Act.2
神宮寺 犀――俺の兄だと名乗る男。二十歳。誕生日から二週間目を過ぎようという日に、俺に力を移して失踪。※俺の脳裏に話しかけてくるという謎の現象アリ。要解明。
神宮寺 敬一朗――俺の伯父。犀を紹介したその後の足取り不明。連絡取れず。
神宮寺 聖――俺。十六歳。いきなり兄だとか言う男に変な力を譲られ、現在ここ、カーテノイド(地球の別名らしい)に時折生じる綻びを遮断するという、遮断師の役目を負わされている。大のスイーツ好き。※一番の大好物はミルクレープ。
沢音 ミツル――十七歳。(↓今日初めて聞いた新事実。俺より年上!)都内の私立女子高に通う少女。瓶底眼鏡に黒髪ポニーテール。額に不思議な布。謎の『拙者』言葉を操る。俺のパートナーと名乗る、開門師。昨日から俺と同棲中。
そこまでを書いたところで、あわてて後ろを振り返った。メモ帳の手元が翳ったからだ。気配も感じさせず背後から見ていたらしいのは、今日も絶賛瓶底眼鏡中のパートナー、兼同居人のミツルだ。いつの間に部屋から出てきたのか、下ろしていた長い黒髪を昨日と同じポニーテールにまとめ済みだ。昨夜身につけていた浴衣(パジャマ代わりらしい)にはさすがに驚いたが、セーラー服をまとっていると普通に見える。あ、額に巻いた謎の白布と眼鏡を除けば――の話だが。
「ふむふむ。自分用整理メモといったところか。聖殿は勉強熱心でござるな。甘味好きなだけあって、きっちりした性格は拙者より女性らしいのかもしれんな」
「は……女性?」
「はっ、いや、これは失敬。言葉のあやというもので――神経が細やか、とでも表現すべきだっただろうか。拙者自身、よく『女の子らしくない』などと友人に言われるもので、つい。だが――正確を期すならば、『同棲』ではなく『同居』が適した単語であると思われるが、如何でござろう?」
「こっ、これはその――間違いだよ、単なる間違い!」
ハハハ、と乾いた笑いでごまかしてみた。現に書き間違いではあるのだが、無意識に願望が滲み出た単語を選んでいたのかもしれない。そこではたと気づく。そうだ、話の流れでちょうどいいチャンスじゃないか。一番聞きたくてウズウズしていたことを思い切って訊ねてみよう。
「あの……さ、ミツル」
「む?」
どうやら口癖らしい一音で振り向かれ、ためらいつつも口を開く。これを聞かずして、他に何が聞けるというのだ。勇気を出せ、俺!
「その……君が使ってる、『拙者』とかそういう言葉遣いは、どういうわけで――?」
最後のほうがうやむやになってしまった。ちょっと勇気がしぼんでしまったからだ。自分の質問が、とんでもない返答を誘うものだったらどうしよう、と若干、いや、かなり不安になる。が、意外にもあっさりとミツルは答えた。
「ああ――これか。いや、よく色々な人に聞かれるのだが、両親の離婚後、祖父と暮らしていたものでな。これが時代劇の好きな人物で、終始このような言葉遣いをしていた。だから、移ってしまっただけなのだ」
「はあ――」
なるほど。って、そんな簡単に納得できるかーい! 頭の中でツッコミを入れたりして。いくら祖父がそうでも、これを人前で平気な顔して貫き通しているミツルは、やっぱり相当な変わり者だ。いじめられたりとか、しなかったのだろうか。
「そ、それでその額の布は……?」
それこそ余計な心配だったかと次なる質問を繰り出す。気になり続けていた事柄のもう片方である。が、残念ながらか細い俺の声はキッチンへ向かったミツルには届かなかったようだ。それを見届けてから、たった二日のうちに激変してしまった自分の環境にため息をついた。何度繰り返したかわからないそれに、俺の求める答えはない。
昨日、あれからミツルと共に俺が通う未想学園の寮に戻った。そしたら既に荷物も運び出された後で、俺が逆に転居先を確かめるはめになった。それがあの時犀に連れて行かれた超豪華マンションであることが判明し、ついでにきっちりとミツルの荷物まで届いていることまで確認し――結局、どうしようもなくここに泊まった。
幸い、だだっ広いリビングの左右に、同じ造りの部屋が二つ存在して、その両方にユニットバスが付いていたのが唯一の救いというべきか。フローリングの床にシングルベッド、そして学習机と本棚、ウォークインクローゼット。とりあえず当座の生活に必要な――というか十分満足できるレベルの――インテリアも兼ね備えられていて。
もう考えることを拒否した頭と体は、ベッドに横たえた途端に夢も見ない眠りに落ちていったのだった。
「――殿、聖殿!」
呼ばれて顔を上げると、対面型キッチンのカウンター越しに、ガラスのコップを差し出された。中にはなみなみと揺れるオレンジ色の液体。ジュースなんていつ買ったっけ、と思いつつ口にすると、百パーセント果実満載、といった瑞々しい風味が口内に広がっていく。
「これ……もしかしてオレンジ絞った?」
「いかにも。昨日、聖殿の就寝後に――」
「わざわざ買い物行ってくれたの? そんな……」
ぐったりと疲れきっていたにしろ、すぐに寝入ってしまったのは不覚だった。一人で買出しに行かせてしまったのだろうか――申し訳なさが浮かんだのだろう俺の表情を見て、ミツルが首を横に振る。
「届いたのだ、宅配便で。季節の果物に新鮮野菜、それはもうありとあらゆる食材の数々が。それに歯磨き粉や洗剤など、生活必需品の類も収納スペースに保管されていた。差出人の名は……どなただろうか。しかしおそらく、本部の手配によるものと見て間違いはないと思われる」
言われて、ラベルに書かれた差出人の名前を見ると『神宮寺 敬一朗』の達筆。受付日は三日前になっているが、箱に書かれているのはネットの有名ショッピングモールの名前で、日付指定で届けてくれる会社のようだった。伯父さんの携帯にはこのマンションに着く前も着いてからも、何度も電話してみた。でも番号自体がもう解約されていたのだ。住所は昔住んでいた実家のものだし、いつも世界中あちこちに出張していたりする伯父さんの仕事柄、今頃どこでどうしているのかもわからない。
自然、またため息が出た。思い出してもずっしりと重くなった記憶の残骸。無我夢中でやり遂げたらしいが、今考えても全てが夢か、悪い冗談のようだった。
『聖、今まで黙っていたが実は――お前には兄がいるんだ』
そんな衝撃の告白を電話でしてくれちゃった伯父にも、初対面からすっとぼけた印象の兄、犀にも、腹が立って仕方がなかった。
どうして何も話してくれなかったのか。今になっていきなり、しかも直前に有無を言わさず力を移すという身勝手さも何もかも。しかも二人とも行方不明と来た。どこにもぶつけられない苛立ちが、疲れの抜けない体に溜まっている。
