僕らは朝を待っている(コンビニバイトをしながら)
何かが落ちる音で目が覚めた
「……知らない天井だ」
生涯一度は口にしてみたいセリフランキング4位くらいの言葉を言ってみた。ちなみに嘘だ。超知ってる天井だった。俺が今アルバイトをしているコンビニの、バックヤードの天井。どうやら、ここに備え付けられているパイプ椅子で寝ていたらしい。体痛え。
壁の時計を確認すると午前3時をとっくに回っていた。寝ぼけ眼をこすりながら記憶をたどる。俺—名を橋田 真司というが—はわけあってコンビニバイトをしているフリーター。シフトは深夜。仕事の終わる朝を常に待ちわびながら仕事をしている。今日(厳密にいうと昨日だが)も今日とてお仕事だ。
しかしなんで寝てたんだっけか。確かレジをもう1人同じシフトの人に任せて、バックヤードであれこれの作業をして、それから……
「……びっくりした」
声がしたほうに視線を向ける。すると、俺から見て、机を挟んで対角線上の椅子に座っている一人の女性がまじまじとこっちを見ていた。フレームの太い黒縁の眼鏡をし、バッサリ切ったみたいなショートカットの黒髪が似合う、ちょっとくたびれた感じの女性。
同僚の結崎 朱莉さん(ちなみに20歳)だった。
「……驚かせちゃいました?」
「まあ、結構」
「それは申し訳ないです」
とぼけていってみたものの、何が起こったのかよくわかっていない。体を起こしながら足元を見渡すと、国民的人気の週刊漫画雑誌が落ちていた。そういえば、裏方仕事をした後に休憩を兼ねて読んでいた気がする。読んだまま寝落ちして、寝ぼけて落っことしたわけか。
体の節々に痛みを感じながら雑誌を拾って机の上に。それから大きく伸びをした。
「んー……はー。俺ってどれくらい寝てました?」
「30分くらいですね」
「起こしてくれてもよかったのに」
「めんどくさかったので」
そうですか。一周回ってすがすがしい理由だ。
二十歳のわりにちょっとくたびれた感じすらする結崎さんだが、話してみるとこれが結構気難しい同僚だ。人嫌いなのかわりときついことをさらっということもある。同じくらいの時期に働き始めた同期なんだけど、いまだにどんな人なのか良く知らない。話しかけても塩対応しかしてくれないし。
「結崎さんは休憩?」
「見ての通り」
「まあそうだよね。……あれ、じゃあ今レジ人いなくない?」
基本的にこの深夜の時間帯は俺と結崎さんしかシフトに入っていないはずだ。俺が尋ねると、結崎は表情一つ変えずしれっと言い放つ。
「客が来ないので休んでもいいかなと」
「……いやまあ確かに来ないけどさ」
「店長も『うまくさぼれるならさぼってもいい』っていつも言ってますし」
「改めて聞いても店長のセリフには聞こえねえなそれ」
職業人の言葉ではない。
ただ確かに、住宅街の片隅にあるこのコンビニは、深夜遅くになると数時間に1人程度しか客が来ないことも珍しくない。だから裏方仕事さえ終わっちゃえばわりと暇ではあるけども、だからと言って堂々とさぼるのはどうなのだろう。
態度だけ見れば堅物そうに見える割に、こういうとこでは積極的に手を抜くから、余計この目の前の女性のことがわからなくなる。
「そもそも、橋田さんが寝たりしなければ素直に交代で休憩に入れたんですが」
「それはまあ、寝た俺が悪いけど……だったらなおさら起こせばよかったのに」
「雑誌を頭にのっけたまま寝る人を起こす趣味はないです」
「それマジ?」
無言の首肯。どうやらすっごい恥ずかしい寝落ちをしていたらしい。責める視線で見られている。
起こさない判断の是非はともかく、俺が寝たのが全般的に悪いのは確かなので強くは言えない。仕方なしとレジに立つため立ち上がろうとしたとき、ふと結崎さんの手元あたりに目が行った。
「あれ、それって俺のと同じ雑誌じゃん」
「え? あ」
そういって、彼女は手元の机の上に置いてあった、俺がさっき落っことしたものと同じ漫画雑誌を、隠すように椅子の背もたれの後ろに回した。
「読んでたの?」
「…………まあ、はい」
質問から割と長めの間をおいての返答。答えようか迷っていたのだろうか。
