悪魔祓い
目の前に客人用の小綺麗なカップとソーサーが並べられる。香りの良い液体がカップの中で湯気を立てている。淹れたてのそれに、しかし敢えて神父は口を付けなかった。護衛の方にも、と夫人が神父の背後に控える男に飲み物を差し出す。飲むな、と神父は目だけでジロリと男を睨んだが、その視線に気付いた上で、男は熱い液体を一口で喉の奥に流し込んだ。あまりの行儀の悪さに夫人は目を瞬かせている。頭痛を堪えるように息を吐き出し、神父は口を開いた。
「…お構いなく。それで、ご依頼の悪魔憑きというのは」
「主人のことです」
はっと我に返った様子で、中年の夫人は盆を抱えたまま神父の向かいのソファに腰を沈める。ふくよかな顔にはどことなく翳りが見られ、心なしか招かれた室内も雑然としている。室内を見渡す神父の視線に気が付いたのか、夫人は気まずそうにぼそぼそと囁く。
「主人がおかしくなってから、使用人たちが暇を取ってしまって…家のことは、今私が一人でやっているのです。お見苦しいところをお見せしてすみません」
「いえ、さぞお辛い日々でしたでしょう」
神父にとって特に感情の籠らないお決まりの文句だったが、それでも一人でこの問題を抱えてきただろう夫人には苦労の共感に聞こえたらしい。彼女は声を上げておいおいと泣き出してしまった。神父は分厚い眼鏡の下で目を伏せる。余計なことを言ってしまった。背後で護衛の男が声を殺して笑っているのが気配で知れた。
「本当に…!辛いことばかりです。ある日を境に主人がおかしくなって、使用人や私に手を上げることもありました。家具も、壁もめちゃくちゃに壊してしまうのです。私、恐ろしくって…でも、頼れる人は誰もいないし」
「ええ、ええ。それが悪魔憑きというものです」
大仰に頷いて神父は立ち上がる。これ以上、夫人から有益な情報は得られまいと踏んだのだ。狼狽える夫人を一瞥してから、神父は天井を見上げる。
「ご主人は、今二階に?」
「は、はい…ですが」
夫人も同じように立ち上がって案内を買って出るように応接間の扉を開けた。
「神父様お一人で大丈夫でしょうか。とても暴れて、使用人五人掛かりで書斎に閉じ込めたのです」
「まぁ、大丈夫でしょう。慣れてますから」
神父の返事はにべもない。とはいえ、夫人の心配も当然だ。神父は年若く見た目にも線の細い男だった。護衛の男の方は、護衛に相応しい長身と鍛えられた肉体が服の上からでも分かるほどだが、裏を返せば神父本人は護衛の男を連れていなければならないほど貧弱だということ。夫人は応接間から続く廊下を歩きつつ、そうですかとあまり信用した風ではなかった。
階段を登り、深緑の絨毯の敷き詰められた廊下に出ると、一際室内の荒れ具合は酷くなった。壁が剥がされ、窓硝子は割られたまま無造作に木の板で隠されている。絨毯にも所々に染みが見られ、よくよく目を凝らすと小さな木片が散乱していた。
「主人は、最初病気になったのだと思いました」
「ええ」
「酷い臭いのする液体を吐き出して…訳の分からないことを叫びました。魔王がどうとか」
「悪魔の能力でしょう。妄言の類は、ご主人に憑いた悪魔の言葉かと」
神父はローブの中にしまい込んでいた小瓶を取り出し、腰のベルトに据え付け直した。なるほど、目的の物は近い。
「魔界に居場所のない悪魔が、人間に取り憑きます。魔王に庇護されぬ者共です」
「なぜ主人が」
「…ご主人の魂が清廉だったからでしょう」
廊下の荒れようは一層酷くなり、真鍮の燭台が折れて転がっている扉の前で夫人は足を止める。問うまでもなく、ここに主人がいるのだと彼女の怯えた目を見れば瞭然だった。神父は護衛の男に軽く目配せをして見せた。ただし、協力を仰ぐためではない。手を出してくれるなという意思表示である。男はおかしそうに目を細めて、肩を竦める。
「ほら、おばさん、下がってな。扉を開けるらしい」
「おば…」
夫人が束の間、恐怖も忘れて驚きで目を丸くしているのが、視界の端でもはっきりと分かる。クライアントの機嫌を損ねるのは本意でないが、今更取り繕うのも面倒だった。神父はそのまま二人を放置して、外から掛けられていた閂止めを外して、書斎の扉を開いた。
書斎の中は、静まり返っていた。扉を開けた瞬間に恐ろしい悪魔が飛び出してくるのでは、とでも思っていたのだろう、夫人が護衛の背後から首を伸ばして様子を窺おうとしている。神父は眼鏡越しに室内を素早く見渡し、カーテンの締め切られた室内ではさほど視界が確保できないことを確認するとそのまま一歩書斎へと踏み込んだ。
「おおおッ」
神父が踏み出すのとほぼ同時に、扉の陰から中年の男が神父に躍り掛かった。服は千切れ、髪を振り乱し、とても正気には見えない男こそ、この家の家主であり、依頼主の夫でもある人間であるのは明白だった。夫人の甲高い悲鳴が閉め切られた書斎に鈍く響く。
しかし、神父が手に持った小瓶をかざすと、その男は凄まじい勢いで後退った。獣のように四つ足で部屋の隅に張り付き、警戒するように唸り声を上げる。
「貴様…悪魔祓いか!」