「……聖殿? 如何なされた? 眉間に皺が寄られているところからすると、怒っておられるのだろうか」
俺の表情を真似てみせ、自分の眉間を指し示してくるミツル。推測通り怒っていたはずの顔が、つい緩んでしまった。ベランダに面したガラス窓からの朝日に、ミツルの瓶底眼鏡がキラーンと光っていたからだ。
「いや――ミツルにじゃないんだ。ただ、飲み込めないことばっかりが続いたからさ」
飲み込めないと言えばもう一つ。部屋の真ん中にどどーんと陣取ったザ・スイーツスペシャル(犀命名)に興味津々といった顔でミツルが目線を移動させる。白いテーブルクロスがかけられたテーブル。横に五人以上は並んで座れるぐらいの大きさのそこに、上半分が開いた状態のガラスケースで周囲を囲んであるコーナー。そこに並んだスイーツの数々は、今朝起き立ての俺が見た瞬間には、もう昨日と全く違うものに変わっていた。
「まったく……こんなものまで用意する時間があったなら、もっと必要な事前知識を伝えとけっつうの」
「しかし、聖殿、顔が嬉しそうでござるぞ」
思わず言葉につまる俺。だってだって、スイーツといえば何でも大好きだけど、今朝のはまた格別だ。スイーツの中でも女王と褒め称えられる(主に俺から、だけど)黄金の極薄ハーモニー。重なり合う層が優しく、やわらか、かつ繊細な味わいをかもし出すミルクレープのホールバージョンなのだ。丸いそれを舞台と見立ててあるのだろう。黄色い生地の最上部には、マジパンで作られた愛らしい人形たちが踊っている。赤や青、緑のゼリーで作られた観客席には、同じくマジパンの動物たちが腰掛けている――なんていう素晴らしさ。
「それほどお好きならば、今すぐ食されては?」
「バッ、バカ言うな! こんな芸術を壊せるわけ――」
「む。しかし、兄上――犀殿の仰られたことが誠ならば、明日にはまた新しいものと取り替えられるということではないのだろうか。そうなると、今ここにある物はもう味わえない、という結論に――」
そ、そうか……! それはぬかっていた。というか、実際昨日のマカロンタワーだって食べられないままだったじゃないか。あのバカ兄貴(※暫定)、俺のスイーツ好きをただ見るだけで満足なんだとか勘違いしてんじゃないだろうな。
カフェでの会話を思い出しただけでも、そうじゃないことはわかる。なんだかムシャクシャしてきて、気づいたらナイフでミルクレープの舞台を切り分けていた。
「はい、ミツルも。甘い物嫌いじゃなければ食べてくれよ」
一人じゃどうせ食べきれないし――と差し出した皿を、ミツルは頬をひくひくさせながら見つめている。
「い、いや結構……拙者はあまりこういうものは」
「あれ? 嫌いだった? 甘い物」
「そ、そういうわけではないが――」
「好きならいいじゃん。せっかくだし、ほら」
遠慮でもしているのかと、皿をミツルの前に置いてやる。突っ立ったまま、どうやらものすごく逡巡していたらしいミツルのお腹から、ぐうう、と派手な音が鳴った。
「――そっか。昨日夕食も食べてなかったよな」
それは自分もそうなのだけれど。混乱と疲弊がピーク過ぎて食欲を忘れていたのだ。ミツルも同じだったのかもしれないが、そろそろ体の欲求に応えてやる頃だろう。
「ほらほら、早く食べないと遅刻するぞ? うん! ウマイ! くあ~このクリームとイチゴのコラボレーションがたまんないなー!」
ためらうミツルの様子がおかしくて、大げさに味わうふりをする。(もちろん、本当にうまかったのだが)すると、おずおずと近寄ってきたミツルが、丸いスツールに腰を下ろした。
「ふむ。こ、こういうものを一度食してみるのも経験というものだな。祖父曰く、西洋の菓子は邪道で食えたものではないらしいが――」
「そんなことないよ。そりゃ和菓子だってウマイけど、俺はやっぱり芳醇なクリームやチョコレートの味わいが……」
最後まで言う前に、誘惑に耐えかねたかのごとき素早さで、パクリ、とミツルがミルクレープのかけらを口に含んだ。その後の何とも言えない眉と頬の動きと言ったら――。
「う……!」
片手で口を押さえ、つい出そうになった声を止めたらしい。わずかに頬を染め、また一口。それからもう一口。ただ静かにミルクレープと対峙し、その全てを胃に収めたミツルは、ハッと我に返ったように口元を引きつらせた。
「い、いかん……全部食べるつもりでは! 何たること……甘味と過食だけは、開門師たる者、絶対に避けるべしだと母に教えられてきたのに……あああ」
本人は至って真剣なところが、余計におかしかった。両手で頭を抱えて、完全に動揺の真っ最中といったミツル。笑いを堪えて、一応聞いてみる。
「それって、開門師と何か関係あることなのかな? ただ単に、食いすぎたら太るからほどほどにってことじゃないの? 特に女の子は」
「そ……そうなのだろうか」
下を向いていた瓶底眼鏡が俺に向けられる。あの下に、実はすごく美人さんな素顔があることを思い出し、それだけは夢じゃありませんように――なんて不謹慎なことを考えた。
「うーん、お母さんの意図はわからないけど……普通はそういうこと気にしてセーブするもんらしいし」
「うむ。普通は――ということは聖殿は異なるのか? 甘味好きという性分については、昨日この部屋に入った時点でお聞きしたが、それにしては全然太ってもおられぬし」
太ってるどころか、最低限の筋肉と脂肪だけを備えた俺の体は、どちらかというと細身で小柄――というか、華奢とも表現できるくらいかもしれない。男としてはコンプレックスにもなり得るその原因を話すと、ミツルは見事に口をぽっかり開けて驚いた。
「なんと! 食べても全く太れない体質とな!」
「そんなに大きな声で言わなくても……」
「い、いや……そのような人間が存在するとは知らなかったゆえ、つい」
「そこまで珍しくもないだろ? 痩せてるのに大食いでテレビ出てる人もいるし」
「は、はあ――テレビはニュースか時代劇ぐらいしかあまり見たことがないもので」
そっちのほうがビックリだ。今時そんな女子高生ってアリなのか――って、実際目の前にいるんだから、アリはアリ、なんだよな。ただ、絶滅危惧種ぐらいに珍しいことには違いないだろうけど。引きつりながら、俺は笑い返した。
「う、うん。まあ俺は別に胃下垂とかじゃないらしいけど、オヤジとかオフクロも痩せてる人だったらしいからさ、どっちかの体質だったんじゃないの?」