「へえ。その雑誌いつも読むの?」
「………………時々」
さっきよりも返事までの間が長かったんだが。よっぽど答えたくないのだろうか。
露骨に渋い顔をしている結崎さんに対し、俺のテンションは結構上がっていた。22にもなって趣味が漫画くらいしかない寂しい男からすると、よく知らない同僚に近しい趣味が見えたので親近感がわいてきたわけだ。
気づけば俺は立ち上がろうとした体を再び座らせ、完全に話し込む姿勢になっていた。
「好きなの? 漫画」
「人並みには」
「どんなの読むの?」
「えーと……——とかですかね」
「あーいいね。面白いよねそれ」
彼女があげたタイトルは、2人が持ってる漫画雑誌に載っている作品の中でも、とくに有名な2作品だ。アニメも有名な、看板作品といってもいいくらいの漫画。
「今週の話もう読んだ? やばくない?」
「そう、ですね。かっこよかったです」
「主人公が悪役に啖呵を切るとこかっこいいよかったよな!」
「ああいうところが魅力ですよね」
「だよな!」
少し歯切れは悪いけれど、結崎さんの表情は珍しくやわらかめだし、なによりバイトの話以外で彼女とちゃんと話せているというだけで結構自分的にうれしかった。レジのことはもう忘れていた。
「あのセリフ、過去に敵から言われたセリフの意趣返しなんですよね。そういうところも好きです」
「え、そうなの?」
「ほら、あの10話前の」
当たり前のように言われてるけど、あんまり前の話を見返したりしないからすぐには出てこない。そもそも10話前ってどのへんだっけか。
「森での戦いで敵が言ってたセリフです」
「森……あー! 思い出した思い出した! 確かに似てる! よく気付くなあそんな細かいところ。よく読んでるんだね」
「そうですね……はっ、いや、そんなこと、ないです。人並みに読むだけです」
「いやいや、今更それは通らないでしょ」
「本当ですっ」
そういって怒りっぽい顔でこっちをにらんでくる。でも、それにはいつもの関与を拒むような冷たさはなく、どっちかといえば、照れ隠しをしている子供のようだ。初めてそんな表情を見た気がする。
必死な表情が緩まない結崎さんに、からかい半分くらいの気持ちで(もしかすると今大層意地の悪い顔をしているかもしれないが)、追加で尋ねてみる。
「別にいいと思うけどなー、漫画好きなくらい」
「いやだから私は——」
「ぶっちゃけさ、漫画大好きでしょ?」
「……………………大好きですけど!」
答えるまでの間に4回くらい表情を変えて、開き直るように勢いよく答えた結崎さん。とっつきにくそうなちょっと前の印象はどこへやら。たじたじである。
まあこれ以上やると本気で怒られそうだからそろそろからかうのはやめにしよう。
「なんか一気に親近感わいたよ。結崎さん、いつも気難しそうな顔してるから」
「……あまり、気の利いたコミュニケーションができるほうでもないので。だったら初めから距離を置かれたほうが楽かな、と」
「なるほどねー」
普段の態度は会話の苦手な彼女なりの処世術らしい。だとしたらなかなに不器用である。
どっちかというと、今のちょっと気恥ずかしそうに話している彼女のほうが素の性格に近いのかもしれない。少なくとも漫画好きなのを隠すくらいには。
「……変だって思ったりしてます? 私の趣味」
「え、いや別に。俺はいいと思うけど」
俺も漫画くらいしか趣味がないし、と付け足しておく。すると彼女はすっと顔をそむけた。
人からどう見られるか気にするなんてなかなかかわいらしい一面があるなあ、なんて思っていると、今度は彼女がおずおずとだが質問をしてきた。手元の雑誌をかざしながら。
「橋田さんって、その、これ毎週読んでますか」
「ん? まあそうだね。基本的には」
あいにく趣味にあまりお金を掛けられる身分でもないからコミックスは買わないけど、それでも昔から雑誌は毎週買っている。ちなみに、最近は電子版とかもあるらしいけど、こだわりの紙派だ(決して電子での買い方がよくわからないわけじゃない)。
「えー……と、今週号読んでる間に寝ちゃったみたいですけど、どこまで読みました?」
