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Act.1

本編はこちらからです。


「ミルクレープ――そう、つまり君が今まさに食しているそれ、みたいなものだね」

 銀色のフォークで慎重に一部を切り取り、口に運ぼうとしていた俺への一言である。いきなりの例えに動揺したつもりはないが、目線を上げ、言葉を発した問題の相手――俺の兄だという男、神宮寺じんぐうじ さいを視界に捉えたことで油断が生じた。美しい層のハーモニーである芸術作品の一部が、口に入る前にぽとりと皿に落ちてしまった。

「えっと……犀、さん、だったよね? そのミルクレープがどうってのは一体、何の話なんでしょう。っていうかそもそも俺、あなたの存在自体がまず理解できてないっていうかなんていうか」

 口にしかけた反論は、にっこり微笑む犀によって止められる。俺が遠慮したのではない。言葉どおり、封じられたのだ。ちょん、と人差し指を唇に当てられる、という仕草で――。絶句。こういう、お茶目かつ親密さを感じさせるスキンシップは、異性との間に交わされるべきではないのだろうか。いや、十六年の長いんだか短いんだかわからない人生経験では未知の分野だから、何とも分析しかねるが。

「ダメだよ、ひじりくん。そんな他人行儀な呼び方。お兄ちゃんって呼んでくれってさっき言ったじゃないか」

 ハハハ、とあくまで爽やかな笑い声と共に言われても――俺は困惑するばかりである。何せこの男と出会ったのは今が初めてなのだ。いきなり兄だなんだと自己紹介されたって、はいそうですか、などと納得できるはずもない。けれど、俺の唯一の血縁である伯父、敬一朗に昨夜電話で明かされた話によると、紛れもない真実だということになる。そして残念なことに、俺はあの、いつも穏やかで優しい伯父を尊敬、かつ、信用しているのだ。だからこそ今、電話で指定されたこの場所へとやってきている。

 五月の中旬、過ごしやすい気候なことは幸いだろう。それに指定場所がここ、実はずっと前から目を付けていたオープンカフェのテラス席だったこともまあよしとする。日曜の吉祥寺、なんていう学生や若いカップルの巣窟な土地柄も百歩譲って認めた。全てはこの目の前で燦然と輝くミルクレープにありつくためだ。だが――俺の大事な大事な宝石ちゃんに向かっての発言だけは、聞き流すことができなかった。

「えっと――じゃあ、『お兄ちゃん』。で、そのミルクレープに似てるって、何のことですか?」

 事の次第によっては、いくら温和な俺でも容赦しないぞ。棒読みな言外に秘められた物騒な気迫を知ってか知らずか、犀は余裕を失わない。薄茶色の瞳と髪。白い肌に細身で長身の体つき。優男、といえばそれまでだが、どうけなしてみてもイケメンの類に入ることは間違いない男。現に、彼氏と一緒にケーキセットを突付く女の子もちらちらとこちら――もちろん犀のほうをだ――を気にしているのがわかる。そんな視線にも動じない犀は、麻のジャケットを持ち上げ、さっさと着込んだ。

「そうだね。じゃあ本題は実地学習ということで。行こうか、聖くん」

「えっ、ちょっと待っ……」

 まだミルクレープ食べてないし。そう抗議しようとして、さすがに気恥ずかしくなった俺に、犀がいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「あ、そうか。君の大好きなスイーツ、の中でも大好物だったっけ? いいよ、食べ終わるまで待っててあげるよ」

 くすくすと楽しげに笑いながら、さも今気づいたばかりのように言う。この表面上だけは優しげで美しい顔立ちの『お兄ちゃん』が、思いのほか意地の悪い性格をしているらしいことを悟ったのは、この瞬間だっただろう。顔を赤らめ、それでも拒否できない黄金の誘惑に手を伸ばした俺は、重なり合う層の最後の最後までを堪能したのだった。


 ほどなくして犀に連れて行かれた先――意外にも山奥の別荘でもなく、謎のお屋敷でもなく、都会のマンションの前で、俺はあんぐりと口を開けていた。今現在住んでいる学生寮の、六畳の部屋にも十分満足していた庶民な自分が申し訳なくなるくらい、そう、超高級マンションといっても差し支えない外観。緑あふれるアプローチ――赤レンガを敷き詰めたそこを通ると、優雅な噴水が待ち受け、白い謎の彫刻が立ち並んでいる。そこを通り過ぎ、アーチ型の門をくぐると、高層マンションがどどん、とそびえているのだ。三十五階建てなのだという。さらりと言ってのける犀に口元をひくひくさせながら、付き従う俺。もはやミルクレープの甘い後味は消えてしまった。

 ――やっぱ俺、騙されてるんじゃないよな?

 一抹の不安。でも、それはそのまま俺の大好きな伯父さんを疑うことになってしまうわけで、それだけは嫌だった。

思い出すのは、悪意と言えるほどのものもない、幼稚で単純ないじめ。親なし子、と呼ばれてはからかわれ、ランドセルを蹴られたりもした。遠縁とも呼べないような家庭を点々として、それでも施設に入らずに済んだのは伯父さんのおかげだった。彼が熱心に頼み込み、海外出張が多く面倒を見ることができない代わりに、と資金面の援助をしてくれていたからだとこっそり交わされていた会話を聞いてしまって知ったことだ。

ゆがんだ偽善や同情、哀れみ。あるいは明らかな『お荷物』に迷惑した顔――そんなものの一切ない、対等な相手を前にする時の瞳を向けてくれる。それが何度か直接会った時の印象で、いつも電話で話す際のイメージでもある。

寮のある高校に合格して、やっと余計な気を使わずに一人で過ごせる、そうもらした俺に『寂しければいつでも電話しておいで』と笑ってくれた。そんな彼がこういうことで嘘を付くなんて、考えられない。と何度も繰り返した一応の結論に落ち着いた俺は、聞こえてきた声に顔を上げた。

「ここだよ、聖くん」

 言ったのは犀でも、その重厚なドアを開けてくれたのはホテルマン――じゃなく、常駐の警備員だった。揃いの制服を着た彼らが一体何人いるのかわからないけれど、手馴れた仕草でさっさと仕事を済ませた警備員に、笑みだけで労いを伝えた犀が部屋に促す。ドアが閉じられてしまうと、もう逃げ出すことができないような閉塞感に襲われかけ――浮かびかけた暗い表情を一転させた俺は、心の内から湧き出す感動と喜びのままに、部屋の中央にある素晴らしいオブジェに駆け寄った。