何気ない俺の返答に、ミツルが呆けていた表情を強張らせた。遠慮がちな上目遣いからして、何かを聞きたいようだった。から――自分で話すことにした。
「俺が生まれてすぐ、両親共に事故で亡くなったんだって。たまたま田舎に預けられてた俺だけが助かったって後で聞いた。ばあちゃんが生きてた時はそこで世話になったけど、亡くなってからはあちこち点々として、最後に今……って一昨日まで済んでた学生寮にいたわけ。伯父さんは海外出張ばっかりでまともにいないし、ってあれ――? なっ、泣いてんの!?」
ふと見たら、ミツルの瓶底眼鏡から、つうう、と涙が流れていたからぎょっとした。淡々と話していたつもりだったけど、同情を誘うような言い方になってしまっただろうか。というより何より――この『拙者』少女が、まさか泣くなんて。
「あ、ああ、すまぬ。昔から涙腺は弱いほうでな……不遇な身の上に関わらず、健気に頑張っている方々などには頭が下がる。聖殿、お若いのにご苦労なさったのだな」
両親が離婚、プラス実のお母さんは亡くなっているらしいミツルも相当にヘビーなんじゃないかと思ったが、口に出すのはやめておいた。
「いや、その……あんまり気にしないようにしてるから」
もちろんそのことで悩まなかったわけじゃない。でも、考えたって仕方のないこと――例えば、自分の境遇――に囚われて、前に進めないのは嫌いなんだ。なんて自論は口に出すのも気恥ずかしかったし、と黙って。それから本当に喋れなくなった。
涙を拭くわずかな間だけ、ミツルが眼鏡を取ったから。そこにはやはり透明感を湛えた印象的な双眸と、控えめなのに芯の強そうな美貌が隠れていた。
や、やっぱりこれだけは夢じゃなくてよかった……!
思わず心の中で快哉を叫ぶ。が、無情にも『ご対面』の時間はすぐに終了した。むんずと引っつかんだ眼鏡を、ミツルが再びかけてしまったからだ。
「うーんと――じゃあ、とりあえず学校行こうか」
「うむ」
俺がそんなことでひそかに喜んでいることなど露知らず、ミツルは額の白い布を確かめるようにすると、学校指定らしいカバンを持った。不思議で奇妙な同居生活、第一日目の朝だった。
通学路の喧騒を歩く俺の背に、「よう」と気楽な声がかけられる。振り向いたら、更科が片手を上げていた。飄々とした印象を与える瞳は、何か面白いことを探すように細められている。
「何だ? 元気ねーな。昨日連絡待ってたのに、詳細報告はどうした? 報告は。あれから、あの牛乳瓶ちゃんとはどうなったんだよ?」
「ぎゅ……せめて、瓶底眼鏡ちゃんと呼んでくれ」
うりうり、と肘で突付かれ、ボケ返しでごまかしたつもりである。しかし、嘘の苦手な俺が、この人間観察が趣味みたいな悪友に勝てるわけがなかった。
「そんなのどっちでもいいっつうの! ってかその顔は……マジで何かあったな? どうした、告白されちゃっただけじゃなく、婚約の契りでも交わしちゃったか? しかし渋い好みだな、おい」
「ち……っ、何言ってんだ、バカ!」
思わず声を荒げた俺を、更科がきょとんとした顔で見る。のと同時に、下駄箱から靴を出したりしている他の生徒たちがちらりと目線を送ってきた。あせるあまり、半分裏声になった声を、咳払いで落ち着かせる。いやいや、何をこんなにあせることがある?
「とっ、とにかく――何でもない。そう、何でもないんだよ!」
「……へーえ」
納得の行ってない顔で、にやにや笑う更科。こいつのことだ、絶対何か感づいてるに違いない。といっても、もちろん例の仕事やら、パートナーやら同居やら……のモロモロに気づくことはないだろう。気づかれては困るのだ。その全てを秘密にすると、ミツルと約束したのだから。円滑で平穏な日常を守るために、俺も同意した。
「ま、じゃあその瓶底ちゃんの話は後回しとして、寮出たんだって? いきなり引越したってアキラが驚いてたぜ」
アキラというのは、俺の同室だったヤツだ。隣のクラスだから今朝はまだ顔を合わせていないが、会ったらちゃんと説明しておかないと――。
変な噂を立てられる前に、と考えておいた言い訳を口に出す。実はあの後、どこかへ消えたと思っていた兄が戻ってきていて、二人で暮らそうと言われたのだ、と。
考えてみればそれが一番自然で、あの豪華マンションから登下校することも疑われないだろうから。
「そっか、よかったじゃん。ほら見ろ、やっぱお前の勘違いだったんじゃねーか」
「え? 何が?」
「何がって、兄貴に変な力を移されたとか、爆発がどうのこうの言ってたじゃん、お前」
――忘れてた。ドサクサに紛れて綺麗さっぱり。
昨日、この更科にだけは本当のことを話してしまっていたのだ。
『カーテノイドのことを一般人に知られたら、混乱が広がる。そうすれば我々の力を逆手に取って、綻びを広げようとしたり、そこまでではなくとも異世界を見ようとしたりする輩が出てくるはず。よって、これは他言無用の話でお頼み申す』
先ほど、最寄駅まで一緒に歩く間に繰り返されたミツルの言葉が蘇る。もちろん、この更科がそんな輩だとは思えないし、そうならないと信じてはいるものの、知られないほうがいいに決まっている。第一、俺がそんな妙な仕事をしなければいけなくなったなんて、恥ずかしくて誰にも言いたくなかった。
「あ、ああーそれね。よく考えたら誰かから借りてた漫画にそんな話があったんだ。そんで、兄貴の家で居眠りした時にそんな夢見たのかも。たぶん、ああ、絶対そう!」
「……ふうーん」
なぜか、笑いをこらえるような顔で俺を見ていた更科は、再来週の中間テストの話をし始めて、俺もそのまま日常生活――平穏で単調なこれが、ずっと続いていればよかったのに――に舞い戻ったのだった。
あんまり普通に授業をこなしていたものだから、俺までもが全部夢だったんじゃないかと思ってしまいたくなった昼休み。制服のポケットに入れていた携帯が突然鳴り出した。バイブにしておくのを忘れていて、けたたましく鳴ったメロディーは『必殺仕事人のテーマ』。設定した覚えのない曲に、最初は自分の携帯じゃないと思ったくらいだった。
あわてて見てみると画面に出た着信の相手はミツルで、今朝彼女自身の手で入力された番号が表示されていた。あの時に着メロまで変更したのだろうか? だとすれば意外にもお茶目な一面があるらしい。しかし、この選曲は勘弁してくれ。
「もっ、もしもし? 何だよ、いきなり――」
『失敬。しかし、綻びが生じるのはいつも急なことゆえ、その点については許されよ』
意外に押しが強い返答。思わず聞いたら、もう食事は終えたと言う。
って俺はまだ食べてないんですけど――?
