第五話
「残念だが、このままだともう長くはないぞ」
ナツメの様子を確認した医者は、淡々とディータに告げた。
「そもそも毒の種類が分からず、対処のしようがない。せいぜい、進行を遅らせるので精一杯だ。それでも、保って三日か四日……」
「どうにもならないのか?」
「俺の手ではどうしようもない……だが……」
「何だ?」
「……戦いに毒を使う人間は、その解毒剤もセットで持っている場合が多いと聞く。毒を受けた敵と交渉をする際に使うらしい。まぁそうでなくとも、自分が間違えて怪我をした時、解毒剤が無ければ目も当てられない」
「つまり、その敵を探し出せということか」
「確実に持っているとは限らないがな」
「……だとしても、それしか方法は無いな」
「さっきも言ったが、三日か四日もすればもう間に合わなくなる。探すなら急げよ」
「分かっている」
ディータはそう言い、その診療所から立ち去った。
◇
ナツメは診療所のベッドの上で横になっていた。
全身が痺れ、体は動かない。睡眠と覚醒が短い時間に何度も入れ替わる。そんな曖昧で途切れ途切れな意識の中、彼女は過去の光景を夢として見ていた。
無数の記憶が、水中の泡のように浮かび、通り過ぎ、はじけていく。
かつて奴隷として売り飛ばされた記憶。薄暗い部屋ですすり泣いていた記憶。傷だらけになりながら逃げ出した記憶。
やっとのことで自由になったナツメは、何も持っていなかった。彼女は、まずは力が欲しいと思った。自分の目の前にある現実。時折牙を剥き襲い掛かってくる獣のようなそれと戦うだけの力が、彼女は欲しかった。
そうした彼女の目に止まったのが、お金であった。少量であれば、物を買う程度のことしかできないが、大量にあれば、大抵のことになら対抗できるだけの力になると、彼女は気づいたのだ。
それからナツメは、ただひたすらにお金を集めた。手段の善悪は問わない。ただそうして力を蓄えていけば、何もかもがうまくいくのではないかと、そう信じ込んでいた。
(子供が、親に泣きつくように……私は、お金というものを盲信したんですよね……)
そして、自分がディータの剣に強く惹かれたのも、そこに理由があるとナツメは思っていた。
(サムライ様の剣にあるのもまた、強い渇望。そして盲信……)
彼は剣のことしか考えていない。剣の道を行くためだけに戦おうとしている。……にもかかわらず、そこに込められている渇望は、微かに違う方向を向いているのではないかとナツメは思っていた。
(二つの方向。二面性。……それは誰にでもあることですが、普通の人はそれに折り合いをつけることができる。ですがサムライ様のそれは違う。真っ向から相反してしまっている……)
ディータは今、例の毒使いを探し回っている。彼が用心棒を務めるのは、闘技場に到着するまでという話だった。だから彼には、ナツメを助ける理由などない。
「私のことはほうって置いて下さい」と、そう言いたかった。ディータの目指している剣の道には、こういう、誰かを助けようとするような、意味のある戦いなどあるべきではないのだ。
しかしナツメはそう言うことができなかった。命が惜しかったのか、あるいは何か、別の理由があったのか。それは彼女自身にも分からなかった
◇
ディータがその毒使いを探し始めてから、もう二日が過ぎていた。
彼は焦っていた。
体格は小柄。声から推測するに恐らくは少年。二つの得物を持って戦い、その片方には毒が塗られている。マントを羽織り、顔を隠している。……ナツメから聞いた敵の情報は、せいぜいそれくらいであった。
医者の言葉を信じるなら、彼女の体力が尽きるまで後一日か二日しかない。時間はあまりにも足りなかった。
(……それに、あと数日でフェリクスとの決闘がある)
彼は本当に強かった。今の自分のままでは、彼に勝つことは難しいと、ディータは客観的に判断していた。
本当なら今すぐにでも剣の訓練をし、心を研ぎ澄ませ、少しでも強さを身につけなくてはならないのである。
(にもかかわらず、俺は……)
今の彼はナツメの用心棒ではない。彼女が毒で死んでしまったとしても、彼には関係ないのだ。
ディータは頭を振って思考を打ち切った。
(よそう。今は考えている時間が一番勿体無い)
頭を切り替え、彼はとある場所に向かって歩き出した。
◇
深夜。町全体が眠りにつく頃、その少年はいつものように、マントを羽織り、顔を隠して道を歩いていた。
ある宿の前で、少年は立ち止まる。辺りを見回し、人の気配が無いことを確認しながら、彼はその宿に足を踏み入れた。
目標の男の名前は既に知っている。少年は誰もいない受付に入り、慣れた手つきで名簿を開き、その名前を探していく。彼がここに侵入するのはこれが初めてではなかった。
やがて部屋の番号を確認し、彼はその場から立ち去った。
一切の音を立てないまま階段を登り、目的の部屋の前に到着する。扉の鍵をものの数秒で解錠し、そのまま少年は部屋に入り込んだ。
(よし……。さて、今回はどんなものかな……)