「うわあっ、これ……スゲー! マカロンのタワーだっ! うおー、チョコレートフォンデュの噴水、ケーキの城っ! ゼリーの池にホワイトチョコの白鳥まで――スゲースゲー! 何なんすかっ、これ!」

 興奮状態で一気にまくしたててから、数秒遅れで赤面するも、時既に遅し。どうにも言い逃れしようのない恥ずかしさで黙り込んだ俺の頭を、まるで五歳の子供でも撫でるかのように犀がポンポンと軽く叩いた。

「見ての通り、スイーツ大好きな我が弟への贈り物。ザ・スイーツスペシャル、とでも言えるコーナーかな? あ、もちろん全部食べられるよ? 君がお望みなら、毎日違う作品を提供させよう」

「えっ、ま、毎日!?」

「そうだとも。何といったって大事な役目を引き継いでくれる、たった一人の弟だからね。毎日を暮らす住居にプラスワンの喜びを加えることくらい、兄として当然の役割だよ」

「そっかあ、毎日……って、ええっ!?」

 今、毎日を暮らす住居だとかなんとか。いやいや、その前に役目がどうしたって――?

 両目を見開いて、それでも芳しいスイーツの香りを吸い込むことだけはやめずに振り返る。上質な黒い皮のソファに腰かけ、長い足を組んでみせた犀は、優雅に微笑んだ後言ったのだ。

「ここからが本題だよ、聖くん。君には大切な――この世界で君にしかできない役目を受け継ぐ義務、かつ責任がある。それはこの僕が幼い頃に引き継いで、守り通してきたものであり、これから僕の手を離れ、君に渡される力なんだ。これは僕ら神宮寺の一族のさだめみたいなものだから、君も理解して、覚悟を決めてほしい」

「えっ、ちょっ……待って下さい、犀さん! あの――俺には何のことだかさっぱり」

 伯父には一族のことで犀から話があるのだ、としか聞いていない。だからてっきり両親の隠し財産だかが見つかって財産分与だとか、そういう話の類だと思っていた。それならきっぱり断るだけだ、と思って素直に出てきたのに。

「いいや、待てない。本音を言えば待ってあげたいけど、できないんだ。既に力は僕の手を離れ始めている。早く受け継がないと、世界の均衡が崩れてしまうからね。だから聞いてくれ、聖くん」

「せ、世界の均衡? 何の話――ってか、いいかげんにしてくださいよ。そんなわけのわからない冗談……」

「聞くんだ、聖!」

 それまでの穏やかな声音からは想像もできない、怒声。いや、そこに怒りの色はなく、ただ凛とした欲求があるだけ。聞く者の心を掴み、跪かせる力に満ちた『命令』だった。

 思わず言葉を止め、見上げてしまった俺に微笑み、犀は続けた。

「ごめんね、声を荒げてしまって……でも本当に時間がないんだ。何せ、二十歳の誕生日を過ぎて二週間以内、と力を移す期間が厳密に決まっているものでね。ぎりぎりまで僕が迷っていたせいで、君に心の準備をさせてあげられる時間がなくなってしまった。申し訳ないと思っているよ」

「は、はあ……」

 何が何だかわからない。でも――目の前の『兄』が、相当切羽詰っているらしいことだけはわかった。それより何より、たった一人の兄弟であるこの人が、二十歳になったばかりだということも知らなかった。アメリカの大学に通っているというから、勝手に卒業間近なのかと思っていた。それほどに、大人びた雰囲気があったのだ。

 部屋の真ん中にそびえるマカロンタワー。その周りを彩る愛らしいスイーツの庭。俺にとってパラダイスかとも思えるデコレーションの数々が、深刻な空気と思いきりミスマッチしている。白一色の壁紙と、埃一つなく磨き上げられた大理石の床。ただ一つある家具――先ほどのソファから立ち上がった犀が、俺に向かって両腕を開いてみせた。唇の端を引き上げ、痛々しいほどに透明感をかもし出す笑みで、彼は言った。

「この世界のもう一つの姿――カーテノイドにおける番人、遮断師インシュレーターの任を君に引き継ぐ。綻びを速やかに見つけ、遮断し、世界の均衡を守るように」

「……カーテ、ノイド……? 遮断?」

 眉を寄せ、呟き返すことしかできなかった。言葉尻が終わる前に、犀が一気に距離を詰め、ぐいと俺の額に何かを押し付けた。やわらかいような、硬いような、何とも言えない感触の物体、いや、温かい液体にも似たモノが、俺の体に侵入した錯覚に陥りそうになる。

刹那、ものすごい閃光と空気圧――爆風といってもいいほどの風と勢いに吹っ飛ばされた。二十畳はあるだろう部屋の一番隅にまで転がり、背中をしこたま打ちつけた後、呻きながら起き上がった。訳もわからないままとにかく抗議しようとした相手――犀は、もう部屋のどこにもいなかった。


 可哀相な俺に事の経緯が明らかにされたのは、それからきっちり二十四時間後のことだった。月曜日、午後三時十五分。理想的なティーブレイクの時間――じゃなく、六時間目をちょうど終えた俺は、クラスメイトで悪友の更科さらしなまことに大笑いされていた。

「ぷはは、なーんだそれ! 聖、お前夢でも見たんじゃねーの? それって何、白昼夢とかいうやつ? それかお前お得意の甘いモンでも食いすぎて、幻覚見てたとか」

「うっ、うるせー! 誰が幻覚なんか見るか! 全部本当の話だって。一昨日の夜、伯父さんが写真とプロフィール付きでデータ送ってきて、そいつが俺の兄さんなんだっていきなり――」

「それはわかったけど、そっから先が夢なんじゃね? そのスイーツなんちゃらのせいで興奮しすぎてぶっ倒れたとか。現に、起きたら部屋には何も異常なかったんだろ? それだけの爆風とかあったんなら、何か影響あるはずだし」

「そっ、それは……だから、犀が何か細工して、だな」

「何のだよ? 大体スイーツ好きってこと以外は普通の男子高校生のお前に、変な力とやらを与えてどうしようっての。それこそ漫画か小説にしかねえ展開だろ? 俺最強、TUEEEってか? お前ってそういうのも好きだったわけ?」