今から更科と食堂に繰り出そうとしたところだった。今日は火曜日だから、定食大盛りサービスデーで、朝一でチェックしたところのメニューはオムライスで。しかも……。
「デザートにプリンまで付いてるのに!」と脳内のぼやきが口を突いて出てしまうほど、俺はムカムカしていた。ミツルに、というよりはこの無慈悲すぎる『仕事』にだ。言っておくが空腹時の俺は一転して要注意人物に変貌する。なのに、この足でそのまま迎えだなんて。
『む? デザート? ああ、聖殿はまだ食事をされておらんのか。しかもプリンをご所望とは、やはり本物の甘味好きならでは』
わずかに笑みを含んだ感想にツッコミを入れる前に、すぐ続く言葉が発せられる。
『それはともかく、待ち合わせは、例の雑木林で如何だろうか。一番人気もなさそうだし、拙者もすぐ移動できる』
「えっ? い、移動って――?」
重ねて聞いた俺の耳に、ツーツーという空しい音が届く。丁寧な態度と珍妙な口調にごまかされがちだが、ミツルもわりとマイペースな人間のようだった。そうでなければあんな外見と時代劇口調をずっと続けてこられるわけもないか。
「ええい、くそおっ!」
オムライスとプリンの誘惑に耐え、とにかくダッシュで反対方向へ。横で更科が驚くのも、廊下にあふれた学生服の山が抗議の声を上げるのもスルーして、押しのけ、かきわけ、駆けていく。それもこれも、我が未想学園食堂オバチャン軍団が誇る、たっぷりプルルン手作りプリンのためだ。絶対、間に合わせてみせる。昼休みが終わるまで――売り切れる前に帰ってきてやる!
決意に満ちた俺が裏の雑木林に着いた時――ゼーハー肩を上下させながら五分走ってきた勇姿である――既にミツルは到着していた。それも、待ちわびていたらしい。
「遅い! 遅いぞ、聖殿!」
いきなり怒られ、面食らう俺。てっきり褒めてもらえるかと思ったのに……ってあれ? それにしてもなんでミツルは、こんなに早く着いたんだ? 彼女の通うエリート女子高は、確か駅の反対側にあったはず。顔に出たらしい疑念を読み取ってくれたのか、「はっ!」と言う驚愕の声と共に、ミツルがポン、と両手を打つ。
「そうか……空間短縮の方法も、聖殿はご存知なかったか。これはあいすまぬ、拙者の説明不足だった」
「カ――何? また新出単語かよ……」
普通ならば吹きだしそうなミツルの口調にもいいかげん慣れてきて、これまたスルーである。それよりまた登場した知らない言葉に、勘弁してくれよもう、と思いきり肩を落とした。瞬間、すっと伸びてきたミツルの右手が、俺の頭をよしよしと撫でたのだ。
二度目だから前回よりは衝撃レベルが低かったものの、それでもドキッとする。
「なっ、何?」
「む? 何と言うことはないが――拙者が困った時、よく祖父がこうして頭を撫でてくれたのだ。それは言葉よりも心強い慰めと励ましに満ちていた。から……自分もこうして試みてみた、という所存で」
呆然。いや、別におかしくはない――のか? そもそもこの少女の『普通』は他の女の子たちと比べるにはズレすぎている。だから……別に深く考えることはないはずで。
「それ――今まで男にやったことある?」
つい口走った疑問に自分で驚いた。別にミツルが他の男にこんなことをしてるのかしてないのかなんて、俺には関係ないことなのに。あまりにも無自覚すぎるから、気になっただけなんだ。保護者的感覚なんだ、それだけなんだ。そう無理やり結論付けていた俺の横で、ミツルは首を傾け、それから横に振ってみせた。
「いや、女の友人に数回やってみただけだな。して、それが何か?」
「あっ、いや、別に――で? そのカットなんとかって何」
「うむ、空間短縮と書いて、カットダウン。英語で『短縮する』というそのままの意味なのだが、我々パートナー同士が揃わないと扉を開いて移動することもできない。すなわち、離れた場所にいる時、いちいち移動に時間をかけていたら遮断できる綻びも遮断できなくなるという問題点にもつながる。それを阻止するために備わっている能力らしい」
「へーえ……それも、君のお母さん譲り?」
「左様。力を移された時には身についていたから、使い方の手ほどきを受けただけという言い方もできるが」
「はあ……そうなんだ」
んん? ちょっと待てよ。
「あのさ、力を移すのって二十歳の誕生日を過ぎてから二週間以内って決まってるんじゃないの? 兄貴がそう言ってたんだけど。ってことは君のお母さん、二十歳より前に君を産んだことになって――って、ええっ?」
想像するととんでもない結論になるので、わたわたし始めた俺に、ミツルは逆に困惑顔をした。
「二十歳の誕生日……? そんな話は初耳だが。拙者が母から聞いた話では、いつでも準備が整えば移せるはず。現に、五歳の拙者が力を譲り受けた時、母は三十歳だったぞ?」
もはやため息しか出てこなかった。あのエセ兄貴、俺に平然と嘘つきやがったな――?何がぎりぎりまで迷った、だ。いつでもいいならどうしてあんな騙し討ちみたいなマネをして。