ベッドの上で男はぐっすりと眠っている。今回は無駄に戦う必要はなさそうだ、と少年は安心する。
そして彼は部屋の隅に置いてある荷物の物色を始めた。
数分後、金目の物の回収をあらかた終えた彼は、小さく笑みを浮かべた。
(想像してたより、ずっと多く持ってた)
回収した物を入れた袋の重さが心地よい。全部売ればいくらになるだろう、などと考えてしまう。
そうして少年は気分良く仕事を終え、立ち去ることにした。しかし、部屋から出ようとしたところで、少年は固まった。
部屋の入り口には、一人の剣士が立っていた。
◇
マントを羽織り、顔を布で隠している小柄な人影。目の前の泥棒を見ながら、間違いないとディータは確信した。
「お前は――そうか、この前の――」
少年は微かに迷った後、即座に反転し、部屋の奥の窓の方へと走った。そして外に出ようと窓に手をかけるが――開かない。
「無駄だ。窓には細工しておいた」
「何……?」
少年はたじろぐ。
「それじゃあまるで、僕がここに来ることを、前もって――」
「知っていた。だから気配を消し、待ち伏せをしていた」
淡々とディータは言った。
(もっとも、半分は賭けのようなものだったが……)
少年はナツメを襲撃した。それは、ナツメとディータの二人がこの町に来てから、まだ一日も経っていない頃だった。彼女の存在を知っている人自体、この町にはほとんどいなかったわけである。
少年は金のために行動している。だとすれば、主に狙うのは商人だ。
彼女がこの町に来てから、商人としてどんな行動をとったのか。どこに行き、何をしたのか。ディータはそれを整理し、少年がどこでナツメを見かけたのかを推測したのである。
「この町で商売をするには必ず、登録し、許可を取らなくてはならない。だから町を訪れた商人は、真っ先に同じ場所に向かう。この三日間、俺はそこで張り込み、お前を探していた」
毒使いについて、ディータはほとんど何も知らない。だが、商人が通りかかる時に気配を変える人間、あるいはその跡をつけようとする人間を見つけることは、そう難しくはなかった。
そして今日の昼間、彼はそれらしき人物を見つけた。しかし人通りの多い場所で接触したとして、逃げられてしまう可能性が非常に高い。そこでディータは、その敵が狙うであろう商人に先に接触し、そこで待ち伏せをすることに決めたのだ。
「眠り薬で商人を眠らせ、窓に細工をした。そしてじっと、お前が来るのを待っていた」
「それはどうも。ご苦労なことだね」
おどけた様子で少年は言うが、その声には焦りが含まれている。
「それで、用は何かな? この前の女の仕返しにでも来たの?」
「違う。解毒剤を取りに来た」
「――――解毒剤、ね。悪いけど。そんなものはないよ」
「本当か?」
そう尋ねてから、ディータは小さく頭を振った。
「いや、別に答えなくてもいい。お前を斬ってから、自分で確かめる」
ディータは剣を抜くと、そのまま少年に一気に踏み込んだ。
彼の斬り込みを、少年はギリギリのところで受け流す。その両手にはそれぞれナイフが握られている。片方を隠すなどする余裕は無いようだ。
さらに数度剣を交わした後、ディータは一度間合いをとった。
(それなりに腕は立つ。……が、たかが知れている。このまま押し切ればいい)
そしてディータは、再度踏み込もうと足に力を入れた。
と同時に、胸の奥にずしんと重たい激痛が走った。そして痺れが広がっていく。
「……効いてきた?」
少年の声には安堵の色がある。
(これは、毒……? いつだ? 一度たりとも、攻撃は受けていないはず)
体がぐらりと揺れる。両足をふんばり、今にも倒れそうになるのを必死に堪える。
「毒ガスだよ。無臭だから気づかない。僕の切り札だ。……これを用意するのは、結構手間だしお金がかかるから、あまり使いたくないんだ。まぁそれでも、あんたが言う解毒剤を渡すよりは安いんだけどね」
毒ガス、という言葉とともに、少年はどうして布で顔を隠しているのか、ディータは理解した。
(マスクをしているのを、隠すためか)
露骨に防毒マスクなどをつけていれば、相手の虚をつくことはできない。この切り札は意味を成さなくなってしまうのだ。
ディータの視界はぐるぐると回っていた。心臓が脈打つのと共に、どんどん毒が全身に広がっていくのが分かる。
「……しぶといね。普通ならもうとっくに気絶してるよ」
心臓の鼓動がひどく大きく聞こえる。ぐわんぐわんと反響し、脳を内側から揺さぶる。
目の前がぐにゃぐにゃと歪み始める。ディータは耐えられなくなって目を閉じた。
「流石に、もう動けないだろ? よくやったけど、あんたはここまでだ」
動けなくなったディータに止めを刺すため、少年はゆっくりと彼に近づいていった。そしてナイフを構え、一閃する。それはディータの喉元に向かうが――そのまま空を斬った。
「……え……」
少年は自らの胸に刺さった剣を不思議そうに眺めた後、その場に崩れ落ちた。