「ちっ、違うっ! 勝手に俺を中二病患者にすんな! 俺の高校生活にそんな非現実的要素は必要ないっ! 干渉もない気楽な寮生活で憧れの彼女持ちになって、大好きなスイーツをその子と一緒に食べたりするっていう素敵で平和な夢さえ叶えば言うことは――」

「お、素敵で平和な夢への第一歩、かもしんねえぜ? 聖」

 俺の熱弁をクールな笑みで遮って、更科が一言。あ? ととぼけた反応しか出てこなかった俺の肩を叩き、教室の後ろにある扉を指差す。

「客だとよ、お前に」

「えっ? お、俺に?」

 振り向いた時には既にわらわらとギャラリーに転じたクラスメイト――ちなみに全員むさ苦しい男ばかり――の黒い山ができていた。迎えだ迎えだ、男子高に女の客だ、と揃いも揃って大騒ぎしながら、俺の名をリレー方式で呼んでいる。

「よかったじゃん、夢が叶いそうで。誰だか知らねえけど、あとで詳細報告しろよな」

 ポン、と肩を叩いて更科が言う。ついでに残された更科らしい言葉に、俺は曖昧に頷いて走っていった。内心、ドキワクである。だって、この俺に女の客が――? 

しかし、近づいていくにつれ、ギャラリーの声に「でも何だあの子?」「今時……なあ?」「なんかやばそう」なんて言葉が混ざり出していることに気づく。膨らんでいた好奇心に多少、グレーゾーンが生まれ始めた時。黒山の人だかりを押しのけ、扉の隙間から覗いた俺を待っていたのは、セーラー服の少女だった。

少女、だよな――確かに。そうは思うのだが、いかんせん外見が想像とはかなり違った。まず、長い黒髪のポニーテール、はよしとして、額に巻かれている白い布(中央には不可思議な渦巻きの、紋様らしきものが刺繍されている)が良くない。それから牛乳瓶の底みたいな丸眼鏡。分厚すぎて瞳の様子もわかりにくい。今時ってこれか――!

「ふむ。そなたが神宮寺 聖殿か」

 みんなにひやかされながら廊下に出て、知らない女の子とご対面してすぐのお言葉である。しかも何やら妙に時代がかった口調。もしかして、ヤバイ系の人……? 痛む頭を押さえながら俺は答えた。

「え、っと――確かに俺は神宮寺 聖だけど。そちら様は……?」

「おっと、これは失礼した。拙者、沢音さわねミツルと申す」

『拙者』……? ますますヤバイ! 頬をひくひくさせつつ、一応答える。

「じゃあ、えっと……ミツル、ちゃん」

「ちゃん、というのは性に合わぬのでやめていただけないだろうか。呼び捨てで結構」

「は、はあ……」

 まっすぐな黒髪のポニーテール。艶やかな光沢を放つそれが垂れ落ちる肩も体つきも華奢で、細い腰から太腿を紺色のスカートが覆っている。フレアーの揺れるそこから覗くのも、形のいい脚。スタイルは申し分ないのに……勿体ない。これは勿体なさすぎる。

セーラー服を着た女子高生とお近づきになるなんて光栄なチャンスにも、不思議なほどに高揚感は沸かなかった。それどころか、できれば早くお引取り願いたい。ついでにニヤニヤと覗き見ている連中のせいで、落ち着かなかった。足をもそもそし始めた俺の様子に気づかないのか、ミツルというミステリー少女は俺を廊下の端へと誘う。これ以上何が起こるのかと不安になりつつも、見られない場所へ移動するのは有難かった。

「して、神宮寺殿」

「あ、えっと……そんなかしこまった呼び方しなくても」

「では、聖殿」

 そういう意味では、と思ったが黙っておいた。話を早く終わらせて帰っていただくためだ。しかし侍か、はたまたどこかの偉い行者さまか、というぐらいの妙な威厳と堂々とした態度で、ミツルは続けた。

「早速だが、拙者に同行していただきたい」

「ど、同行?」

 もしや、世間一般で言う告白とか、デートのお誘いなんてものだったら……どうしよう。明らかに嬉しい動揺ではない。が、クールな顔(といっても眼鏡とニコリともしない口元のせいで表情不明)にはそれらしい匂いは一切感じられなかった。どころか、

「今回の綻びは北緯百三十度二十分に発生した。これは拙者にとっても一応の初仕事ゆえ、できればゆっくり対処したい。開門師ジェネレーターとしての修行と心構えは積んできたつもりだが、まずは遮断師インシュレーターのそなたに先導していただければと」

「え、えーっと……ちょっと待って。話がよく見えないっていうか、そのジェネレーターとか何とかって一体」

 口ではこう聞きながらも、嫌な予感はどんどん膨らんでいく。だって後半の単語には聞き覚えがあったから。一番意味不明で謎だった最新の記憶――。意外な問いかけだったのだろうか。瓶底眼鏡越しにも、驚いたように俺を見つめている(らしい)ことがわかった。数秒経過した後、彼女のほうから口を開いた。

「もしかしてとは思うが……まだ本部から連絡が行っておらぬのだろうか」

「何のかはわからないけど、たぶん」頷くと、ミツルはなぜか姿勢を正した。

「これは重ねて失敬。拙者、このたびそなたのパートナーとして本部より選定された、開門師でござる」

ご、『ござる』って忍者ハ○トリ君――!? ってそこにつっこんでる場合じゃなく。

「パ、パートナー?」こくり、とミツルが首を縦に振る。

「左様。すなわち、聖殿と拙者は今日から二人三脚。聖殿は世界の綻びを遮断する遮断師インシュレーターとして、拙者はそれを補助し、扉を作り出す開門師ジェネレーターとして。この世界、別名、カーテノイドの番人である限り――」

 やっぱり、と本気で頭を抱えてしまった。また例の謎再来だ。できればこういう形でなく明かしてもらいたかった真相だが、ようやく説明を要求できる相手に出会えたらしい。あれきり忽然と姿を消してしまった犀と、伯父。わけがわからないまま寮に戻り、二人ともと連絡すら取れず、悶々と過ごした二十四時間を返してもらう瞬間だ。口内に沸いた生唾を飲み込んで、俺は訊ねた。

「その、ちょうどいい機会だから聞くけど、カーテノイドやら何やらって、一体何の話? 昨日犀――一応、俺の兄さんもそれらしいことを言ってたんだけど、ミルクレープがどうとかいうのと、何か関係ある? 似てるとか言ってたけど、もしかしてゲームか何か?」

