"あの街"で起きたこと2
※流血、嘔吐色々あります
「眷属!」
悪魔憑きの更に上位の存在として知られるそれは、それまで人間の体にとって異物であった悪魔が、人間の魂と融合することで、人間の肉体にも変化を与える現象である。既に人間の理から外れたそれを、人は恐れを込めて「悪魔の眷属」あるいは、単に眷属と呼んだ。異物でない悪魔を、外的に聖水で祓うことはできない。体内に聖水を流し込むか、あるいは聖騎士が持つ銀の剣で屠ることでしか、眷属と戦う術はない。
眷属は、獣のように四つん這いになって身構えると、逃げ惑う信者に飛びかかった。悲鳴が上がり、さっと人垣が割れるが、逃げ遅れた一人に飛び付いた眷属はその爪で信者の喉笛を掻き切った。勢い良く噴き出す血が降り注ぎ、一層人々の悲鳴が重なる。その声に興奮したか、眷属は目をぎらつかせて次なる獲物を探す。
「足を止めてはいけない、街の門を目指して走るのです。そこにも聖騎士はいます」
すっかり怯えて震え上がる信者を叱咤するように神父が叫ぶ。今となっては既に門を守る聖騎士も無事かどうかは定かでないが、そう信じて逃げる他ない。神父の言葉に、信者は藁にも縋る思いで再び逃げ出す足を前に出し始めたが、その号令に反応したのは信者だけではなかった。
「その格好、悪魔祓いかぁ?」
血塗れの眷属が神父の方を振り向いて問う。神父はその場に留まり、険しい表情で答える。その間に、信者は素早く逃げて行く。
「ええ、その通りです。そういうあなたは、どちら様でしょう?」
「へへ…名前なんて忘れちまったなぁ!」
凶暴に叫びながら、眷属が飛び掛かってくる。敢えて神父はその場を動かず、ひたすらにその時が来るのを待った。
鋭い爪が喉元に迫り、触れるかどうかといったところで、それは訪れた。白銀の刀身が眷属の爪を受け止め、小さな体が神父と眷属の間に割り込む。テオだ。
「先輩!今です!」
「ええ」
驚きに目を見開く眷属の髪をひっ掴み、口の中に聖水の小瓶を押し込む。鋭い歯に手袋とその下の皮膚が裂けて血が滲み出たが構わない。眷属を無力化する方法──聖水を飲ませること。あるいは、銀の剣で首を刎ねることだが、教典で殺しを禁ずる主神教においてそれは最終手段となる。無論、今の状況では最終手段を用いることもまったく吝かではなかった訳だが。
眷属は苦しみ悶えてひっくり返る。焼け付く喉を押さえるように鋭い爪で掻き毟ったが、尚も神父は追い討ちを掛けるように次なる聖水を眷属の口の中に流し込む。一層抵抗が激しくなって、眷属の足が神父の腹を蹴り上げたので、堪らず神父は倒れ込むが、眷属もまた虫の息といった様子で嘔吐く。聖水と胃液とを吐き出しながら、一緒に黒い液体を吐き出し始めたので、悪魔祓いは成功したのだと場違いに神父は安堵していた。
吐き出された悪魔は、再び人間の体に戻ろうともがいていたが、憑代となっていた人間をテオは突き飛ばし、そのまま銀の剣を悪魔の本体に突き立てた。石畳に深々と突き刺さる刀身に貫かれ、悪魔は悲鳴を上げた後に絶命する。後には燃え滓のような煤汚れだけが残る。それさえ聖水で洗い清めて、テオは振り返って神父の元に駆け寄った。
「先輩、大丈夫ですか」
「ええ、ええ。よくやってくれました」
「神学校で剣の授業があったこと、今ほど感謝したことはありませんよ」
テオは血塗れの剣を脇に抱えつつ、反対の腕で神父を助け起こした。天は二物を与えず、とはよく言うが、それはテオに関してその限りでない。神に愛されたこの青年は、聖水作りの才に加えて、勉学の才も武術の才にも恵まれていた。あの一瞬で、テオは死んだ聖騎士の銀の剣を拝借し、眷属を倒す手立てを考えてくれたのだろう。それが見えていたから、神父は囮に徹することができた。
既に信者の多くはその場を離れていた。指示通り門へと向かったのだろう。教会の中に取り残された者がどれほどいるかは知れないが、それを今の神父とテオがたった二人で助け出しに行くことは不可能だった。やはり、二人も同様に門を目指すべきである、との共通の見解に至り、歩き出す。走り出す。信者はともかく、この街の住人は大丈夫なのだろうか、とふと神父が思い付いた刹那、閉ざされていた街の住宅の扉が開かれ、中から複数の人影がまろび出る。避難を呼びかけようとして、その誰もが正気を失った目でぎょろりと神父らを睨み付けていることに気が付いた。
「なんですか、これ!」
堪らずテオが悲鳴を上げる。通りに面した扉から、次々と亡霊のような人影が這い出して来るので、悲鳴を上げたいのは神父も同じだった。中には、神父らと同じように悲鳴を上げて大通りに逃げ出てくる住人もいるので、全てが悪魔憑きという訳ではないようだが、半数以上の住人が悪魔の餌食となっていると見て間違いなかった。
「恐らく、悪魔信仰の策略でしょう」
通常、悪魔は複数で群れず、単体で出没する。彼らが己の能力に絶対の自信を持っているからで、あるいはそのために知能もさほど高くはないとされるためだが、中には信仰という形を取って強力に結託を見せる物もある。それが悪魔信仰であり、通常は村や集会などの狭いコミュニティで発生するものであるが、これは──。