「聖殿?」
やっと息を落ち着かせて、さわさわと風に揺れる周囲の木々を見上げた。視線を移した先で、ミツルは困ったように小首を傾げた。
「もし必要ならば……また頭を撫でてさしあげようか」
「いっ、いいよ、大丈夫。もう昨日から驚きすぎていいかげん麻痺しちゃったしさ。それよりその、カットダウンとやらはどうやってやるわけ?」
「ふむ……言葉で説明するのは非常に難しいな。目標地点と移動にかかる大体の距離が掴めていたら、思い浮かべるだけで移動できるはずなのだ。ただ、仕事に必要な時だけしかできない。なぜかはわからぬが、ちゃんとそう設定されているらしい」
顎に手をやりながら思案するミツル。真面目そのものなのに、木々の間から差し込む日差しに瓶底眼鏡が輝いている。思わず笑って――る場合じゃなかった。
「ん? 『らしい』とか伝聞系ばっかりってことは……もしかしてミツルも詳しく知らないの? その本部とやらは一体どういう場所で、どこにあるのかな」
「それは――」
とミツルが言いかけたところで、彼女の手首にはめられたシルバーの時計がピーピー音を立て始めた。女の子が身につけそうにないカッチリとした男物に見えるその時計を、ミツルは深刻な顔で覗いている。
「いっ、いかん! また綻びが広がりかけている……さあ聖殿! ゆっくりしている暇はないでござるよ」
またまた、くるくる渦巻き模様がほっぺについた、どこぞの忍者くん的語尾。状況にまったくもってマッチしていないようにも思えるが、もう正常な判断能力は残っていなかった。だって……また例の訳がわからない力で綻びの遮断とやらをしなければいけないのだ。あまりの理不尽に泣きたくなってきた。ああ、俺のプリン……。
「すまぬ! 質問の答えは仕事の後にということで、扉を開かせていただく。心の準備はよろしいか、聖殿!」
「あ、うん……」
はい、どうぞ、とも言えない葛藤がまだ心の内に入り乱れてはいたが、だからといってどうしようもない。ここまで来て、やらないと言ったってどうせやるはめになるのだ――じゃなきゃ、その空間の秩序とやらが……もにょもにょ。
何だったっけ、と今更なことを若干無気力状態で思い出そうとしていた俺の前で、ミツルは両手をすいと広げた。瞬時に、その腕が作るスペースに生まれる、青緑色の映像。無数の層から成り立つ球体の縮小版。本当に、こんなものがこの地球なのか――?
未だ信じられない思いで見つめる。それでも、生み出された球体は静寂を守り、ただ次なる段階を待っている。そう、俺の移動というステップを。
言葉を失った俺を、いつのまにか眼鏡を外したミツルの瞳が映す。瓶底からは決して見えない力強い意思の光に、瞬間魅了された。
「今日の綻びは北緯四十五度二十分。まもなく時間のカウントダウンが始まる。さあ、聖殿! お早く!」
お早くって言われても――と一瞬途方に暮れる俺を追い越す勢いで、ブワワッとその姿を広げる映像。前回もそうだったけれど、まるで奇妙な波に飲み込まれるような圧迫感が俺を包む。待てよ、時間のカウントダウンってことはもしかして――。
そこまで思ったところで、俺は暗闇に放り出されていた。
カチコチカチコチ……規則正しく時を刻む硬い音。が聞こえた、瞬間のことだった。
ぶわわっといきなり目の前にあふれてきたのは水、水、水。
「うわあああっ! と……何だこれっ? う、海!?」
怒涛の流れが押し寄せてきて、パニックに陥る。けれどいつまで待っても窒息することも流されることもなく、ぎゅっと閉じてしまっていた瞼を開いた。
「何をやっているんじゃ、馬鹿者」
背後であきれたような、しわがれた低音が響いて振り向く。そこにいたのは白髪、白ひげ、銀縁丸眼鏡のおじいさん――じゃなくって、その顔だけがてっぺんにくっついた大きな柱時計。
「とっ、時計じいさん……ってことはやっぱり!」
ここが綻びのポイントなのか! ちゃんと来るには来れたらしい。でも、いきなり暗闇だった前回とは違い、周囲を取り囲むのは見渡すばかりの海だった。
どうなってんだ……これも異世界?
「勝手に命名するんじゃない、新入りのくせに。恐れ多くも時の番人であるわしを――」
「じっ、じいさん! 講釈はいいから、どうなってるのか教えてくれよ! なんで海……そ、それにあのシンプルなフォルムのアレは――?」
『銃なら君の足の下だよ、聖』
答えをくれたのは、頭の中に響いた声で。咄嗟に下を向くと、ちょうど俺の股の間――ごつごつした小岩の映像、の影に隠れて(というか半分透けて)シルバーのグリップがちらっと見えた。
『ちなみにあの闇は君が作り出した幻だ。未知のものへの恐れ、警戒、守護本能――そんなものの全てが、突然の接触を拒んだために、そこにある光景を見えなくしていたんだよ』
――なっ、なんだよそれ……ってか、お前は一体どこにいる? 伯父さんはどうなったんだよ! 俺が訳もわからずこんな役目に放り込まれてどんだけ大変なことになってるか……!