「今週? どこまでだっけな……」
自分の雑誌をパラパラめくりながら思い出す。表紙……センターカラー……読み切り……その先は見た記憶がない。
「読み切りまでかな」
「——そうですか」
どうにも含みを感じる。本人はそれきり手元とこっちで視線が往復していて何か言い淀んでいたようだが、やがて意を決したかのようにこちら向き直って問いかけてくる。
「今、読み切りの企画やってるじゃないですか」
「? ……ああ、そうだそうだ。あったね」
一瞬何のことかわからなかったけど思い出した。今、誌面では毎年恒例の読み切り企画がやっている。4~5作品程度の読み切りが何週間かにわたって一つずつ掲載され、その中から読者投票で一番人気を決める——という企画。
1位になった作品はそのまま連載になることも多くて、ここから人気作になった漫画も少なくない。
「今週の読み切りも、それにエントリーしてますよね」
「そうだね」
「……その、どう、でした?」
「どうって、今週の読み切りのこと?」
無言で首肯。表情がまた硬くなってるし、いい方も歯切れが悪くていまいち趣旨がつかめないけど、どうやら今週の読み切りの感想を聞きたい様子。
雑誌をめくって読み切りのページへ。カラーページの表紙がお出迎えだ。拳に籠手をはめた少年が、高く手を上に掲げていて、周りはほかの登場人物がいる。
ペラペラページをめくりながら内容のおさらい。中身はファンタジー風のバトル漫画。決して大柄ではない少年が、その拳に着けた伝説の籠手の力を使い、強力な拳で化け物を倒していくというシンプルなストーリーだ。
「……そうだなあ……」
「……」
内容を確認している俺を結崎さんはなぜか食い入るように見ている。なんだか一挙一動を監視されているみたいで居心地が悪い。彼女が真剣な表情なのもそれに拍車をかける。
あれこれ気にしている一通り読み終わったので、気持ち彼女から視線をそらしつつぽつぽつ思いついたまま感想を述べていく
「とりあえず、絵はうまいと思う。戦闘はかっこよかった」
「……そ、それで?」
「ただ話は……普通というか。あんまり面白みはないかなあ」
「…………はい」
「キャラもそんなに魅力的な感じではないし」
「……………………はい」
「絵もうまいけど、ちょっと荒いところもあるしねえ」
「……………………………………はい」
「そんなに面白くはないし(ゴンッ)、1位を取るのは難しそうだよねって結崎さん!?」
ふと結崎さんのほうを見ると、頭から机に倒れこんでいた。話している時にゴンッていう音が鳴ったけど、まさか倒れこんだ音?
「……じゃ……」
「え、何?」
突然に出来事に困惑していると、結崎さんのうめき声が聞こえてきた。
「……そんなにはっきり言わなくてもいいじゃないですかあ……」
「……はい?」
「自覚はありますよ。ええもちろん。絵ばっかで話がうまく作れてないし、その絵だって人の表情とかはまだまだだし。ぜんぜんうまくないのは分かってますよ。でもこう、もうちょっと優しい言い方してくださいよていうかもう少しほめてくださいよ優しくないですよ……」
急にどうしたのだろうか。
何かが壊れてしまったかのように、机にうつぶせになりながら何かをぶつぶつ言っている。言っていることは多少聞き取れるのだけれどイマイチ発言の意図が読めない。
何か変なことを言っただろうか。確かにあまり肯定的なことは言わなかったが、どう見ても「好きな作品を悪く言われたのがショック」、というような感じでもない。
かける言葉が見つからず、黙ってみていると、やがてゆっくり彼女は顔を上げる。半泣きだった。
「……大丈夫?」
「心をすりむきました」
「大変そうだね」
「なんで他人事なんですか!」
そういわれましても。
「俺、何かまずいことを言った?」
「言いました。あなたは今、貧弱な作者の心を批評のナイフで切り裂いたんです! こんなひどいことがありますか!?」
本当に何のことだろう。
「えっと、ごめんよくわからないんだけど」
「……読み切りの作者名、見てないんですか」
作者名?
