働く神父様
部屋の隅で怯えたように身を寄せ合う家族が見ている目の前で、小さな子供の体が寝台から浮き上がる。悪魔憑きは度々、人間の理解を超えた現象を引き起こした。これらは魔術や呪術と呼ばれる類の、神の定めた理の外にある邪法であるとするのが主神教の見解である。それ故に、敬虔な信者ほど不可思議な出来事に怯えるものだった。
悪魔祓いの装束に身を包んだ神父は、そんな超常現象を前に眉一つ動かさず、浮き上がる子供の足を捕まえる。そのまま寝台に引き摺り下ろすと、雑にその頭から小瓶に詰めた聖水を振り掛ける。ぎゃあ、と濁声が子供の口から漏れる。同時に黒い靄となって悪魔の魂が噴き出していくが、それにも構わず神父はもう一本の聖水の小瓶を開けると、それを子供の口に突っ込んで中身を無理矢理に飲ませていく。その中身が無くなれば続けてもう一本、さらにもう一本。呻き声が完全に沈黙に変わるまで、神父は聖水を飲ませるのをやめなかった。
「終わりました」
くたりと倒れてベッドの上で動かない子供から離れて神父が家族を振り返る。
子供に取り憑く悪魔は御し易い、と神父は考える。そういった輩は超常的な現象で人間を驚かせ、怖がらせることに特化していて、子供自体の攻撃力はさほど脅威ではない。むしろ、屈強な男に憑かれると、悪魔祓いに難航するので面倒だった。
部屋の隅に固まって成り行きを見守っていた父親と母親は慌てて飛び出し、倒れる子供の体を揺する。よもや、悪魔と一緒に命まで抜けてしまったのでは、と心配している様子であったが、それは杞憂に終わる。子供は眠そうに目元を擦り、そのまますうすうと寝息を立てて脱力した。
「あ、ありがとうございます、神父様…!」
子供を抱きしめ涙ぐむ母親と、膝を付いて頭を下げる父親とに囲まれて、神父は頷きつつ懐中時計を開く。ふむ、宣言通りこの家に到着してからおよそ半刻で悪魔祓いは完了した。戸口でぽかんと口を開けて待つ修道士を振り返る。教会で休んでいろと勧めたが、本部の神父様を差し置いて自分が休むことはできない、と彼は悪魔憑きのいる家までの案内を買って出た。未だ感謝の言葉を絶やさない家族らには曖昧に頷いて、神父は立ち尽くす修道士の肩を叩く。
「では、ブラザー。教会へ戻りましょう。見たところ、仕事が山積みのようだ」
「その…恥ずかしながら」
「いえ、そのために私が派遣されたのです」
家の外にいたらしい護衛が、神父と修道士が並んで歩く後ろから悠然と付いてくる。月に照らされた小径に神父と修道士の長い影が落ちる。
「聖水の聖成の儀の他に…教会の修繕と清掃、信者への布教活動、礼拝、洗礼、婚儀や葬儀など日常的な仕事も全て滞っているようですね」
「申し訳ありません…」
神父の指摘に、修道士が項垂れる。叱責を受けたと思ったのだろう。そうではない、と神父は付け足す。
「悪魔の退治は危急の仕事です。無論、日常的な業務より優先されます。しかし、…あの教会はあなたお一人で管理を?」
「はい、先任の神父様が亡くなられてから、私が管理を任されております。当初は上手く回っていたのですが、なにぶん近頃、悪魔憑きが多く…」
基本的に悪魔憑きと対峙し、悪魔を消滅させ得る手段を持つのは悪魔祓いと呼ばれる職種の人間のみであるが、日々の生活の中で人々の内に潜む悪魔憑きの数は多い。その全てを迅速に祓うことは難しく、有能な悪魔祓いの到着を待つ間、人々は教会に庇護を求め、教会は作りためた聖水で悪魔憑きの被害を最小限に抑える努力をする。大抵、その窓口となるのは教会の管理人でもある修道士や修道女である訳だが、数日おきに現れる悪魔憑きのために、ここの修道士は毎日聖水を作り続け、作った聖水をそのまま悪魔憑きの被害に当てる生活を余儀なくされていた。