「この都市の半数以上が悪魔信仰の信者であったと!?だとすれば、過去最大規模の異端じゃないですか」
王都から程近く、大都市ではないにせよ、そこそこの規模の街である。テオの指摘は最もだが、もはやそうでもなければ説明が付かない。
「聖職者を招き、それを見せしめに殺して、教会に宣戦布告でもする気でしょうか。ああ、なんてことだ」
だとすれば、教会に残してきた司祭たちももはや無事では済まされまい。いや、未だに街の至るところから這い出してくる悪魔憑きたちは、逃げ惑う群衆よりも寧ろ神父やテオを探しているようだった。彼らの狙いは、敵対する主神教の聖職者を捕らえ、殺すことにあるのだろう。
とはいえ、それが分かったところで彼らに出来ることはさほどない。ただ群衆たちと同じように逃げ惑い、向かうべき方角を指し示し、聖騎士がいる門まで走り続けろと座り込む住人を叱咤するのだ。自然、二人の神父は群衆の最後尾を走る形となっていく。徐々に追い縋る悪魔憑きの影は増え、意味のない呻き声すら間近に聞こえる。このままであれば、追いつかれるのも時間の問題だった。
「…先輩」
思い詰めた様子でテオが口を開く。彼は最初から手に持っていた銀の剣を抱き締めながら続ける。
「聖水、残りはいくつですか」
「…あと一つですね」
「ぼくは残っていません」
「……」
彼が何を言おうとしているのか察しが付いて、神父は首を振る。それはならない、と押し留めるようにテオの剣を握る腕を掴む。
「先輩」
「それは、なりません。お前がそれをする必要はない」
「でも、聖騎士もいない今、戦えるのはぼくだけです」
主神教において、人を殺すことは禁じられている。それを赦されるのは、聖騎士(あるいは異端審問官)という特別階級のみであるが、それでもやむを得ない場合という但し書きが付く。人を殺した罪は魂に刻み込まれ、死後何度の転生を経てもその罪は許されず、地獄の業火に炙られることが確約されるのだとされる。テオはどちらかというと理屈屋で、主神教の教義をどの程度信用しているかは定かでないが、他の聖職者たちはそうもいかないだろう。やむを得ない事情があったとして、異端審問を経ずに銀の剣で民衆を殺した聖職者が、その後今まで通りの生活を送れるとは思えない。
「生きて戻るのなら、その後のことを考えねばなりません」
「しかし、このままでは生きて帰ることすら危ういはずです!」
「だからと言って、……!」
唐突に道が開け、整備された広場に繋がる。中央には噴水が置かれ、住人の憩いの場となるように長椅子が並べられている。民衆はそんな憩いの光景にも目を留めることなく走り去って行くが、神父は立ち止まり、そのまま懐から聖水の小瓶を取り出した。
「これを」
言いながら、神父は小瓶をテオに押し付ける。狼狽えながらもそれを落とさないように抱えつつ、テオは声を荒げる。
「せ、先輩!?何してるんですか」
「追っ手が多過ぎます。いくらかここで足止めしますので、お前は聖騎士の元へ」
「先輩!」
珍しく本気で怒った様子でテオが叫び、神父の胸倉を掴む。そんな殊勝な男ではなかったはずだ。いくら悪魔祓いの経験と実績に優れるとはいえ、聖水もなく、あの数の悪魔憑きを相手に足止めだって出来るはずがない。今だって自分より小柄なテオに胸倉を掴まれただけでよろめくような男なのだ。
「ぼくの代わりに、先輩が囮になるって言うんですか?それは、あまりに非効率です」
「誰がそんなこと言いました?」
しかし、神父はテオの手を外してよれた襟元を整える。平時と変わらないその調子に、テオは拍子抜けしてしまう。その隙に、と神父は低い声で続ける。
「聖騎士の元へ行き、応援を連れて戻ってきて欲しいと言ったのです。幸い、ここにはいくらでも水があるようです。聖水には事欠きません」
「あ」
テオは今気が付いたというように広場の中央に置かれた噴水を見た。これを聖成して、悪魔祓いに使うつもりだと?
「無論、全ての悪魔を祓えるとは思っていません。眷属が相手では、私も長くは持たないでしょう。…ですから、聖騎士の助けが、それもたくさん必要です。分かりましたか?」
「先輩、それは……、はい、分かりました。速やかに戻ってきます!どうかご無事で!」
まだ言いたいことはたくさんあったのだろうが、それが最善であるとテオも納得してくれたようだった。彼は頷き、踵を返すと別れの挨拶もそこそこに走り出した。民衆を先導しながら、街の門扉まで走り、そこで聖騎士を招集して戻ってくるまで…どれだけの時間が掛かるのか、全く予想も付かなかった。それでも、神父自身、これが最適な方法であると信じている。悲壮な表情のテオとは裏腹に、自分が囮となって時間を稼ぐというようなつもりは毛頭ない。死ぬ気はないから、こんな提案をしたのだ。当然、多少の無茶は覚悟の上だが。