慌ててページを戻してさっきのカラーのページへ。左下に小さく作者名が書いてあった。
『ユイザキアカリ』……結崎 朱莉?
視線を上げる。不満げな表情でこっちに視線を向ける結崎さんがいる。『知らなかったのか』と、その視線が問い詰めてくる。
そんな、まさか。
「……もしかして、この漫画、結崎さんが書いたの?」
「はい」
即答だった。ちょっと文句ありげな感じだった。思わず目をそらす。
「つまり、それは……」
「私、漫画家なんです。その読み切りが雑誌デビュー作なんですけどね」
とんでもないカミングアウトだった。
「マジで?」
「マジです」
変な汗出てきた。
気難しそうなバイト先の同僚が熱い漫画好きだと思ったらまさかのプロ漫画家だった。そんなのありかよ。
視線を彼女に戻す。頬杖を突きながら、憎らしげな視線でじっと睨んでいた。再び視線をそらさざるを得なかった
さっき感じていた親近感はどこへやら。純粋な読者でしかない俺からすると、作者が目の前にいると知ってほいほい軽口を叩けるほどメンタルは強くない。
「……あれ? 俺もしかして作者に直接面白くないって言ったの?」
「そうですね」
血の気がさっと引くような気がした。
さっき自分が言った感想を思い出す。かなり明け透けに言ってた気がする。少なくとも結崎さんが作者とわかっていたらもう少し掛ける言葉は選んだと思う。
変な汗は止まらない。
「いや、まあその……これからに期待だよね」
「今は期待できませんか」
「いやそういうことじゃなくてね?」
「別に大丈夫です」
そんな不満げな顔で言われましても。
結崎さんはわかりやすく唇を尖らせ、頬杖を突きながら横目でじっとこっちをにらんでいる。
意外と思っていることが顔に出るんだなあと思えば可愛くも思えるが、ちょっとこの気まずい空気は耐え難い。
どうにかしないと。会話の糸口を探す。
あれこれ考えてみたけど、開き直って素直に話しかけることにした。
「結崎さんって、いつくらいから漫画を描いてるの?」
「え? ……えと、中学生くらい、ですかね」
すこし面食らったようではあるけど、応じてはくれた。すこしほっとしつつ話を続ける。
「じゃあ5,6年くらいか。すごいな」
「別に、まだ一作載っただけですよ」
「一作載るだけでもすごいでしょ」
「……ご機嫌取りですか?」
「違うよ」
まっすぐ彼女を見据えてはっきりと否定した。
向こうからすると、突然ほめてきたように思えるかもしれないけど。でも、すごいと思っているのはうそ偽りない本心のつもりだ。
「いやほら、俺みたいな定職にも就いてないフリーターからすれば、結崎さんみたいに夢をかなえた人は、すごい! って思うよ」
素直に伝える。人に名乗る立場もないこっちからすれば、結崎さんみたいに成果を上げている人のことはまぶしく映る。
俺の言葉を受けた結崎さんは、けれど渋い顔をして視線をそらした。
「……別に、まだ夢がかなったわけじゃないです。ただ1度、漫画を雑誌に乗せてもらっただけで」
「でもそれは誰にでもできることじゃないよ」
「そうかもしれませんけど」
声のトーンが下がった。その表情には、ほんの少し不安の色が見えた気がした。何かを吐き出すみたいに、ぽつりぽつりとつぶやきだす。
「読み切りが載ったからって、明日からはまたどうなるかわかりません。評判がよくなければ、またチャンスを探して1からやり直しです。仮に評判がよくて連載につながったとしても、すぐ終わってしまうかもしてない」
「……それは、そうだね」
漫画も人気商売。人気が出なきゃ打ち切られて終わり。実力と運が求められる世界のシビアさは、ただの1読者の俺でも多少は想像がつく。ましてや、そんな世界の中を歩みだしたばかりの彼女からしてみれば。
「ごめん、ちょっと軽率だった」
「……いえ。気にしないでください」
そういったきり黙り込んでしまう。バッドコミュニケーションという言葉が俺の頭をうろちょろしている。何してんだか。
「——たまに思うんですね」
なんといえばわからず言葉をずっと探していると、彼女がつぶやくみたいにしゃべりだした。
