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補遺ー「新選組、西南戦争へ」の登場人物紹介

 色々と抜けがありそうですが。

 西郷軍に関しては、史実通りという事で、史実以外の歩みをたどった新選組と、海兵隊関係者の紹介に絞らせてもらいました。

 あれ、この人の紹介も無いとおかしいよ、というのがあれば、感想欄等でご指摘ください。

 

 新選組関係者


 土方 歳三(ヒジカタ トシゾウ)、1835年生、1877年没

 戊辰戦争の際、仙台にて降伏し、暫く牢生活を送る。釈放後、婚約者の琴と結婚。荒井郁之助の斡旋により、第一屯田兵村の村長として、北海道の開拓に従事する。屯田兵として、台湾出兵に出征し、一時、マラリアで生死の境をさまようも生還する。西南戦争時には、海兵隊少佐にして、第3海兵大隊(呼称、新選組)の大隊長として従軍、城山の戦いで、桐野利秋と事実上、相撃ちの末に戦死。


 島田 魁(シマダ カイ)、1828年生、1903年没

 戊辰戦争後、すぐに釈放され、京都に住む。甘い物屋をやるも、すぐに廃業し、剣道場の主として、生計を立てていた。西南戦争勃発に伴い、海兵隊に志願、他の新選組の面々と共に、第3海兵大隊に所属する。西南戦争終結後は、京都に戻り、西本願寺警備員として生計を立てる一方で、新選組の碑の守役を務める。新選組に関する数々の懐旧談を語り遺しており、「新選組の語り部」として知られる。


 永倉 新八(ナガクラ シンパチ)、1833年生、1915年没

 戊辰戦争後、松前藩士として帰参が認められ、松前、小樽へと移り住む。西南戦争勃発に伴い、海兵隊に志願、他の新選組の面々と共に、第3海兵大隊に所属し、抜刀隊小隊長も務め、田原坂等で奮戦、西郷隆盛の最期を見届けた一人でもある。西南戦争終結後は、小樽に住むが、一時、東京に住んだこともある(日清戦争の頃は、東京に住んでいた。)。新選組に関する記録を幾つも書き遺している。


 斎藤 一(サイトウ ハジメ)、1844年生、1915年没

 戊辰戦争後、会津藩に仕え、斗南へ、更に、東京へと移り住む。西南戦争勃発に伴い、海兵隊に志願、他の新選組の面々と共に、第3海兵隊に所属し、抜刀隊小隊長を務め、また、先陣を務めることも多かった。西南戦争後、一時、海兵隊を離れるが、日清戦争勃発に伴い、海兵隊大尉として現役復帰。義和団事件終結まで現役士官として奉職して昇進、最終階級は海軍少将。


 新選組以外の海兵隊関係者


 荒井 郁之助(アライ イクノスケ)、1836年生、1909年没

 幕府海軍の軍艦頭を務めていたが、榎本武揚と共に薩長軍に降伏した。その後、榎本の依命により、いざという場合に備えた軍事力の隠れ蓑として、海兵局長となり、海兵隊の整備に尽力する。西南戦争終結から数年後、本多幸七郎に、海兵本部長(海兵局が、海兵本部に改編されたのに伴い、名称変更)を引き継ぎ、海兵隊を退役。退役後は、趣味の気象学に励み、中央気象台長まで務めている。


 大鳥 圭介(オオトリ ケイスケ)、1833年生、1911年没

 戊辰戦争の際に仙台にて降伏。暫く牢生活を送った後、釈放後、すぐに海兵隊幹部に登用される。西南戦争時、海兵旅団長。海兵旅団長としては、戦略は上手かったが、戦術はそう上手くなく、それに指揮官として致命的な不運の持ち主だった、と部下の本多幸七郎や林忠崇は評している。西南戦争終結から数年後、暫くして海兵隊を退役。退役後は、元老院議官や朝鮮公使を務めている。


 北白川宮 能久(キタシラカワノミヤ ヨシヒサ)、1847年生、1910年没(?)

 戊辰戦争時の輪王寺宮として著名。戊辰戦争の際に仙台にて降伏。暫く謹慎生活を送った後、海兵隊士官となり、英国に留学するが、西南戦争前に帰国して、西南戦争に従軍する。海兵隊の庇護者となり、義理の甥になる明治天皇に、海兵隊の存続を嘆願したことが、海兵隊存続の影の最大の要因と言われる。海兵隊の要職を務めた後、大将として退役して薨去。その子、孫も海兵隊の要職を務めた。


 滝川 充太郎(タキガワ ミツタロウ)、1850年生、1877年没

 本名は、具綏(トモヤス)の筈だが、海兵隊の資料では、通称の充太郎で載っているため、こちらで記している。父は鳥羽伏見の戦いの時の大目付の滝川具挙。戊辰戦争後、海兵隊に奉職。有能な軍人であると共に、武士の情けを知る人であり、永山弥一郎を介錯した逸話で知られる。西南戦争時、人吉攻防戦で破傷風により戦病死。それを知った旗本達の多くが、「父に息子の才があれば」と哀惜したという。


 林 忠崇(ハヤシ タダタカ)、1848年生、1941年没

「最後の大名」、「今忠勝」等々、多くの異名を持つことで知られる。戊辰戦争後、海兵隊に奉職し、フランスに留学するが、西南戦争前に帰国。西南戦争において、抜刀隊隊長等として、獅子奮迅の戦いを示す。西南戦争後も海兵隊に奉職し、日清、日露、第一次世界大戦と野戦指揮官としての才能を発揮する。第一次世界大戦後は、海兵隊を退役し、侯爵にまで叙爵され、貴族院議員として過ごした。


 古屋 佐久左衛門(フルヤ サクザエモン)、1833年生、1877年没

 衝鋒隊を率いて、戊辰戦争の北越戦線で勇戦し、降伏をすぐには肯んじなかったが、最終的には土方歳三らの説得により降伏。暫く牢生活を送った後、海兵隊に奉職する。佐賀の乱、台湾出兵等で活躍する。西南戦争勃発に伴い、第一海兵大隊長として勇戦。林忠崇によると、古屋さんは本当に実戦指揮がうまかった、と高評価している。田原坂の戦いにおいて戦死。旧部下達は、それを聞いた際に、皆が泣いた、という。


 本多 幸七郎(ホンダ コウシチロウ)、1845年生、1905年没

 大鳥圭介の部下として、戊辰戦争を戦い降伏する。暫く牢生活を送った後、海兵隊に奉職。西南戦争等で頭角を現す。荒井郁之助の後継者として、荒井郁之助の退役後は、海兵本部長を長年にわたって務める。日清、日露戦争等においては、海兵隊を取りまとめた。日露戦争後に、過労により病死。林忠崇曰く、「彼がいなかったら、日本はどうなっていたか」等、この人の政治的見識の高さを物語る逸話は数多い。  

 前書きにも書きましたが、色々とご意見、ご感想があると思います。

 ありましたら、感想欄等にお願いします。

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