今まで溜めに溜めてきた怒り爆発、のせいで既に『お前』呼ばわりである。が、そんなことに気づく余裕は今の俺にはなかった。子供のようにわめき散らしてやりたい衝動にかられるが、実行に移せなかった。それは寂しげな気配だけを返した犀を思いやったのでも、無言でカチコチ音を刻み続ける時計じいさんに気を遣ったのでもなく――、
「わっ! こっ、こっち来んな! やめろっ! 俺は……甲殻類は苦手なんだよおっ」
叫んだのは、今にも俺の膝によじ登ってきそうなカニに対してだ。皮肉にも声を発した後、反対側の波間に浮かぶ岩の上からも、またカニは近づいてきた。しかも普通のカニではない。黒と青の中間みたいな色はともかく、そのあまりにもでかすぎるサイズと、ちょうど背中部分からにょきっと突き出た背びれのようなものがまた気色悪い。
「ぎえーっ! とっ、飛んだ! 来るなあ、来るなって! しっ、しっ!」
背びれだと思ったもの――濡れて黒光りしている無数の鱗の集合体――はなんとむわっと広げられ、風を切る、羽と変化していたのだ。空飛ぶカニ。複数のそれが一斉に俺めがけて飛んでくる。あの甲殻類特有の姿形。そして蠢く足の一本一本の先までびっしりと生えた短い毛までもリアルすぎて、完全に混乱状態でその場から逃げ出そうとする。
『落ち着け、落ち着くんだ、聖。それは幻覚。現実に触れられるものじゃない。少なくとも、今の時点では……ね』
「何をやっとる、愚か者。さっさと銃を拾わんかい」
頭にこだまする犀の声と、現実に吐き出された時計じいさんの言葉。そのどちらもで我に返り、自分を守るように必死で掲げていた両腕を下ろすと――。
既に羽付きカニの群れは俺を遥かに通り越した、また別の岩場に着地しているところだった。そうか……あの時と同じ。前のヨーロッパみたいな街で、馬車やウサギ耳人間が自分を通り抜けていった感覚を思い出し、それでも背筋に怖気が走る。特に今度の場合は大嫌いなカニだったから余計だ。
「それにしても、これが異世界……?」
信じられない思いで呟く。頼りない声さえすぐにさらっていきそうな波が揺れ、白い泡を沸き立たせるこの海が――?
『異世界というのは、それこそ無数に存在する。カーテノイドの層と同じだよ。さあ、聖。あまりのんびりしている時間はない。早くチューニングを始めるんだ』
あいかわらず俺の都合などまるっと無視して冷静な指示を送ってくる犀。むっとなったが、また新たなカニがぞろりとそばの岩場に這い出てくるのが見えて、あわてて腰をかがめた。拾い上げた銃は前回と同じく、ずっしりと重い。両手で持たないと落としてしまいそうなくらいだ。それでもとりあえず右手でグリップ部分を持ち、左手でなんとか支えた。って、この後どうやるんだったっけ――?
「しかし、万能ナイフとはさすがに笑えたのう」
言葉どおり笑いを帯びたじいさんの声。振り向くと、そのままにやついた顔でふぉっふぉと笑い出した。怒りと羞恥で、自分の頬が赤くなるのがわかる。
「うっ、うるさい! なんか知らないけど勝手に出てきたんだからしょうがないだろ? 大体何をどうやるのかもわかんないのに、俺が知るかよっ!」
「ふ、ははは……それにしたって、万能ナイフじゃぞ、万能! ご丁寧にワインのオープナーまで付いとった。あんな変化形、わしゃ初めて見たわい」
さもおかしそうに、その体に人間の手足が付いていたらお腹を抱えてでもいそうな勢いで言われた俺の立場といったら。このクソ重い銃もどきなんて投げ捨ててしまいたくなるくらいにムカついた。
『まあまあ。普通は銃としてのフォルムをどこかに保った、応用型とでもいえる形になることが多いんだけどね。形なんてどうでもいいんだよ。きちんと綻びを遮断さえできれば』
犀はフォローしたつもりなのだろうが、俺的にはまたカチンと来る内容でしかない。この野郎、自分が勝手に力を移しておいて、何の説明もなしによくぬけぬけと――!
「こんの……いいかげん姿を見せやがれっ! 犀! お前はいっぺんぶん殴るっ!」
『おやおや、お兄ちゃんがお前、更には呼び捨てにまで降格かい? 兄は悲しいよ、聖』
「うるさいっ!」
『たった一人の弟の頼みなら、何でも聞いてあげたいのはやまやまなんだけど、残念ながら僕はこうして声を送ることしかできないんだ。でも――声だけでも君を補佐し、危機を警告してあげることくらいならできる。現に、今、後ろを見てごらん。聖』
俺の噛み付くような抗議はさっぱり流して、穏やかそのものの口調で犀は言った。
嫌な予感はした。けれど……まさか、ここまでとは!
「ひーっ! カニ軍団!!」
仰け反りながら、俺は叫んだ。時間にしてほんの数十秒かそこら。時計じいさんと犀に文句を言っている間に奴らは増殖していた。さっきまでせいぜい十メートル付近に見えていた海が、いまや視界をぐるりと包囲しているのだ。
波間に時折姿を現した岩場ぐらいしか陸地らしきものはなかったのに、水平線の向こうにぼんやりと人影が――いや、カニ影が。よもや数百にはなろうかというその光景を認識した途端、ぞわぞわぞわっと体中に鳥肌が立った。
「気色悪っ! なんなんだよこの世界はっ!」
『どうやらここは、進化したカニが支配する世界らしいね。あの羽みたいなものが、水中では背びれとして使われるみたいだ。要するに、水陸両方を彼らが勝ち取ったという――』
「そんな説明はいいっ! っていうか、犀! お前やっぱりどこかで見てるんだろ? ならなんとかして助けてくれよ!」
そうだ、見えているからこそ警告や助言ができるというもの。それならば、と一縷の望みを込めて訴えた。しかし俺の必死の懇願を一秒で退けたのは、
「ならん。いくら前任の経験があろうとも、今この綻びに派遣されたのは新入り、おぬしじゃ。よって、遮断できるのもおぬし一人。それに力の使い方というものは他人にどれほど教えられたところで理解できはせん。己の感覚で掴み取らねばならんのじゃ」
冷たく言ってのける時計じいさん。しかし、鳴り続ける振り子の音がどこかユーモラスで、真面目な顔と全く似合わなかった。
『そういうわけだ、聖。一度できたんだから、二度目だって不可能なはずはない。そうだろう? 急がなければどんどん綻びは広がるよ。あまり時間をかければ、君だけでなく扉を支えている開門師にも負担がかかる』
「開門師……」
その一言で奇妙な言葉遣いをする俺のパートナー、となってしまった少女を思い出した。今頃、あの雑木林で俺の帰りを待っているのだろうか。無事に役目を済ませて、遮断したら――彼女はまた頭を撫でてくれるのだろうか……?