「恥ずかしながら、私には悪魔を祓い切るほど練度の高い聖水を作ることも、量を用意することもできません」
「聖成にかかるお時間はいかほどでしょう」
「寝ずに祈りを捧げて二日といったところです」
「……」
神父は考え込むように腕を組む。既に一行は教会に辿り着き、礼拝堂の奥に併設された小さな休憩室に並んでいた。修道士は、飲み物でも用意します、とふらふらと歩き出そうとしたが、神父は慌ててそれを押し留める。修道士は今にも倒れそうでとても火の扱いなど任せられなかった。
「まあまあ、座れよおっさん。あの神父様が手ずから茶を淹れてくれるなんてそうそうないぜ」
客人に茶を用意させるなどと恐れ多い、と修道士はそわそわと落ち着かない様子で部屋を歩き回っていたが、これまで黙って成り行きを見守っていた護衛がそう言いながら彼の腕を引き、半ば無理矢理に椅子に座らせると、自分もそのままどっかりと向かいに腰を下ろして流しに立つ神父の背中を眺める。そのあまりに不遜な様子に修道士は目を白黒させたが、神父が何も言わないので、自分が意見することを躊躇ったのだろう、小さく謝罪の言葉を吐いて、そのまま身の置き場がない様子で椅子の上で縮こまっていた。
程なくして、勝手に流しの食器と茶葉を使って神父が人数分の飲み物を用意して戻ってくる。彼は修道士の前に湯気の立つカップを置く。透き通った紅茶が立てる香りが狭い部屋に広がる。護衛は出されたカップを見て片眉を上げたが、修道士は畏まった様子で神父に深く頭を下げ、震える手でカップを持ち上げると一口それを飲み下す。そして、──そのまま勢いよく音を立てて机に突っ伏す。持っていたカップは放り出されて、机の上に湯気の立つ液体が溢れていく。
「お前…何入れたんだ?」
護衛が引き気味に尋ねると、悪びれた様子もなく神父は持ち出した布巾で溢れた飲み物を拭き取っていく。同時に机に置かれた書類が濡れないように持ち上げる神父に、当然ながら修道士が倒れたことに対する驚きの様相は見えない。
「何も」
「そんな訳ないだろ。おっさん倒れてるぞ」
「危険なものは入れてないですよ。聖水で茶を沸かしはしましたが」
「あのなぁ…」
護衛が呆れた様子で溜息を吐き、それから己に出された飲み物に口を付ける。当然ながら、彼には何の影響も与えない聖水で煮出した紅茶である。神父は倒れた修道士の肩を支え、休憩室の粗末なベッドに横たえた。倒れた修道士は、それはそれは深い眠りに落ちて、力のない神父が少々よろめいて修道士の頭を壁にぶつけた程度では目を覚ます気配もない。
「聖水は、悪魔を祓います」
神父は一度、護衛を見やり、そのまま続ける。
「けれど、与える加護はそれだけではない。穢れを祓い、澱みを清め…詰まる所、人間にとっては不調を治す薬になります」
無論、万能ではなく、多少和らげる程度のものではあるが。聖水で清めた布を傷口に当てれば治りが早いし、医者の用意した薬を聖水で飲み込めば、起き上がれるようになるまでの日数が少なくて済むという話もある。
修道士は、既に体力の限界を超えて活動している。もはや気力だけで動いている彼に、休めと言っても聞き入れない。聖水をそのまま飲ませようとしても彼は固辞しただろう。だからこそ、服毒するような真似をして聖水を飲ませ、体の限界を自覚させた。
「さて、この様子ですと、丸一日は目を覚まさないと見ました。その間にやることは山積みです。まずは掃除と…ああ、礼拝堂の屋根、穴が空いていましたね、それも修繕しなければ。明日は洗礼に礼拝、各種儀式も手配しておきたいです」