「ミルクレープ……」

 静かに繰り返した後、ミツルはいきなり背を向けた。その肩が震えている。泣いているのではない。笑っているらしい。普通からは外れまくっているように見えた彼女も、それが何を指すのか知っているようで安心した。は、いいが――いいかげん蚊帳の外な状況にうんざりしてくる。妙な相手に対する戸惑いも、どこかへ行き始めていた。

「そうだよ。ミルクレープが何なんだよ。もうわけわかんなすぎてイライラする。頼むから教えてくれよ」

「す、すまぬ。あまりにも似合う表現だったのでつい……拙者としたことが。あ、そうだったな。どうやら聖殿は本当に何も聞いておられぬらしい。それならば、この場で説明するよりも、実際に見ていただいたほうがいいと思うのだがどうであろう。ふむ、あそこなどは如何だろうか」

 ミツルが指差したのは、窓の外に見える雑木林。登下校の折に横目で見るだけの寂れた、何の変哲もない木々の塊。なんだかわからないが、この苛立ちを早く解消できるならそれに越したことはない。

 ぴっちり伸ばした背中で先導するミツルを数歩離れて追いかけながら、俺は昨日食べたミルクレープの味を思い出していた。極薄のクレープ地が重ね出す繊細な触感。間にはさまったイチゴと生クリームの風味。あのデリケートさがたまらない。日本発祥の、俺たち日本人が誇るべき芸術品。それが何とどう似てるって――?

 しかし、たどり着いた先で俺が目にしたものは、そんなデザートとしてのモノにとてもじゃないが似ても似つかない物体だった。と、その前に……これは何としたことか!

林に着くなりおもむろに瓶底眼鏡を外したミツル。その下から現れた素顔は――ってこんなベタな、ベタすぎる展開があっていいのか!? あんぐり口を開けて見つめてしまうほど、ミツルは変貌していた。凛と涼やかな目元と、通った鼻筋、控えめだがちょうどいい厚さと色を兼ね備えた唇、それにシャープな輪郭を持つ立派な美人さんに。見惚れる間もなく始まった出来事に、別の意味で声を上げてしまった。

「なっ……何、これ!」

 枯れかけたクスノキの幹を背に、ミツルが広げた両腕の中、それはある。動作としては犀が昨日消えてしまう直前にしてみせたものに似ていた。

「ス、スクリーン……?」

 ブウウン、というごくわずかな振動音がして、画像がゆらぐ。ゆらいで初めてそれ――ミツルの体半分までの丈に広がった半透明の球体である――が映像だったのだとわかった。どこかにプロジェクターでもあるのかと思い周囲を見渡すが、それらしい機材など何もない。青と緑の中間、とでも表現するのが適当であろう色彩。その向こうに透けて見えるミツルは、楽しげに首を振った。

「これが先ほど申し上げた扉――カーテノイドの層ごとにある便宜上の入り口、とでも呼ぶべきもの。いわば実際のカーテノイドの超縮小版、というところだろうか」

「縮小……ってこれ、まるで……地球?」

 映像の正体もわからないまま、そっと近づいてみる。触れるか触れないかぐらいの距離で覗き込んだ俺の目の前で、球体は一気にその形――いや、外見を著しく変えた。

 さっきまで薄い色で覆われていただけのそれが、細かい編み目を施されたものに。正確に言えば横方向に伸びた線が、細かい細かい層のように――。

「ミル、クレープ……?」

 フランス語で、千枚のクレープ、という意味を持つお菓子の名前。まさに犀が言った言葉どおりの光景だった。これをホール状のケーキとして、三角形の見慣れた形に切り分けてしまえば、の話だが。

「我々の住む星、地球。それは見えているこの姿とは別の実体を持っている。それこそが聖殿の兄上がお菓子に例えられた、幾つもの層から成る世界、カーテノイドでござる」

 両腕を広げた格好を維持したまま、ミツルは微笑む。残念なことに例の口調は健在だが、青緑色の薄膜越しに見える彼女の姿は、まるで水槽の中で優美に漂う人魚のようだった。生憎、すらりとした二本の足を持っていることは証明済みであるにしても。

「カーテノイド……」何度か聞いた言葉を復唱する俺。ミツルは理知的な微笑を見せた。

「ヒューマノイド、という言葉をご存知だろうか? あれは英語でヒューマンにOIDを付けた単語。『人間のようなもの』という意味。カーテノイドはそのものずばり、『カーテンのようなもの』という、我々が作った我々のための呼び名」

「我々……?」

「左様。拙者や聖殿のように、果たすべき役割を持つ者たちの間だけでの話」

 横に連なる無数の線。その間には何も見えない。けれどもまるで見えているかのような真剣な眼差しでミツルは言った。

「重なり合う小さな世界、層の集合体。それがこの地球。無論、他の惑星とてそうであるかもしれぬ。だが今のところ生命体が確認されているのはここしかない。よって他はこの際除外するとして――このカーテノイドは、常にきっちりとカーテンが遮断された状態であるとは限らない。無数にある別々の空間をつなぐには、ある程度の余裕も必要なのだそうだ」

 ちょうど、カーテンで言うドレープのごとく――とミツルが例えるのと同時に、またブウウン、と微妙な振動音が鳴った。「いかん、集中、集中」なんて至極真面目な目線を球体に戻して、ミツルが続ける。

「恥ずかしながら、まだ拙者も若輩。訓練はしてきたが、実際の仕事は初めてなのだ。聖殿を飛ばす前に扉が閉じては意味がない。手短に今伝えるべきことだけを言わせていただく」

「え?」

「先ほど申したように、聖殿の役目はカーテンの隙間――世界と世界の狭間に生じた綻び――断層を埋め、遮断すること。それが世界の均衡を守ることにつながる。拙者が扉を支えている間に、迅速に仕事を済ませていただければと思う。頼み申した――遮断師インシュレーター聖殿!」

 まだ理解の到底追いつかない呼び名を口にして、ミツルは一気に両手を広げた。今まであったわずかな腕の余裕も完全に引き伸ばし、体全体を使うようにして気合の声を上げる。その瞬間――ぼんやりとした映像のように浮いていた球体が、突然パアン、とはじけた。いや、こちらに向かって飛び込んでくるように見えた。それこそ3Dの世界――どころか、バーチャルリアリティとでも呼ぶべきか。

