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金曜深夜二十五時。酒臭い姉が会社の憧れの美人先輩を連れて俺の部屋に転がり込んできた

作者: 155
掲載日:2026/05/29

 週末だというのに誰からの誘いもなく、まっすぐ家に帰れた。おかげで、久しぶりに映画を立て続けに二本も観ることができた。


「やっぱり大作ってやつは、何度観てもいいもんだな」


 食事や風呂を挟んでいたこともあり、二本目の超長尺映画を見終えたころには深夜一時を回っていた。


「そりゃ眠いわけだ」


 映画の余韻に浸りながら、ちびちび飲んでいたウイスキーのグラスを片づけようと、リクライニングチェアから立ち上がった、そのときだった。


 ピンポーン。


 静まり返った部屋に、突然インターホンの音が鳴り響く。


「び、びっくりした……。こんな夜中に誰だよ」


 モニターを確認しながら応答すると、聞き慣れた声が返ってきた。


雅晴(まさはる)、やっほー。愛しのおねーさまだぞー』

「……姉ちゃん? 何しに来たんだよ。つーか今何時だと思ってんだ」


 姉の光瑠(みつる)は昔からこういうやつだ。思いつきで人を振り回し、しかも酔っているときほど厄介になる。インターホン越しだが、あいつが酔っているのは手に取るようにわかった。


『二十五時をちょっと過ぎたくらいでしょ。いいから早く玄関開けてよ』


「日本の時間は一日二十四時間なんだよ。二十五時ってどこのブラック企業だ」


『一日は世界中どこでも二十四時間だよ。いいからごちゃごちゃ言ってないで入れなさい。早くしないと、思わず叫びたくなるかもよ? 五〇三号室の敷島(しきしま)雅晴くーん、って』


「……っ」


 ガチャリ、と鍵を開ける。

 べつに俺が弱いわけじゃない。こんな夜中に身内が近所迷惑をかますのを防いだだけだ。そういうことにしておく。


「ようよう雅晴。遅いじゃん。とりあえず中に入れて、酒でも出してよ」

「うるさいな。こんな時間に何しに来たんだよ。って、うわ、酒くさっ」


 俺も映画を観ながら少し飲んでいたが、姉ちゃんから漂ってくる酒の匂いはそれ以上だった。


「お姉様に向かって臭いとは、いい度胸だね。ごたごた言ってないで、早く上がらせなさいよ」

「上がってく前提かよ……」

「おっと雅晴。後ろのこの子、あたしの連れだから」

「へ?」


 姉ちゃん一人だと思っていたのに、後ろにもう一人いた。男ならともかく、女性をこの時間に無下にはできない。


「あはは、夜分にすみません。光瑠が近くに弟が住んでるから行こうって言って……。へへ、わたしも興味あって来ちゃいました」

「あ、いえ。こんばんは。どうぞ、大丈夫です」


 ほんのり頬を赤くしたその人は、姉ちゃんと同じく酒気をまとっていたが、それ以上に整った顔立ちの印象が強くて、少しどきりとした。


「なんだよ。あたしのときと対応が違うじゃないか。姉を敬え、こら」

「敬えることをしてから言え。どうぞ、狭いですけど上がってください」

「お邪魔しまーす」




「改めまして。各務原優未(かがみはらゆうみ)です。遅くにすみませんでした! お酒、おいしくいただいてまーす。いえーい」

「いえーい。ほら雅晴、あんたも自己紹介。ちゃんと挨拶できないなんてお姉ちゃん恥ずかしい」

「今の姉ちゃんの姿のほうが千倍は恥ずかしいと思うぞ。えっと、光瑠の弟の雅晴です。あの、勘違いだったらすみません。法人営業部の各務原先輩、ですよね?」

「あ、バレちゃった。偶然だけど、わたし雅晴くんの会社の先輩なんだよー。光瑠とは大学時代からの友だちで」


 やっぱりそうだ。見覚えがあると思ったら、各務原先輩は俺の勤める会社の二年上の先輩だった。法人営業部でもかなり有能だと評判の美人営業で、見た目だけじゃなく中身もいいという話をよく聞く。例に漏れず、俺もひそかに憧れていた人だったりする。