ディータは歯を食いしばり、力を込めて少年から剣を引き抜く。無理矢理に自らの目をこじ開けるが、もはや目の前の物の輪郭さえよく分からない。
ほとんど手探りで少年の懐を探ると、そこには無数の薬瓶や小袋があった。それが何なのか確認できないまま、持参した大きな袋に片っ端から入れていく。
全て回収し終えると、ディータはそれを肩に担ぎ、部屋を出た。
胃の奥から強烈な何かがこみ上げ、ディータは吐き出した。
血と吐瀉物とをその場にぶちまけた後、無造作に口元を拭うと、ディータは体を引きずるようにしてその場から立ち去った
◇
半ば死にかけの状態で診療所にたどり着いたディータは、すぐに医者の治療を受けた。
彼が持ち帰った薬品の中には、ナツメが必要とする解毒剤も、彼自身が必要とする解毒剤も含まれていた。それによりかろうじて、ディータは一命を取り留めることができたのだった。
その後、ディータがベッドから起き上がり、歩けるようになるまで二日かかった。彼の受けた毒の強力さを考えれば、それは驚異的な回復力と言えた。だが歩けるようになったとはいえ、体を動かす度に全身が痛み、剣を振るなどとてもできない状態であった。
「あの、サムライ様……。本当に、ありがとうございますね。なんてお礼を言ったら良いか……」
受けた毒の種類が良かったのか、ディータよりも早く回復したナツメは、ベッドに横になる彼にそう頭を下げた。その声にはいつもようなおどけた様子は一切無かった。
それからさらに二日間、ディータはひたすら体を休め続けた。
彼が目を覚ますと時々、その傍らにナツメがいた。彼女は深く何かについて考え込んでいるようだった。
ディータはそんな彼女をぼんやりと眺めながら、フェリクスに勝つにはどうすればいいのか、ただそれだけを考えていた。
◇
やがて、決闘の日の夜がやってきた。
日は沈み、鮮やかな月光だけが病室の窓から差し込んでくる。
ディータは静かにベッドから抜け出し、軽く体を動かした。全快とは言えないが、随分と良くなってきている。
剣を握り、軽く振る。動きにぎこちなさはあるが、なんとか誤魔化せないほどではない。それよりも問題は体力だ。少し剣を振っただけで、すぐに息が切れてしまう。ディータはそれを落ち着けるために深呼吸をした。
身支度を終え、ディータはその診療所を出た。
冷たい風が全身を包む。意識が研ぎ澄まされていく。
ディータは戦いに向かうために一歩を踏み出す――と同時に、すっと彼の前に人影が現れた。
「――やっぱり、戦いがあるんですね」
そこにいたのはナツメだった。
彼女の言葉にディータは微かに困惑する。フェリクスとの決闘について、ナツメには何も言っていないはずだった。
「言わなくても、あなたの様子を見ていれば分かりますよ。気配が全然違うんですから、嫌でも気づいちゃいます」
「……そうか」
「体はまだ、全然回復してないですよね?」
「回復した」
「嘘です。……仮に回復していたとしても、あなたの目を見れば分かります。あなたは戦いに行くんじゃなくて、死にに行くんです」
ナツメは淡々と続けた。
「私は何も知りませんが、今回の相手はよほど強いみたいですね。勝ち目がないことを、あなたは理解してしまっています。……今のあなたからは、私がいつか見たような強さは、微塵も感じられない。今のあなたには何も斬れません。今のあなたを、私はサムライと呼べません」
少しの間の後、ディータは口を開いた。
「仮に俺が、決闘で勝つことは無理だと分かっていたとして、それは一切関係ない。……命を賭けた戦いには、誰もが万全の状態で挑みたいと思う。しかしそもそも、万全の状態などというものは存在しない。いつだって、足りない。今、ここにいる自分が、戦わなくてはならない」
「…………あなたの言い分はもっともです。ですが……」
困ったような顔で、彼女は続けた。
「どうか今日は、このまま戻っていただけませんか? あなたは、このままだと確実に死ぬと、私には分かります。ですから――」
「ここで逃げれば、俺は二度と、剣の道を行くことはできなくなる」
その言葉を聞いて、ナツメはただ俯いた。
今日は月の明かりが強い。白く鮮やかな光が、彼女の輪郭をくっきり浮かび上がらせている。
しばしの間の後、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「そう言うと、思っていました」
ふと突然、彼女の目から涙が一筋、静かに流れた。彼女はそれを拭うと、告げた。
「私が、力づくで止めます」
「何……?」
ナツメは構える。そして、彼女は二本の短刀を、静かに抜刀した。
剣の道を極めることを願い、常に剣士としてのありかたを優先する彼の前で、真剣を、抜いたのだ。
「決闘に行きたければ、私を斬ってから行って下さい」
ディータは一瞬、彼女のその顔に見とれた。喜びなのか、悲しみなのか。希望なのか、諦めなのか。彼女は、今までに見せたことがないような、静かで透き通った、綺麗な表情をしていた。