「うわあっ……何だ、何だ? 何なんだよっ、これ!」

 完全なる混乱。今まで生きてきてこれほどパニックに陥ったことはなかった。それも仕方がないだろう。だって、俺の体ごと飲み込んだ球体が、ひたすらに膨張を続け――そのまま拡散して消えたのである。周囲の空気に溶け込むように、無数の層も何もない、全くの暗闇に変わってしまったのだから。

「聖殿! そこがカーテノイド北緯百三十度二十分。今、遮断すべき滅びのポイントでござる。さあ、手にした銃で早く撃たれよ!」

「ミ……ミツル? 君ミツルだよね? どこにいるんだよ?」

 何も見えない闇の中で、降り注いでくる声。それだけを頼りに顔を上げたら、かすかに笑うような気配が伝わってきた。

「拙者はいつもここにいる。扉を支えているゆえ――心配ご無用。しかし、聖殿の役目を代行することはできない。自分でやるしかそこから抜け出す方法はござらん。綻びを発見され次第、遮断の命を心で下されよ! そして撃って――」

 途中までで、声は掻き消えてしまった。どうやら言葉さえも伝わらない場所に来てしまったらしい。それとも落ちたのだろうか。それよりも、ここは一体どこなんだ――?

 遮断だとか、綻びだとか、まったくもって意味がわからない。スイーツをこよなく愛すること以外は普通――悪友更科の言う通り、他に取り得も特徴もないこの俺が、何だってこんな不可思議な状況に追い込まれなくてはいけないんだ。あの手の中に見えていた映像は、扉は、どういう種類のものなんだ? 混乱に次ぐ混乱。とにかくわからないなりに、ただ暗闇でじっとしているのも怖くなる。そういえば、『撃て』とか何とか言っていたっけ――耳に残る単語を思い出し、立ち上がろうとした俺の手に、何か硬い物体が触れた。

「ひえっ」

 予想外に存在した何か、に驚かないのも無理という話で。我ながら情けない悲鳴をあげ、それでも手に掴んだものは。

「重……な、何だこれ……銃?」

 そういえば、確かにミツルもそんなことを言っていたような。

 握った瞬間に上空から差し込んできた淡い光。スポットライトのようなそれに照らされて、やっと全貌が見えた物体。それはゴツゴツとした、映画やアニメでよく見る形のいわゆる自動拳銃オートマチックピストルではない。だからといって回転式リボルバーだという訳でもなく――両手に余る大きさから、ライフルのようだ。といっても、銃にしては当然あるべき弾倉も引き金も付いていない。でも、こういう武器系統にさほど詳しくない俺から見ても銃にしか見えない。という代物だ。

 いぶし銀、といった感じのシルバーに、シンプルそのもののフォルム。持ち手と筒だけで、どこをどうやれば撃てるのかもわからなかった。にしても、重い。重すぎる。

「それはそなたの腕に直接チューニングするのじゃよ」

 いきなり響いた見知らぬ声に、俺は飛び上がるほど驚いた。取り落としそうになった銃をあわてて両手で持って、振り向いたところにまたスポットライト。じっとりと半分開いた丸い目で俺を見ていたのは、コチコチと振り子を揺らした縦長の――、

「とっ、時計!?」

「――いかにも。わしは綻びを見守る時計じゃ。新顔、お前新しい遮断師じゃな?」

「とっ、時計が喋ってる……!」

 ひいい、と俺があわてふためくのも無理はないだろう。なんとも懐かしいこげ茶色の柱時計。その一番上に乗っかっているのは、人面なのだから。近所に一人はいそうな、何の変哲もない普通のおじいさんの顔だけが一番上にくっついているのだ。

 時計と名乗った顔は、髪と同じく真っ白な眉を寄せ、銀縁のメガネ越しの小さな瞳を凝らしてみせた。

「何じゃ、それぐらいのことで驚きおって。今度の遮断師はなんとも腰抜けじゃのう」

「こっ、腰抜け――?」

 失礼な、と繰り返してはみるものの、お互い闇の中に光るスポットライトの下だけでの会話だ。しかも人ではなく、時計――。意味がわからなさすぎて泣けてくる。もしかして俺、本当に白昼夢でも見ているんだろうか。段々自信がなくなってきた。

「夢ではない。紛れもない現実じゃよ。しかも、刻一刻と移り変わる、良くないほうの現実じゃ」

「おっ、お前……人の考えてることがわかるのか!」

「お前とは何じゃけしからん。時計と呼びなさい、時計と。遮断師ごときに小馬鹿にされるほど老いぼれてはおらんわ」

 憤慨したように顔を赤らめる時計じいさん。俺の質問には答えていないような気はするが――いいかげん頭の痛くなってきたこの事態に、少しでもヒントをくれる存在に出会えたことだけは嬉しかった。

「で、そ、その――時計。いや、時計さん。ここは一体どこな……んでしょうか? それに、この銃みたいなものは」

「何じゃ、お前そんなことも知らんのか」

「はっ、はあ……」

 俺のほうこそ時計のバケモノに『お前』呼ばわりされる筋合いはない、なんて言いたい気持ちもある。けれど、唯一この場を何とかしてくれそうな相手を怒らせるのは得策じゃないこともわかっていた。

「お前さんをここに放り込んだ開門師に聞かなかったか? 綻びを埋める、層の裂け目を遮断する役割を」

「だから――それとこれとがどうつながって……!」

 いいかげんイライラしてきて、声を荒げかけた。説明してくれたようで肝心なところが抜けているミツルにも、突然現れていきなり消えたインチキ兄貴の犀にも、連絡のとれない伯父にも――どこにもぶつけられない腹立ちがこもった俺の疑問。

 応えてくれたのは目の前の時計じいさんでも、他の誰かでもなく――握り締めていた銃のほうだった。

「うわあっ! な、何だっ?」

 突如熱くなった銃を放り出し、火傷しそうになった掌を見やった。その直後、である。

 ビイイン、と振動か共鳴か、何かわからない音が鳴る。それを合図に、下ろした俺の手の内側へ。まるで自分から飛び込んでくるかのように納まったのだ。

 シルバーのグリップが、カチリと音を立てる。手で握っている、というよりも、くっついている、というほうがしっくり来るぐらいに吸い付いていた。頭の中に、まだ記憶に新しい声がこだまし始める。

『聖――本当にごめんね』

 ――さっ、犀さん!?

