古井戸
家の隅に、ひとつの古井戸がある。
今ではもう使われてはいない。裏手に新しい井戸が掘られてからというもの、水を汲む者もなく、石積みは苔に覆われ、昼なお暗い穴だけが口を開けている。
幼い頃、父は酒に酔うたび、その井戸の話をした。
「お前には兄がおった」
そう言って盃を傾ける。
その兄は、まだ歩くことを覚えたばかりの頃、あの井戸へ吸い込まれるように落ち、そのまま帰らなかったのだという。
「だから近づくな」
父はそれだけ言うと、二度と話を続けようとはしなかった。
幼心にも、父は何かを隠しているように思われた。
以来、私はあの井戸へ近づくことを避けて育った。
もっとも、近づかずとも目には入る。
縁には蔦が絡み、風もないのに井戸の底だけが黒く揺れているように見えることがあった。
盆になると、僧が家へやって来る。
仏壇へ読経を捧げ、先祖を供養する。それはどこの家にもある年中行事に過ぎぬ。
だが、不思議なことに、その読経が終わると、僧は必ず庭へ降り、ひとり古井戸の前へ立つのである。
覗き込むでもなく、何かを探すでもなく、ただじっと口を閉ざして井戸を見つめる。
やがて深く一礼し、何事もなかったように帰って行く。
ある年、私は僧に尋ねた。
「あの井戸に、何かあるのですか」
僧はしばらく黙っていた。
やがて静かに言った。
「昔、この土地では、井戸は時折、人を欲しがると申しました」
冗談とも、本気ともつかぬ声音であった。
さらに聞けば、飲み込まれたのは兄ひとりではないという。
遠い昔には奉公人が消え、またある年には女中も姿を失った。
誰も落ちるところを見てはいない。
けれども、皆、最後にあの井戸の傍へいたことだけは覚えていた。
世の噂というものは、尾鰭がつく。
一人が二人となり、二人が十人となることも珍しくはない。
それゆえ、私は半ば信じ、半ば笑っていた。
しかし、その話を聞いて以来、井戸の黒は、ただの闇には思えなくなった。
底の見えぬ暗さではない。
何かが、こちらを窺っている暗さである。
近頃では庭を歩く折にも、なるべくその方角を見ぬようにしている。
見れば、向こうもこちらを見るような気がするからである。
もっとも、それも私の思い過ごしであろう。
思い過ごしであれば、よいのである。
ただ、今年の盆に僧が井戸の前で手を合わせた折、一言だけ、風に紛れて耳へ届いた。
「……今年も、増えておりませぬように」
その年の盆であった。
僧がいつものように読経を終え、井戸の前へ立ったあと、私は好奇心に負けた。
人が皆、母屋へ戻った隙を見計らい、ひとり井戸へ近づいたのである。
縁へ手を掛け、そっと中を覗く。
底は暗く、水面など見えぬ。
その時であった。
ぽちゃん――。
静かな水音が、井戸の底より響いた。
雨も降ってはおらぬ。
石ひとつ落ちた様子もない。
私は息を潜めた。
すると、その黒一色であった闇の中へ、ふたつ。
血走った目だけが、ゆっくりと浮かび上がった。
こちらを見ている。
瞬きひとつせず、じっと。
その視線に縫い止められたようになり、私は声も出せなかった。
その刹那である。
頬を、何か冷たいものが、すう、と撫でた。
風ではない。
息でもない。
湿った、人の指にも似た感触であった。
私は思わず飛び退き、そのまま尻餅をついた。
立ち上がることも忘れ、這うように庭を横切り、一目散に母のもとへ駆け寄った。
「井戸の中に、何かおります」
息も絶え絶えにそう申すと、母は少しも驚かなかった。
「そうですか」
ただ、それだけ言った。
そして小さく頷くと、
「そろそろ、欲しがっておいでなのですね」
そう呟いて台所へ向かった。
戸棚より餡を取り出し、手早く団子をこしらえる。
出来上がると、それを紙に包み、私へ持たせた。
「これを井戸へ放っておいで。」
「そして、丁寧にお詫びなさい。」
私は震える足で再び庭へ戻った。
井戸へ近づくたび、あの血走った目が思い出される。
それでも言われるまま団子を井戸へ放ると、闇の底から、ぽちゃん、と静かな音が返ってきた。
私は深く頭を下げた。
「先ほどは失礼いたしました。」
「どうか、お許しください。」
しばらく何も起こらなかった。
安堵して顔を上げかけた、その時である。
井戸の底から、老人とも女ともつかぬ、しゃがれた声が、はっきりと聞こえた。
「……また、一年後。」
私は再び尻餅をついた。
振り返ることもできぬまま立ち上がり、一目散に家へ逃げ帰った。
それ以来、盆になると、母は必ず団子をこしらえる。
僧が経を読み終えれば、それを井戸へ供える。
父は何も言わない。
母も何も語らない。
ただ、誰一人として、あの井戸を埋めようとはしないのである。