そんな妄想をしている場合じゃないと、自分の周りを見渡す。通り抜けても海だから、ちゃぷちゃぷと腰の辺りまで占める水とその質感は、幻とは思えないぐらいリアルだった。再び俺に向かって飛んでくるカニのバケモノと同じくらい――!
「わかったよ! やればいいんだろ? やればっ!」
もうこうなればヤケクソだ。火事場の馬鹿力だ。忘れちゃいけないプリンのためだ。
俺は絶対に、こんな空間から抜け出して……濃厚、かつ、まろやかな黄色い城を味わってみせるんだ――!
俄然燃え出した俺の両手が――正確に言えば銃に触れている部分全体が――熱くなった。銃身とグリップの輪郭が揺らぎ、触手が伸びて俺の腕にからみついてくる。またも万能ナイフの面影に見え始めた時、犀が言った。
『イメージだよ、聖。頭の中で思い描くんだ。君が理想とする武器。今この瞬間に一番役立つと感じるモノ。君だけのツールを……!』
イメージ。思い描いて、作り出す。変化させる。俺が思う、俺だけの武器。
閃いた時、手の中の熱が一気に体全体を包み込んだ気がした。閃光に目がくらむ。続いて高く硬い音の連続。何かを組み立て、生み出していく印だ。
「でっ、出た……!」
おそるおそる開いた目に映ったのは、大きくて太い銛だった。色だけはあのシルバーを彷彿とするいぶし銀だが、今度も全く銃とはかけ離れた代物。またやってしまった――なんて思っている場合ではない。
「わっ、カニがこっち向いた!」
どうやら空中で静止することも可能らしい奴らが、俺の鼻先一メートル、いや既に六十センチくらいのところで浮遊している。パタパタと忙しく羽ばたく動作が、とぼけた顔となんとも不釣合いで、余計に気持ち悪い。
「って実際に俺を見てるわけじゃないんだよな……あんまりリアルすぎて」
『いいや、もしかしたら見えているかもしれないよ?』
「ええっ!?」
犀のひやかすような言葉に、時計じいさんまで頷く。「そうじゃなあ、綻びが双方に与える影響は未知数。わしらに見えるように、もしかすると相手にだっていつかは――」なんてもっともらしく語り始める。
「やめてくれよっ、そんな……」
言い返す間もなく、カニが目つきを変えた。真ん丸いとぼけた印象のそれが、どこか尖ったものに転じていく。それだけではない。一匹、また一匹と水中から浮かび上がったカニたちが、いつのまにか俺を取り囲み始めたのだ。
『侵入してくる異世界がどんなものかは、そのポイントに行ってみなければわからない。それはそのまま、相手の知能や文化の発達具合にも言えること――つまり、聖。君は今、彼らに敵と認識されたのかもしれないねえ』
のほほんと、縁側で茶でもすすって交わす会話みたいなトーンで犀が続けた。
冗談じゃない。こんなカニおばけに襲われるなんて絶対にごめんだ。鳥肌はもう全身にくまなく出ている。大嫌いな甲殻類に四方を囲まれた俺のパニック値は、とっくに限界ゲージを超えていた。
もちろん完全に実体があるわけじゃないから、触れることはない。俺の存在をもしかして察知していたとしても、向こうだって空振り状態だろう。現に、俺に向かって飛び込んでくるカニは全部、すいすい通り抜けていくのだから。
――って、それが耐えられないんだよっ!
最強に怖気が走って、無茶苦茶に超特大銛(魚なんかを突き刺して捕まえるあれだ)を振り回した。
「ぬあーっ! 消えろ消えろ消えろーっ! カニ野郎! 勝手に侵入してくんじゃねえっ! お前らなんかが入り込む余地も隙間も一ミリ、いや、一ミクロンだってないように遮断してやる! シャットアウトだ、立ち入り禁止だーっ!」
遮断、遮断、遮断! 頭の中でシャッターを占めるイメージとでも言おうか。とにかく意識から拒絶し、切り離し、遠ざける。それが俺のできる想像の全てだった。
途端に体の奥から何かものすごい力が漲ってきて、銛を握った右手を通し、外へ放出される。目を開けると、銛の先から流星のような光がまっすぐに伸びていくところだった。いくつもの光の筋に分割されたそれが、輝く釘となって空の彼方にビイン、と留まる。どうやったかもわからないうちに、四方均等に突き刺さった光の釘が、一斉に下へ向かって降りていく。いや、空気の壁――空間そのものをクローズさせていくのだ。
「これが、遮断……!」
なのか、と口の中で呟いたのを最後に、俺は意識を手放していた。精神力と体力共にマックスで使い果たし、強烈な眠気に襲われたのだ。遠ざかる意識の奥で、「また面白いモノを生み出しよって。意外に使える新入りかもしれんのう」とかなんとか、時計じいさんが笑う声と、満足げに同意する犀の言葉を聞いた、ような気がした――。
ぴたぴたと頬に冷たいものが触れる。冷たいといっても不快なのではなくて、気持ちがいい温度と質感。やわらかくて優しいそれに、まだ触れられていたいような、もったいないような気になりながら、それでもなんとか両目を開いた。
まず見えたのは丸く分厚いガラスが二つ。しばし待ってから、やっとそれが誰かの顔の一部であることを見とめる。風に揺れる黒いポニーテール、とセーラー服。
「ああ、よかった。気が付かれたか、聖殿」
この口調。そうか……ちゃんと帰ってこれたんだ。なぜか、すごくほっとした。
「長く眠っておられたから心配した。どこか痛むところでもおありか」
「ミツル……ううん、なんとか無事。ちょっと疲れただけで」
ちょっとどころか、相当疲れきって、このまま眠りこけたいくらいである。それでも一応女の子の前で、醜態は見せられない。頑張って体を起こすと、そこがやわらかい草地の上で、どうやらミツルがそばで見守っていてくれたらしいことがわかった。
ほっとした顔で起き上がったミツルに、事の次第を報告しようと思った。その瞬間、
「えらい間抜けな遮断師もあったもんやなあ、万能ナイフの次は銛やて。笑わせてもろたわ」
突然、乱入してきたのは見知らぬ声と耳慣れぬ関西弁。ハッと振り向くと、そこには学生服――といっても俺と同じ紺ではなく、真っ白の――を着た高校生風の男。と、彼の胸元ほどまでしか頭のてっぺんが届いていない、小学生くらいの女の子が立っていた。ちなみに彼女も同じ白で、おそらくは女子用らしいブレザーの制服を身につけている。
「あきまへんえ? 勝汰はん。初対面のお方にそないなこと……」
耳の下で二つに結わえた髪をそっとはらって、女の子が嗜めるように言う。その声が外見とは到底似合わない大人っぽい口調だったことで、思わず唖然。俺の視線に目ざとく気づいたらしい男――ショウタとか呼ばれていたヤツだ――が突然ガバッと少女をかばうようにする。というか俺から隠すように自分の背後へやった。
ツンツンと立てた金髪と、色黒の肌。それから眉間の皺と鋭い目つき。真っ白の制服さえ着ていなければ、どこかのコンビ二の前でたむろしていそうな雰囲気の男。なのに、
「あかんあかんっ! 宵は喋ったらあかんて! お前はその可愛すぎる声で喋るだけで全ての男を魅了してまうんやから! ほら見てみ、あいつもお前のこといやらしい目で見とるがな!」
「い、いや……別にそういうつもりじゃ」
何だこいつら。まさしくそんな困惑が見えたのか、男のほうが咳払いをした。それから、おもむろに片手を俺に差し出してくる。
「まあ、礼儀を欠いとったんは認める。あんまりおもろかったんで、つい、な。仕切り直しや! 俺は城間勝汰。勝利で、淘汰する、いう意味や。おんなじ遮断師として、あんたの仕事ぶりちょいと偵察に来させてもろた。よろしゅう頼むわ!」
数秒待っても、あんぐり口を開けた俺が握手に応じなかったのに焦れたのか、ぐいっと無理やり手を握り、ぶんぶん振り回すように握手してくる。
ちょっと待て……同じ、遮断師だって?