「いつまでこんな風にコンビニの中で朝を待つ生活してるんだろうなあって」
結崎さんはどこか遠い場所を見つめているみたいだった。
「漫画家としての収入だけで生きていける日が本当に来るのかなあって。——いえ、やっぱり何でもないです。忘れてください」
話過ぎたとでも思ったのか言葉を取り下げた。表情は、また無表情でよくわからなくなっている。
「……そっかあ……」
素直にそんな声が口から洩れた。それが、何に対する納得なのかはよくわからなかったけど。なんとなく、彼女のしんどさとか不安が想像できた。俺も、ほんの少しだけ似ていたから。
「だから、忘れてくださいって」
「いやあ、どうにもそうはいかないっていうか……共感しちゃうっていうか……」
「変な同情はいらないですよ」
「いや、そうじゃなくてね」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「俺さ、弁護士目指してるんだ」
「……弁護士?」
心底意外そうな顔をされた。確かに、そんな雰囲気ではないかもしれないけども。
苦笑しながら話を続ける。笑い話にでもなってくれたらと思いつつ。
「そーそー。今、司法試験に向けて勉強しててさ。勉強に集中したいからって就職しないでこうやってバイトしながらそれ用の学校かよってんだ」
「なんか意外ですね……」
「そんなに驚く? 失礼じゃないかい?」
「無礼を承知で言えばちょっとお馬鹿な感じがしてたので」
それ前置きあっても普通に失礼なんだけど。傷つくよ? 泣いちゃうよ?
結崎さんの無遠慮っぷりに感服するが、場の空気はほんのちょっと和らいだ気はする。
「一応これでも予備試験は受かってるんだぜ?」
「なんですかそれ」
伝わらんか。割と心の支えになってることなのでさらっと流されるとちょっときついものがある。
「司法試験受ける前に合格しなきゃいけないやつ。難しいんだよ?」
「漫画を描くのとどっちか難しいですか?」
「比べられるかっ!」
冗談です、なんて結崎さんはくすくす笑った。ちょっといやらしい感じの笑い方。案外いたずらっ子というか、子供っぽいんだろう。俺もつられて笑った。
「ま、だから俺は行く先不透明の男だからさ。不確実だけど一歩を踏み出した結崎さんをちょっとうらやましく思っちゃたんだよ。ぶしつけなこと言ってごめんな」
「……いえ、気にしてませんよ」
また結崎さんが笑う。今度は、ちょっと大人びたきれいな笑顔だった。
いつの間にやらさっきの重い空気はなくなっていて、今までしたことがないくらい、彼女との何気ない雑談が盛り上がった。
「でも、大変じゃないですか? 深夜バイトしながら司法試験の勉強なんて」
「いやあやりたくてやってるからそれはいいんだけど……親の視線がね……」
「あー。やっぱり、きつかったりするんですか?」
「いや、やさしい親だからきつくないんだけど……めっちゃくちゃ心配してくるんだよね」
「……逆にしんどいですねそれ」
そうなんだよねー。
気にかけてくれるのは分かるし食べ物とかを送ってくれるのはうれしいんだけど、いちいち手紙で詳細報告させようとしないでほしい。「なんかイマイチ最近はうまくいきませんし伸び悩んでます」とか素直に書くわけにもいかないし。
「結崎さんのとこは? どうなの」
「最初は反対でしたけど……まあ6年くらいかけて説得しました」
「そんなにかかったの? よくめげなかったね」
「賞を取れば黙らせられると思ったので」
結崎さん思ったよりパワフルよね。
「……でもまだ心配してると思いますし。早いところ安心させてあげたいですね」
「そうだよな。俺も、試験に受かって、雇ってもらえるとこ探して、バイトをやめれるくらいに————」
「なに、橋田君やめるの」
いきなり第3者の声が聞こえてきて、ぎょっとして声のしたほうへ視線を向ける。
無精ひげを生やしたちょっといい声のおじさんが立っていた。このコンビニの店長だ
「ああ、店長お疲れ様です」
「お疲れ様です」
「はい、お疲れ様。シフトもう上がっていいよー」
もうそんな時間なのか?