妙に乗り気な様子の神父に、護衛の方が目を丸くしてしまう。こういった雑用は神父が最も嫌いそうな仕事だが、と訝しむ護衛の疑問は尋ねるまでもなく神父によって解かれる。
「ここの修道士、随分と敬虔な信者のようです。親切にしておいて損はありません」
「……ははぁ」
「あわよくば、私の働きが司教様に届くやもしれません。敬虔な信者の言葉には説得力がある。これは腕が鳴ります!」
もはやかける言葉も見つからない護衛のことなど放っておいて、神父はさっさと礼拝堂の掃除のためにバケツに水を汲み始める。小さな礼拝堂とはいえ、これを一人で掃除する気なのだ。夜を徹しての作業になるだろうが、神父はあまり気にした様子がない。得られる利益の方に完全に目が眩んでいる様子。鼻唄さえ歌い出しそうな勢いで、神父は礼拝堂に足取り軽く向かっていった。
神父の自室は物が散らかる雑然とした部屋だが、彼自身は特別掃除が苦手という訳ではない。寧ろ、修道院や教会の清掃活動は率先して行ってきたし、そもそも奉仕は聖職者の本分だ。手際よく、神父は礼拝堂の壁をはたき、窓を磨き、長椅子を拭き上げた。最後に床をモップで磨いて、礼拝堂はようやく普段の清廉さを取り戻す。それまでは荒れ放題で蜘蛛の巣すら張っていた。割れた窓ガラスの隙間から、木の葉が舞い込んで部屋の隅に山になっていたので、ひとまずその隙間は木の板で簡単に修繕しておく。より大掛かりな修復作業も必要だろうが、それはさすがの神父にもできないので大工の手配だけはしておく。ふと妙に明るい気がして礼拝堂の天井を見上げると、頭上で煌々と月が輝いていた。屋根に穴が空いている。
仕方なし、と神父は梯子と工具箱、木の板を数枚持って教会の屋根の上を目指している。こんな大穴が空いていては、雨の日は雨漏りでは済まされない。屋根の腐蝕も早いだろう。ひとまずは応急処置を施して、急場を凌ぐより他ない。
急な傾斜の屋根をよじ登り、目的の部位を目指して神父はそろりそろりと足を運ぶ。痩身の神父であれば、老朽化の進んだ教会の屋根にかける負荷も最低限だろうが、それでも注意を払うに越したことはない。不穏な音が足元から響いている。ところがあと少し、というところで他にも腐蝕の酷い部分を見つけ、神父は肩を落とす。これではまた新しい穴が空くのは時間の問題。とはいえ、これを見つけられたのは大きな月が足元を照らすからで、不幸中の幸いであると巡り合わせに感謝する。もし星の瞬きだけを頼りに歩いていたら、神父は気付かずこの穴を踏み広げていただろう。この腐蝕部分はひとまず避けて、空いた大穴を塞ぐ作業に集中しよう。そう考えて踏み出す一歩を迂回させると、たまたま体重をかけた屋根板がぼろりと崩れて、そのまま神父の足を滑らせた。
「…あ!」
思わず声を上げた神父は、そのまま空中で逆さ吊りとなって夜空を見上げることになる。足を滑らせ、屋根から真っ逆さまに地面に叩き付けられるはずだった神父の足を、いつの間にか同じく屋根に登っていた護衛が捕まえていた。護衛は軽々と神父の足を持ち上げて、体ごと屋根の上に引き上げる。張り付くように屋根の上に着地した神父は、遅れてじっとりと背筋に冷や汗が流れるのを自覚する。
「あのなぁ、もう少し死なない努力をして欲しいな」
呆れた様子で護衛が詰る。さすがにこれは軽率であったと、神父も認めざるをえないが、そう口にするのは癪なのでそっぽを向いて舌打ちする。
「助けていただいてありがとうございます…チッ」
「助けてもらった奴の態度じゃねー」
神父の態度に愚痴を漏らしつつ、しかし護衛はどこか面白がる様子で屋根の上で腰を下ろす。神父より長身で筋肉の密度も高い男だが、体重の掛け方が違うのか、護衛の立つ屋根は軋む音すら立てない。