頭の中だけで叫んだのに、どこにも見えない犀が頷いた気配さえ感じた。

――一体どうなってるんだよ! どこに……!

『こんな邪道とも言えるやり方で力を引き継がざるを得なかった僕を、許してほしい』

 昨日見た穏やかで少し寂しげな微笑までが、脳裏に蘇るようだった。次から次に訪れる摩訶不思議な事象のオンパレードに、頭は半分麻痺していた。だからか、直接脳裏に響く声にも、俺は怒りを爆発させた。

 ――許して、じゃないよ! 何がどうなってるのか説明しろって言ってるんだ!

『そうだよね。簡単に許してもらえるようなことじゃないと思ってる。だから――僕はこうして君の頭に存在を残すことにした。ここから遮断師として必要な技巧も全て伝達していくつもりだ。説明する時間がもう残されていなかったから……』

「はあっ!? 頭に存在? 何言って、どういう――」

 思わず声を出してしまった。そんな俺に苦笑する気配――といってもどこにも見えない存在からのそれは、奇妙すぎて気持ちは悪いし恐ろしい。

『ほら、もう見えてきた。あれが綻びだよ』

 どうもこうもなく、聞こえてきた声。その指し示す先は、開いた俺の視界いっぱいに映った。真っ暗闇とスポットライト状態しかなかった空間に、突如光があふれた。きらきらと、ゆらめくような日差しは太陽光線そのもの。闇に慣れかけていた目を射抜かれたみたいで、俺はしばらく呻いた。まだ自由の利く左手で、必死に視界を遮ろうとする。

 が、そんな自分の意思とは無関係な動きが体の奥から沸き起こった。まるで脳が何かに則られ、その命に従った体が暴走し始めたようだった。主に、銃が吸い付いていた右手。重たさしか感じなかったその腕がゆっくりと持ち上がり、グリップを握り締め、勝手な力を込めていく。

『そう、聖。チューニングするんだ。それは君の唯一の武器。綻びを封じ、遮断し、カーテノイドの秩序を取り戻す要。思い浮かべるだけでいい。君にとって使いやすい形を――』

 あいもかわらずどこから囁かれているのかわからない犀の言葉。でも、助言であることには違いない。意味も理解できぬまま、とにかくこの猛烈なカオスから抜け出すための行動を取る。それこそが、自分の首を絞めることになるのも知らずに――。

 ――想像、想像、創造。遮断、封印、使いやすい……万能の武器!

 思い浮かんだ途端、効果は発揮された。何かの部品が組み合わさる時のような、高く硬質な音の連続。すぐ後に見開いた目に映ったのは、シルバーの光沢そのものだけを残留させた――超巨大万能ナイフだったのだ。

「な……なんじゃこりゃあっ!」

 大昔の映画だかドラマだかで名台詞として殿堂入りしたらしい言葉、だったような気がする。そんな空しい豆知識なんか思い出しながら、俺は自分の右腕を見つめた。ハサミやら缶切やらワインのボトルオープナーまでくっついた、ガチャガチャうるさいその『武器』は、柄の部分から伸びた細長い触手のような物体で、完全に右腕と同化してしまっていた。

「よくやったじゃないか、新入り。それにしてもなんだ……変わった形じゃのう」

 ハッと我に返った俺の後ろでそう言ったのは、先ほどの時計じいさん。長い口ひげを揺らしながら、ほっほと笑ってさえいるではないか。

「あ、あれっ……っつうか犀は? 綻びだか何だか言うやつは――?」

 取り乱していた俺の耳に、ボーンボーンと柱時計(つまりじいさんの内部からだ)が時を告げる。時って――何のだ?

「ほれ、時間じゃよ。今すぐ遮断せんと、また綻びが広がる。ああ、ほうらまた破けた……」

 独り言のように、歌うように。あくまでも軽い口調で言う時計じいさん。の周りにはどこか別の国の風景らしきものが広がっている。尖塔のある白亜の建造物。古びた、ツタのからまる家々。葡萄畑と刈り入れの農夫たち。それから、石畳の上をカポカポ通り過ぎていく質素な馬車――。

 どこかヨーロッパの片田舎、みたいな印象の景色は、今目の前にあるみたいにクリアで、鮮やかに繰り広げられる生活のワンシーンだ。全ての人の耳が、ウサギのように長くさえなければ――。でも触れることはできない。触れられるはずはない。だってその全てが自分を――そして時計じいさんを全く見ることもせず、ある者は通り過ぎ、またある者は……。

「う、うわああああっ! ……って、アレ?」

 スピードを上げた馬車がいきなり突っ込んできた。かと思ったのも束の間、馬車はそのまま俺の体を通過した。何も存在しないかのように、すうっと通り抜けていったのだ。

 ――何なんだ……ゆ、幽霊?

 今まで見たことのないモノが、しかも街全体みたいな規模で現れたのかと思ってしまう。答えをくれたのは、犀の笑い声だった。

『これが綻びだよ、聖。空間の狭間に開いたそこに、他の世界が入り込んでしまう。綻びが小さければ大した影響もないものが、膨らんでいくにつれ、空間そのものを支配しようとする。自然な力の流れなんだけれどね』

「そっ、そんな講釈はいい! とにかくこれ、どうすりゃいいんだよっ? このガチャガチャうるさいだけの武器とやらも、何とかしてくれよ!」

『残念だけど、それは無理だ』

「なんで!」

『今の僕には何の力もない。ただ君にこうしてヒントを与えるだけ。それを生み出したのも、自分に使いやすいよう、より良くチューニングを繰り返していくのも、君の作業。これからの君の使命だ』

「そっ、そんなの勝手に決めないでくれよ……あーっ、くそ!」

 話を続ける間にも、どんどん周囲の光景は規模を大きく、その支配を広げていくばかり。最初はぐるり円状に取り囲んだ、せいぜい二、三十メートルの範囲にあった街の一部らしき風景が、今は視界全体を埋め尽くしてしまっているではないか。がやがやと話し声のようなものまで聞こえ始め、どうやら広場らしき場所の真ん中に立っている俺の体を、あちらこちらから『幽霊』たちが通り抜けていく。気色悪いことこの上ない状態である。

「わかったよ……何かわかんねえけどやればいいんだろ? やれば!」

 もはや逆ギレ気分だ。でもそうやって気分を奮い立たせないと、あまりに付いていけない状況に、気絶してしまいそうだった。

『その意気だよ、聖。一度やってみれば何ということはない。君の大好きなミルクレープだ。見事な層のハーモニー。あれがあってこその世界なんだ。秩序を守るためには、綻びを修正しなくてはならない。さあ、やるんだ……聖!』

 あの爆風を受ける寸前に聞いた、強い犀の声音。命令にも似た言葉なのに、なぜだか反発は感じなかった。導いてくれているのだと、本能的に察したからかもしれない。

 とにかく、俺は言われるままに前を見据えた。乱入してきているという、不思議な別世界の光景。その内で暮らす住人たち。家々、家畜、実のなる木々――そんなものの全てを見つめながら、必死に念じた。

 ――ミルクレープ、ミルクレープ、ミルクレープ! 