時計を確認すると、確かにシフト終わりの時間だった。結崎さんと話し始めてから結構時間が経っていたみたいだ。
「ていうかさ、2人してバックにいてレジ誰もいないのはダメでしょー」
『あ』
2人してすっかり忘れていた。
説教でもされるかとも思ったが、店長は特に気にした風もなく言葉を続ける。
「まあ、問題なかったならいいけど、大丈夫?」
「大丈夫です」
多分。
「じゃあ、いいよ。次さぼるときはもう少しうまくさぼってくれよー。んじゃ、あがってね」
ばれなきゃいいのだろうか。こちらとしてはありがたいけどこの店って経営状況大丈夫なんだろうか。司法試験に受かるまではせめて残っていてほしいんだが。
「参考にします」
「いやその返答もどうなの結崎さん」
そう突っ込むと、いたずらっぽい笑みをこっちに向ける。
「……ま、いっか」
今気づいたけれど、結崎さんの子供っぽい笑みが、案外俺は好きなのかもしれない、なんてことを思った。
***
「あー、まだ真っ暗だな」
「ですね」
制服から着替えて俺と結崎さんはコンビニを出た。まだ日は登っていなくて、街灯もあまり多くないこのあたりの道路はかなり暗い。
「朝はまだちょっと先だなあ。結崎さんって、駅のほうに行く?」
「あ、はい」
「じゃあ送ってくよ。盾くらいにはなるよ」
「ありがたいです。私まだ死にたくないので」
「俺だって死にたかないよ」
また冗談ですと言って笑う。だんだんこんな感じの会話にも慣れてきた気がする。
ほんの少し前まで、お互いのこともよく知らなかったとは自分でもちょっと思えない。それくらい、俺は結崎さんに親近感を覚えている。ちらと横目で表情を覗いたが、暗がりなのではっきりとは表情が見えなかった。
「結崎さん、この後暇?」
気が付けば、そんなことを口にしていた。
「この後ですか? 帰って寝て……ぐらいですけど」
「朝飯、食いに行かない? ファストフードくらいしか開いてないと思うけど」
「ご飯ですか? 別にいいですけど……」
「何?」
「こんな真っ暗なのに朝ご飯なんて変な感じですね」
それは確かに。
なんだか妙におかしくて、2人で顔を見合わせて笑った(暗いから声しか聞こえないけどね)。
「ま、いいでしょ別に。ほら、明けない夜はないんだから」
ちょっとカッコつけていってみると、結崎さんが不意に足を止めた。そして、じっとこちらを見つめてくる。
表情がはっきりと読み取れるわけじゃないけど、暗い夜道に彼女の瞳が妙に輝いて見えて、というかいつの間にか見つめあっていて、なんだか照れ臭くなった。
目線を進行方向に戻しながら問いかける。
「かっこつけすぎた?」
「————いえ」
そういって、彼女はまた歩き出す。
「明けますよね。どんな夜も」
「——もちろん。じゃあ、行こうか」
俺もまた、歩き出す。
なんてことのない言葉を交わしながら、そうやって2人でしばらく歩いていた。
何気なく遠くの空を見つめた。ビルの切れ間から、太陽が昇っているのが見えた。
夜明けはもう、すぐそこだ。