自殺の後に訪れるもの
自殺をしようと思ったが、一瞬踏みとどまることとなった。踏みとどまるというのは比喩ではない。一歩踏み出せばそれで死ねるのだ。
椅子に乗り、目の前にはロープが垂れ下がっている。大きな口であなたの顔を食べさせてと待っている。
早く首を掛けてと言わんばかりの素朴さを持つ縄であるが、首を括るのは一旦止めにする。
私は死ぬ、死ぬ気には変わりないが、やはりどう死ぬかが問題となってくる。
死ぬのだからある程度の苦しみは了承のもとであった。遺書を残す気もない。
けれど、やはり気になるのが死後の世界だ。死後の世界がどうなっていようと自殺を止めることにはならないが、死の方法は変えようと思ってしまう。
自殺をする人は、その前に自殺について詳しくなる。楽に、そして迷惑かけずに死ぬ方法を模索するからだ。
「自殺したい」と検索すると心のホットラインの連絡先が見つかる。やたらと薄っぺらい精神論で諭すページも見つかる。
どの曜日に自殺が増えるか。自殺はうつ病である。自殺する人の心理。自殺未遂をした体験談。自殺する人の前兆。
そんな中で、死後について書かれたページがあった。
今の私が、一歩踏み出すことで覗ける死後について。
○
自殺はいけないことなのです。
自殺をした人の死後に幸せなんて訪れません。
自殺とは自分自身で死ぬことではありません。自分自身を殺すことなのです。
神様から与えられた特別なものを殺したことになりますから、自殺した人にはずっと死の苦しみを味わうことになります。
死の思いを何度でも何度でも味わってもらうのです。
なので自殺はしないでおきましょう。
○
確かこんな内容だ。
今確かめようと思っていても、携帯は解約され、電気も止められているので調べようもない。
まるで死後を見てきたような書かれ方を訝しげに思っていた。
死後の不確定な苦しみより現在起きている苦しみから逃れる方が先だとも思った。
死の直前にこの文を思い出すことになるとは。
人によっては自殺を踏みとどませるほどの抑止力のある内容なのかもしれない。
もしこれが本当ならもう少し苦しくない死に方を選んだ方がいいように感じた。
勿論のこと自殺をするには変わりない。
飛び降りも煉炭も首つりも入水も最後は苦しむと書かれていた。
薬で死ぬのもオーバードーズは辛いと聞くし、まず金がない。電車に突っ込むのも迷惑がかかる。
快楽を得ながら死にたいとは思わない。死ぬ苦しみも味わっていい。
だが、死後ぐらいは少し楽になりたい。
それくらいの願いは叶ったっていいのではないか。とすると、首吊りではだめだ。
風呂で失神で死ぬのがいいか。この季節に水風呂でゆっくりするのは難しいな。
水で濡らしたタオルを顔につけて寝ると死ぬと聞いたな。成功確率は低いだろうがそれを試してみよう。
早く死ななければ餓死になる。まあ、ともかく首つりはやめだやめ。
そう、椅子から降りようとした時、足を滑らせた。
頭がロープに飲み込まれるようにして――
椅子が倒れる。
必死でもがくが首が閉まる一方だ。
爪で引っかこうが、足をバタバタさせようが何も変わらない。
頭に血が溜まってるのが分かる。息が出来ない。声も出ない。
股間に温かい感覚。小も大も漏らしてる。
天井を見上げる目がぼやけてくる。涙だけでない。意識が遠のいてきている。
苦しさは増すばかり。辛い。助けてくれ。誰か。
ああ、これは事故だ。自殺じゃない。
こんな苦しみをずっと味わうだなんて、嫌だ。嫌だ……嫌だ、ぃゃ――
思い浮かぶ記憶。次第に過去へと戻る。
死、無援、失敗、孤立、無知、虐待。
何も楽しいことなんてなかった。やはり死ぬことが正しく思えるほどの運命だった。
走馬灯も残りわずか。赤ん坊の記憶へと戻る。
写真でしか見た覚えのない母の顔。私を産んだせいでなくなった母の顔。それが目の前に浮かぶ。
「おぎゃあ」
何故か私は産声を上げる。時が進んでいる。これは走馬灯ではないのか。
……そうか、これが自殺の苦しみを味わうということか。
神が私のような輩に輪廻転生はさせまいとしているのだ。
死の苦しみというのは死の直前を表すわけではないようだ。
この世に生まれそして死ぬまでの人生の苦しみを何度も味わうみたいだ――