「俺は……帰ってミルクレープを食うんだあっ!!」

 無我夢中で叫んだ。と同時に持ち上がった右腕。それが無意識なのか脳の反乱によるものなのか――わからないなりに考えた。今、この状況に必要な動きならば、導かれるままに従おう、と。右手と一体化した万能ナイフ――その中から、一番大きくて長い刃を持つナイフが現れる。シルバーの光が太陽光に反射する。きらめく、見覚えのある円形の恒星は、自分の知る太陽なのだろうか。一瞬そんなことが脳裏によぎって。

 滅茶苦茶にナイフを、正確に言うとそれがくっついた右腕を動かした。ぐるぐるその場で回転しながら、「わああああ」と奇声を上げての攻撃。いや、攻撃と呼ぶべきなのか、守備と呼ぶべきなのか――と同時にナイフの刃、というよりも万能ナイフ全体から発されたものすごい光が、まっすぐに正体不明の光景を照らしていく。刹那、ガシン、ガシン、とどでかい釘のようなものが発射され、飛んでいき、その釘によって頭上から目に見えぬカーテンが引き下ろされるように何かが降りてきたのがわかった。その目に見えないすさまじい壁が広がっていた光景を押し隠し、かき消し、封じていく。驚くべき情景を分析することも叶わないふらふらの頭で、最後に聞いたのは満足げな犀のかすかな吐息と、時計じいさんの「またな、新入り」という言葉だった。

 あれほどあふれ返っていたどこのものかもわからない日常風景の全てが消滅し、また元の暗闇が戻ってくる。そうして気の抜けた俺は、吸い込まれるように意識を失ったのだった。


 さわさわさわ。さわさわさわ。

 優しく静かな音が、木々の葉ずれから生まれるものだとわかったのは、瞼を開いて数秒後のことだった。木漏れ日がちらちらと俺の顔に降り注ぎ、遥か上空から吹いてくる穏やかな風が、頬を撫でていく。

 ――林……? 一体こんなとこで俺は。

 何をやっているんだろう、と思う間もなく、分厚すぎる瓶底眼鏡が視界に飛び込んだ。

「うわっ」

「聖殿、お気を確かに。拙者はそなたのパートナー、沢音ミツルでござるぞ」

 変わらぬ口調で語りかけてくる少女、ミツルの記憶を瞬時に反芻。瞬き数回の時間で完了したフラッシュバックをもう一度頭に叩き込んでから、俺はゆっくり起き上がった。

「ミツル……うん、思い出した」

「それは結構。無事のご帰還、喜ばしい限り。これでめでたく、我らの第一陣、成功でござるな」

 実は、扉を支えるのに疲弊した。やはり本番は訓練とは違うのだな――なんて付け加えつつ、口元を緩める。瓶底眼鏡でわかりにくいが、どうやら微笑んでいるらしい。あいかわらず謎な少女の元――というか現実に戻ってきて、どっと安心した。

「おお! 聖殿! しっかりなされよ! 力を始めて使われたせいか。顔色がよろしくないぞ?」

「あの、あのさ――ミツル」

「何でござろう?」

「頼むから……最初からもう一回全部、隅から隅まできっちりと」

「む?」

「……説明してくれえっ!」

 絶叫。に近い俺の本音は鼓膜をしばし麻痺させる効果はあったみたいで。肩を縮めたミツルが、ぱちくりと瞳を瞬かせるのが分厚いガラス越しに見えた、気がした――。

 カーテノイドに遮断師、開門師、それから世界に生じる綻びとやら。そんな既出の――といっても、今までの俺にとって十分新出ではあるが――単語の数々。正直それは何度聞いても理解不能だ。理解できない、というのではなく、理解はしても信じられない、というほうが適切な表現だろうか。

 俺の住んでるこの地球が、宇宙でたった一つ(少なくとも今は)の命あふれる惑星が――愛するミルクレープに例えられるような、摩訶不思議な層の重なりから成り立つものらしいこと。カーテンに例え、『カーテノイド』という別名がどうやら存在し、それはこの役目に当たる俺やミツルのような人間にしか知らされていない事実らしいこと。はたまた、綻びができた層部分には、なぜか別世界の空間が入り込んできてしまうらしいこと。最後のは犀から与えられた情報でもあったわけだけれど、とにかく同じことをミツルも言った。

「別世界というより……異世界と申したほうがわかりやすいだろうか?」

 ゆっくり話をするために、と駅前のファーストフード店に入った俺とミツルは、窓際のカウンター席に陣取っていた。向かい合うよりなんとなく話しやすいかと思ったから、という単純な選択だったのだが、はっきりしたミツルの声と独特に過ぎる口調、ついでに例の外見はかなり目立って、周りでくすくす笑う声なんかが聞こえるから余計落ち着かなかった。とはいえ、他に高校生たる身分の俺たちが話をする場所も思いつかない。

「異世界……ってよく漫画とか小説とかで出てくる、アレ?」

「うむ。拙者は詳しくないのだが、友人にその手の類が好きなのがおってな。普通の少年少女が突然異世界に飛ばされて、云々といった話のようだ」

「云々、ねえ……」

 あまりそういった非現実な類のモノは読まない俺の、顔をしかめた発言。瓶底眼鏡を持ち上げて、ミツルが重ねて言う。

「そういう意味では人間の想像力というのも、あながち間違いではないのだな。現にこの次元とは別の空間、別の宇宙、というのか――に違う世界は存在している。しかも複数。ただそれは我々側の観点であって、彼らからすればこちらこそが『異世界』なわけだが」