噛み締めた歯の隙間から絞り出すように男が唸る。神父は小瓶を握った腕を突き出しながら一歩進み出る。
「はい、悪魔祓いです。そういう貴方はどちら様で?」
「悪魔が簡単に名乗るはずもなかろう!」
鋭く吠えた男の口から、黄色い粘ついた液体が吐き出される。異臭を放つそれを神父は広げた外套で受け止める。じゅう、と黒い外套の真ん中が煙を上げて丸く溶かされた。神父は不愉快そうに眉根を寄せる。それを隙と見て、悪魔憑きの男が再び飛びかかった。
「のこのこと一人でやって来たバカな悪魔払いめ!貴様の体を次の憑代にしてくれる」
「生憎、私にそういった予定はないので」
飛びかかってきた悪魔憑きに、神父は広げていた外套を投げ付ける。攻撃力こそないものの、視界と機動を奪うそれに手足を縺れさせた悪魔憑きは不恰好に床を滑り転がることになる。書斎の机に激突し、苦悶の声を上げるそれに、神父は尚も容赦なく足蹴を入れる。
「ぐ、う…!貴様、よくも」
「そちらが大人しくしていれば、こちらも手荒にはしません」
そうなるはずもない、と百も承知で、神父は小瓶の蓋を開ける。ぎぇ、と悪魔憑きの悲鳴が上がった。小瓶から垂らされる液体が、男の額にとうとうと注がれていく。
「これは…聖水!やめろ、魂が、魂が融けていく!」
「やめても良いですが、お名前を教えていただければ」
「…!悪魔が名乗るのは従属の証!人間如きに隷属するなら、融けて消えた方が…ッ」
「では、遠慮なく」
神父は器用に片手で腰に下げた小瓶をもう一つ開けるとそのまま悪魔憑きの男に振り掛けた。聞くに耐えない悲鳴と共に、黒い靄のようなものが男の体から立ち昇る。それが融けて消え行く悪魔の魂の残滓であると、神学校で学んだ神父は、煙を払うように掌でそれを扇いで顔から遠ざける。程なくして、神父の足元に転がる男は悲鳴を上げなくなった。ぐにゃりと力を失って潰れた様子はカエルのようで、無事であるかの判別は付かない。とはいえ、息はある。神父は空になった小瓶をしまい、そのまま閉じられていた厚いカーテンを開け広げた。
「あ、あなた!」
場の緊張が緩んだのを感じ取ってか、夫人がよろめき出て潰れた男に縋り付いた。そのままいささか乱暴に男を揺する。
「う、うーん…あれ?俺は一体…」
「あなた!目が覚めたのね!」
「お前?どうしてこんな…?」
「よかった…!」
異臭を放つ液体で汚れ、白髪の混じる頭髪はバラバラに振り乱れてはいるが、それでも記憶にある通りの正気な主人であると分かったのだろう、夫人は涙ぐみながら夫を抱き締めた。一方、悪魔憑きとして暴れていた頃の記憶はほとんどない様子の夫の方は、目を白黒させて夫人と、見慣れぬ神父と護衛の男を見比べている。
「…積もる話もあるでしょう。では、我々はこれで」
夫婦水入らずの再会に水を差す気はない──との気遣いからではなく、これ以上説明やら後始末やらの労力を割くのが面倒である、というのが神父の表情からは明らかだったが、幸いにして光源の少ない書斎で窓際に立つ神父の表情は逆光で読み取れない。依頼主である夫人は感激の極みであるというようなことを口走ったが、それはご主人と分かち合う喜びですよ、と聖職者らしい言葉でいなしてやると、一層夫人は感謝の言葉を募らせた。
「し、神父様、お待ちください!せめて、お名前を!」
既に書斎から立ち去ろうとしていた神父を呼び止めて夫人が叫ぶ。振り返るまでに、深い溜息を吐く神父の表情を見て、護衛の男はにたにたとした笑いを隠そうともしなかったが、それを咎めるのも面倒で、神父は夫人に応える。
「我々悪魔祓いの名は、悪魔に知られてはならぬ機密事項。申し訳ありませんが、お教えする訳にはいきません」
「こ、ここにはもう悪魔はおりませんでしょう?」
「いつ、どこで奴らが聞き耳を立てているかは分かりません」
一礼し、神父は踵を返す。少々おざなりな対応ではあったが、むしろ夫人は仕事に真摯な態度であると、勝手に納得して一層感激してくれた様子だった。護衛の男が堪えきれずに噴き出すので、通りすがりに足を踏み付ける──が、長い足を器用に避けて、護衛はそのまま神父の後ろを付いてきた。
「名前くらい、教えてやればいいのにな?」
邸宅を出て、大通りに出る。教会から派遣された神父には、交通費として馬車代が与えられていたが、さほどの距離でもない時は、こうして馬車代をけちって歩いて帰る。それにも律儀に付いてくる護衛の男は、神父のせこい考えを詰りはするが、結局歩いて一緒に付いてくる。
「あなたの前で?言う訳ないでしょう」
神父は振り返らずに吐き捨てる。律儀に後ろを歩いて付いてくるこの男を、頼もしい護衛だと思ったことはない。神父のすること言うことに茶々を入れて、面倒くさいことこの上ない。加えて──挙げ出したらキリがない。割愛する。
「大体、そうやっていつまで付いてくるつもりなんですか。言っておきますが、給金は出しませんからね」
「金なんて興味ねえよ。知ってるだろ?」
くつくつと喉を鳴らして笑う男の声が耳障りで、神父は一層眉間に皺を寄せて大通りの石畳を革靴の底で踏み鳴らした。