怒涛のような関西弁に圧倒されていたせいで、聞き逃しかけた単語を拾った。
「おい、あんた……!」
「そんでまあ、こっちは俺の相棒で開門師の光堂宵。言うとくけど宵は俺の、俺だけの許婚やからな! 絶対絶対手出すなよ?」
宵という少女の紹介よりも、後半が言いたかったらしい。ますますあわてた勢いで両腕を伸ばして、宵を俺から見えなくしているつもりのようだ。それに対して宵のほうは、「勝汰はん、前が見えへんわあ」なんておっとりした京都弁で呟いている。
なんだかものすごく強烈な二人組に、「はあ」とあきれ返った一言しかリプライできなかった俺は、当然の疑問を思いつく。
「えーと……それでどうやって、いや、どうしてこんなとこに。じゃないか、なんで俺のことを知って……?」
まだまとまらない質問を、それでも形にしかけた俺の隣。今まで黙っていたミツルが、ずいと歩み出た。彼女の横顔には、俺と同じ驚愕の色が――見えない?
「貴殿方が有名な城間と光堂の一族……なるほど、母より聞いてはいましたが、お会いできて光栄の至り。拙者、こちらの神宮寺 聖殿のパートナーとして、開門師の任に当たっております、沢音――」
「ああ、言われんでも知っとる。沢音ミツルはんやろ? あんたんとこの家系もよう、開門師を輩出してるらしいしなあ」
ミツルの丁重な自己紹介を遮って、勝汰は笑った。得意げな、なぜか俺をちらちら見ながらの勝ち誇ったような笑みだ。むっとしたついでにしゃがみこみ、勝汰の股の間から遠慮気味に覗きこんでいた宵と目を合わせてやった。混乱を通り越して、怒った俺は強気なのだ。
「へええ。じゃあ、君とミツルは同じ仕事をしてるってわけだ。はじめまして、宵ちゃん」
いつもなら、見知らぬ女の子にはしない親しげな微笑付き。まあ、女の子としても小学生だ。子供相手に緊張することもなかった。って、あれ――? そういえば、さっき確か『許婚』とかなんとか。
「アホウッ! おのれ、言うにことかいて宵『ちゃん』やとお? こんな見た目やけどこいつは紛れもなく俺の許婚。二つ年上の十八や! ただ、ちょーっと発育が遅い特異体質やーいうだけで、完璧なレディやねんぞ! レディいうたら淑女や、乙女やっ!」
よっぽど腹が立ったのか、顔を真っ赤に――といっても色黒だからわかりにくいのだが――して怒鳴る勝汰。最後はいまいち意味のわからない主張だけど、まあそれはおいといて。それにしても、この子が十八歳? 身長なんて百五十センチにも満たない、いや、百三十センチくらいしかないような子が?
単なる発育不良で済ますにはかなりの疑問が残るものの、もうなんでもいいや、と流すことにした。次から次へと起こる突飛な事態から身を守るための、自己防衛本能みたいなものだ。
「わかった……わかったから、俺が悪かった。それより」
「わかればええんや。っちゅうか、アンタ、思たより素直やな! そういう話のわかる奴は嫌いやない。うん、まあ、同じ遮断師仲間や。仲良うやろうやないか!」
またも、がっしりと手を握られる。つくづく、熱い男だ。今までにお知り合いになったことのないタイプすぎて、聞きかけた問いが喉につまるところだった。
「あれ? そういえば、関西弁に京都弁って。二人揃って引越しでも――?」
それでも気を取り直して訊ねると、勝汰が鼻で笑う。
「何言うとんねん。俺は生まれも育ちも大阪のサラブレッドや。宵かて京都の有名なお嬢様やで? なんで俺らがわざわざこんなきどりくさった東京なんかに引っ越してこなあかんのや」
「え、でも」
「聖殿、おそらく彼らも例の力を使ったのではないかと。ほら、拙者がこの雑木林に来る時に使用した、あの」
戸惑う俺の腕をそっと引いて、ミツルが囁く。例のって、空間短縮――。
「そう、カットダウンや。知らんねんやったら教えといてやるけど、あれは別に距離は関係ないねんで」
「じゃあ、わざわざ……?」
そういえば、最初のほうに『偵察』とかなんとか。キョトンとした俺に、勝汰が満面の笑みを見せる。
「あんたと俺、どっちが優れた遮断師か――勝負や! 神宮寺 聖!」
叫んだ勝汰の後ろから、ほんのり笑んだ宵の顔がぴょこんと飛び出した。