「ふうん。まあ、言ってることはわかる、かな」

「荒唐無稽に思えるであろうことは理解する。拙者とて、何も知らぬ身であったならば疑ってかかるだろう。しかし見られたであろう? 先ほど現実に」

 示唆された記憶は、既に思い出したくない出来事トップテン入りを果たしていたのだが、仕方なく俺は頷く。馬車や人が自分をすり抜けていく、あの何とも言えない気色の悪い感覚を思い出すと身震いまでした。

「完全に理解されるのには、時間が必要になろう。幸い、そのための時間ならばたっぷりとある。何せ、拙者と聖殿は今日から共に暮らすのだからな」

 たっぷり一分くらいは口を開けて固まっていたかもしれない。それぐらいに聞き取れない、いや、聞き取れはしたけれど外国語のような響きだった。

「共に――なんだって?」

「聞こえなかっただろうか? 共に暮らす、と申したのだが」

「――へっ? なんで? ってかどこで? ハイッ?」

「答えその一、拙者と聖殿がパートナーであるから。答えその二、本部が用意した部屋で。答えその三は――質問が理解できぬので、申し訳ないが返答不能。他に、ご質問は」

 優雅にも見える仕草でシェイクを飲み干すと、カタン、と軽い音を立てて椅子から立ち上がる。目の前に並んでみて再度、自分とミツルがそう変わらない背丈をしていることに気づいて苦い気分になった。っていうか――何だって?

「い、いやいやいや……質問っていうか質問だらけだって普通! あーっもう、普通じゃなさすぎ! 一千万歩くらい譲って例のカーテノイドが云々って話を信じるとしても、なんでパートナーだとかいう理由で俺と君が一緒に暮らすなんて話になるんだよ? ってか君は何なんだ! 俺はなんでこんなに全然知らなくて、君はあれこれ詳しいわけ? まったくもって意味がわからない!」

 ついにぶち切れた。といっても暴力的な意味でじゃなく、思考を放棄するという形でなのだけれど。猫毛の髪をぐしゃぐしゃ掻き乱して、混乱のままに叫んだ俺とは対照的なほど、ミツルは落ち着いていた。少なくとも、切れ始めた俺とそのままファーストフード店にいる、という選択はしなかった。

「ふむ」ととぼけた一言の後に、いきなり手を伸ばして頭を撫でられ、あまりのことに言葉を失った。情けないかもしれないけど、女の子にそんなことをされたのは初めてで、不覚にも胸がドキンと高く跳ねてしまったのだ。俯いてしまったところを促され、店を出る。雑踏を歩き始めてから、再びミツルが口を開いた。

「では、答えその四として。パートナーは一度決まった以上よほどのことがない限り、任期を終えるまで一定。つまり、拙者と聖殿は一蓮托生。二人の相性のよさが仕事にも影響することになる。そういうわけで本部の掟として、パートナー同士は公私共に居所を同じくするべしと定められているそうだ。答えその五、拙者が何者かというのは最初に申した通り、開門師の沢音ミツル。聖殿の神宮寺家と一緒で、よく役目に当たる家柄としては有名らしいが……拙者が聖殿より情報に精通しているのはそのせいだけではない。前任者であった母に、幼少時からあれこれ叩き込まれたからだ。聖殿の兄上は、そうなされなかったようだが。これが、答えその六。気が済まれたかな?」

「幼少時って、いつぐらいから……?」

「五つくらいだろうか。それから母と共に三年、その後は一人で修行を続けた。といってもまだまだ未熟者ではあるが」

 照れたように、それでも淡々と返される言葉。なんとなく勢いをなくした俺を、ミツルの瓶底眼鏡が捉えた。

「聖殿が何も知らなかったことには同情を覚える。が、だからといって役目を頭ごなしに否定したり、逃れるようなことをするのは感心せぬ。拙者がパートナーであることも、本部に決められたとはいえ、気に入らぬのなら詫びよう。しかし――自分の責任と役目にだけは、真摯に向き合っていただきたい」

 それがこの少女の姿勢なのだろう。そう思わされる真剣さに、何と答えていいのかわからなかった。代わりに、別の質問を繰り出す。

「そ、その……話はわかった。到底信じられないような内容だけど、君が嘘をついているようにも思えないし。現実にあれこれこの目で見たわけだし、ね……でも」

 さすがに、うやむやに流されていい問題ではない。妙な口調にこの外見、しかも尋常じゃない能力を持っているとはいっても――ミツルは正真正銘、年頃の少女なのだ。

「あの、えっと――その話、君のご両親は? 賛成してるの?」

「ふむ。母は三年前に亡くなったが、父なら了承済みだ。もとよりあちらは既に別の家庭を持っているし、今更拙者が引越したところで変わりはないだろうし」

 さらっと答えられ、戸惑う俺。こういう場合、もっとつっこんで訊ねたほうがいいのか、そうじゃないのか。一瞬の迷いは、新たな問いに変換することにした。これこそ、一番重要な確認事項だと気づいたから。

「それでいいの?」

「――む?」

「だから……君は、それでいいのかってこと。俺なんかと一緒に暮らすとか、パートナーとして仕事をするとかって――」

予想外だったのか、口を少し開けて固まっていたミツルが、咳払いをして頷いた。

「……無論。それが拙者の役目で責任だと思っているし、共にやっていく上で、聖殿となら不都合はなさそうだ」

「それはなんでまた……?」

「拙者のことを奇異な目で見たりしなかったし、話をきちんと聞いてくれるお方だとお見受けした。若輩者ではあるが、よろしくお付き合いのほどを――」

「ちょっ、待っ……ストップストップ! いきなり寮を出て女の子と同居だなんて、学校には何て言えばいいか」

 あまりにまっすぐ、わずかな尊敬の念さえ込めるように見上げられ、一瞬首を縦に振るところだった。危ない危ない。現実的に考えて無理だと丁重にお断りを――。

「ああ、それなら心配ご無用。本部が適切な処理をしているはずだ。よって、今日から聖殿にも、他に住む場所はないということ」

「住む場所はない……? え? 俺にも、ってことは」

「左様。拙者にもなくなった。今まで世話になっていた下宿に戻ることはできぬし、そのつもりもござらん。では、そういうことで。いざ参らん! 聖殿!」

「い、いざ参ら――ええーっ!?」

 嘘だろ、と頭を抱えた俺に、ミツルは気をつけをして深々と一礼。それから、すんなりと白い手を差し出した。これからもずっと変わらないだろうと思っていた俺の生活が、確かに方向転換した瞬間だった。               

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