ。その方が主神に対する意趣返しになるだろう」
化け物が笑った、ような気がした。暗闇の中に体があるのか、それとも暗闇自体が体なのか。境界も輪郭も曖昧な化け物は、己の姿を見上げて真っ青な顔で震え上がる神父を見咎めて首を傾げる。さっきからまともな会話になっていない。これでは俺が虐めているみたいじゃないか、とぼやいて化け物が瞳を閉じる。すると、影が一筋伸びてきて、神父の前で膨らんでいく。むくむくと形を変えるそれは徐々に質量を得て、しまいには人の姿を形作った。しなやかな肢体を持つ、端正な顔立ちの男だ。金の瞳だけが化け物と同じ。
「同じ姿なら、もう少しまともに話す気になるか?」
化け物から生み出された男は腰を折り、神父に目線を合わせて問う。神父はその言葉を叱責と受け取り、一層怯えた様子で口の中で謝罪を繰り返した。
「す、すみま、せん、すみません、も、もう怖がりません、から、許して」
「別に怒ってないって」
化け物だった男は、歯の根も合わない程に怯えて震える神父を前にして、うろうろと歩き回る。
「なーなー、さっきみたいに面白いこと言ってくれよ。せっかく生かしておいても、つまんないんじゃ飽きちまう」
「ぁ…そ、その」
「あ!そうか!」
唐突に男は手を打ち、神父の顔を覗き込んで尖った歯を見せて笑う。
「お前を襲ったアイツらを殺しておかないと安心できないって訳だな?任せておけ、俺が残らず始末してやるよ」
にこやかに物騒なことを言う男に、神父はもはや返す言葉もない。化け物の正体も分からず、行動原理も理解不能だった。神父の機嫌を取ろうとしているようだったが、逆にこの化け物の機嫌を損ねれば神父の方が一瞬で縊り殺されかねない。それでも、神父が化け物の期待に応える限りは、この化け物も友好的なのだろうと僅かな望みに縋り、神父は口を開く。
「あ、あなたは…何…?」
いっそ不躾な質問だったかもしれないと口から発せられた問いを自分で聞いて神父は青ざめる。他に何か言い様があったはずだ。だが、化け物は予想に反して神父の問いに答える。
「ああ、ええと、何て言うんだったか。主神の庇護を受けぬ者たちを、お前らは『悪魔』と呼ぶらしいな。となると、俺は悪魔ということになる」
天地を創造し、世に理を敷いた主神の恵みが現世である。そういった恵みのない場所を、魔界と人間は呼んでいる。そうして、そこに蔓延る主神に庇護されぬ者たちが、悪魔となべて称される。神父は必死に与えられた情報と現在の状況とを照らし合わせて推論を述べる。
「では、仲間割れを?」
「いやいや、アイツら三下と一緒にしてもらっては困る」
表情は笑顔ながら、金の瞳が不愉快そうに細められる。これは化け物の気に入らない事柄であるのだ、と神父は徐々に理解し始めていた。
「我々の王が治める土地には、元より住まう俺たちと、天界より追放されてきた堕天使共とが存在する。概ね、お前たち人間が悪魔と呼ぶのは、堕天した者たちだな。お前たちには同情する。俺も奴らにはほとほと困っている」
「だ、堕天」
己が置かれた状況に対する理解も追い付かないうちに、新しい情報を与えられても呑み込むことはできない。神父は視界が明滅するような錯覚を見た。実際、暴力に晒された身体は痛みを忘れた訳でなく、流れた血や受けた衝撃に意識は朦朧としていたかもしれない。男の言葉がいっかな理解できないのもそのせいだろうか。──多分違う、と微かに残った理性が叫ぶ。神学校の授業でも、聖職に就いた後に目にした数多の聖書やその写本にもそのような記述は見られない。男は続ける。
「天上の奴らは勝手だ。気に入った者は早々に引き抜き、不要な者は捨てていく。お前も『呼ばれて』いただろう?いや、聖職者のアンタなら、死後の救済は寧ろ喜ばしいことか。なら、余計な真似をしたか?やはり、奴らに殺されて、殉教とやらになった方がマシだったか?」
男はにたにたと笑いながら問うてくる。助けてくれ、と縋り付こうとして、思い留まる。この男が、悪魔信仰の者たちと関係ないのは恐らく真実だろう。かといって、神父の味方であるかは不明だ。そもそも最初、化け物は神父を食べようとしていた。助けた見返りに、何かを要求されないとも限らない。いや、そもそも甘言で人間を騙すのは悪魔の常套手段。化け物の言葉を鵜呑みにすることは早計!
化け物は、神父に「面白いことを言え」と要求した。それは単に、恭順の姿勢を見せろという話ではないだろう。化け物の面白いことの基準が何であるかは定かでないが、先の問いが神父を試すものであるなら、この返答が神父の命運を分ける、と慎重に言葉を選ぶ。
「……死ぬのは、御免被ります」
「ほう」
「助けていただいたこと、礼を言います。けれど、後から法外な見返りを要求されても困ります」
「ふ」
化け物は小さく息を吐き出す。笑いを堪えている風だった。
「さっき、何でもするって言わなかったか?」
「まだ言ってませんでした!」
「まだ……」
確かに服従の言葉は用意していたが、化け物が神父の命乞いを聞き入れたのはそれを言い切る前だった。詭弁だろうが構うものかと神父は大真面目に頷く。
「金品や、私に用意できるものでしたら、あなたの望む物を用意します。それであなたの働きに見合うのなら、助けていただくのも吝かではありません。けれど、そうでないなら…こ、これ以上の手助けは無用です、大人しく死を待ちます…」
言いながら、神父は再び身体が恐怖を思い出したように震え出すのを自覚する。もし、本当に化け物が神父に愛想を尽かして、彼を広場に放り出したなら、その時は死ぬまで嬲られて許されることもないだろう。それは想像するだに恐ろしいことだった。助けてもらわなくて結構、と言い切っておきながら、神父は既に泣き出したかった。
小さく噴き出して、化け物が口元を片手で押さえる。だが、抑え切れない笑い声が暗い路地に響く。笑っているのは目の前の男のはずだが、未だに路地に落ちる暗い影からも笑い声が聞こえてくるようだった。
「ガタガタ震えながら言うことか?だが、そうだな。見返りに金や財宝は興味がない。今すぐに欲しい訳でもない。俺は主神と違って気が長いからな」
「それは、何ですか?」
堪らず問う。度々化け物が天使や主神の名を出すのだけは解せないが、命が懸かっているのだから多少の不信心は目を瞑る。そもそも神父はさほど敬虔な信者でもない。聖職に就いているのも、神父の才能と目的とが奇跡的に一致しているからだ。とはいえ、聖職に在り続けるには、悪魔を自称する男と懇意にする訳にもいかない。うっかり何かの拍子に異端審問にでもかけられては、全てが水の泡になってしまう。
化け物の金の瞳が笑みを形作って細められる。
「その美味そうな魂、死んで主神に明け渡すくらいなら、俺に食わせてくれないか?」