「姉ちゃん、知ってたなら俺と同じ会社だって教えてくれてもよかったのに」

「え? あんたのことなんかにまったく興味ないから、今日の今日まで優未と雅晴が同じ会社だって知らなかったけど」

「ああそうかい。姉ちゃんはそういうやつだったな……」

「あはは。二人とも面白いね」


 別に面白いことを言っているつもりはない。たぶん、うちの姉弟はいつもこんな調子だから、外から見ると変なのだろう。


「雅晴、今日はね。この優未が仕事でむちゃくちゃ腹立つことがあったから、ストレス発散に付き合ってんの。おまえも優未の後輩なら、ちゃんと付き合え」

「各務原先輩に付き合うのは全然かまわないけど、そのせいで姉ちゃんにも付き合わなきゃいけないのはちょっと……」

「そんなこと言わないで、弟くんもいっぱい付き合ってよっ」

「一杯じゃなくて、いっぱいなんすね……。あと先輩、その酒、俺のなんですけど……」


 結局このあと、隠してあった秘蔵の酒まで二人に空けられた。ボーナスをはたいて買った高級ジャパニーズウイスキーだったのに。


「雅晴。あたし、もう眠いんだけど」

「知らねーよ。そこらへんで寝てろよ」

「やだ。雅晴のベッド借りるから。じゃ、おやすみ」

「おい、こら……って、早っ」


 姉ちゃんはどうでもいい。問題は各務原先輩だ。こっちも酒瓶を抱えたまま、すっかり寝落ちしている。


「仕方ない……。予備の布団出すか」

「えへへ、敷島くん、ありがとね……」


 寝言みたいなものだったけど、お礼を言われたのでよしとする。

 ……で、俺はどこで寝ればいいんだ。




『今日もあんたんとこに優未と一緒に行くから、空けとけよ。酒とつまみは持っていくから気にすんな』


 金曜の昼休み、姉ちゃんからそんなメッセージが来た。


「気にするのは酒とつまみじゃなくて、二週連続で来ることだろ……」


 どうせ断っても来る。そうわかっているので、諦めて迎える準備だけしておく。それにしても、各務原先輩のストレスって何なんだろう。潰れるまで飲むくらいだから、営業部のエースも大変らしい。


「先週はお邪魔してごめんね。これ、つまらないものだけど、今夜のご飯とおつまみにどうぞ」

「いえ、先輩の役に立てたなら問題ないです。ありがとうございます。いただきます……って、重っ」

「それ、隣駅の有名な唐揚げ屋の唐揚げを一キロ。酒は雅晴の好みがわからないから、四リットル入りのウイスキーと焼酎にした。あとは適当にソフトドリンクも買ってきた。有り難く受け取れ」


 店員とタクシーの運転手に手伝ってもらって運び込んだらしいが、全部合わせたら十キロは超えそうな荷物だった。人をたらしこむ姉ちゃんの外面のよさは相変わらず折り紙つきだ。

 俺も一応、サラダや乾き物くらいは用意していたが、二人の本気度の前では完全にかすんだ。飲みに特化しすぎている。


「こんなに持ち込んで、全部今日飲むつもりなのかよ?」

「そんなわけないじゃない。頑張っても半分も飲めないわよ。残りはあんたの部屋に置いといて、何かあるたびにここで飲むの」

「おいこら。俺んちは飲み放題のフリースペースじゃないんだぞ」

「ごめんね、敷島くん。敷島くんのおうちって居心地よくって」

「あ、それなら大丈夫です。いつでもいらしてください」


 姉ちゃんが来るのは正直めんどくさい。だが各務原先輩が来るなら話は別だ。先輩みたいな美人が部屋にいるだけで、築古賃貸の一室でも少しだけ華やいだ景色に変わる。


「それにしても、ビールとか缶酎ハイは買ってこなかったんですね」

「ビールとか缶酎ハイってコスパ悪いでしょ。このウイスキーなんて四リットル入って六千円よ? しかもアルコール四十度超え。簡単に酔えて最高じゃない」

「先輩、かなりストレス溜め込んでるんですね」

「そうよ。今日はわたしの愚痴を思いっきり聞いてもらうから、覚悟してね」


 先週寝たのは午前三時だった。姉ちゃん風に言えば二十七時だ。今日も遅くなりそうだな、と早くも覚悟する。




「敷島くんも知ってるでしょ――」

「優未。あたしも敷島だから、雅晴のことは雅晴って呼んで」

「おっけ、光瑠。じゃあ雅晴くんって呼ぶから、雅晴くんもわたしのことは優未って呼んでね。それでイーブン」


 いきなり名前呼びされて驚いたが、姉ちゃんの友だち連中には昔からそう呼ばれることが多かったので、そこまで抵抗はない。とはいえ、なぜ俺まで先輩を優未と呼ばなければならないのかは、まったくわからない。


「で、話を戻すけど、雅晴くん。柏原明海(かしわばらあけみ)って知ってるでしょ?」

「ああ、はい。二つ下の後輩です。新人のとき製造部にいた時期は、俺が教育係でした。今は法人営業部なんですよね? よく図面のことで聞きに来ますよ」


 うちの会社では、新入社員はまず製造部に回されて製品知識を覚える。そのとき柏原さんの教育担当だったのが俺だ。営業に配属されたあとも、製造寄りのことがわからないと俺のところに来るので、顔は合わせている。


「あの子、マジでムカつくの」

「柏原さんが? 何かやったんですか」

「あの子ね、男の人がいる前ではいい子ぶるのに、裏に回ると他人の悪口ばっかり。見下すし、馬鹿にするし、そのうえ自分の失敗を絶対に認めないのよ」

「本当ですか? そんなふうには見えないですけど……」


 言われてみれば、思い当たる節がないでもなかった。製造部にいたころも、「まだよくわかってなくて失敗しちゃいました」と言いながら、その失敗を同期の子になすりつけていた場面を見た気がする。新人だからと流していたが、今思えばあれも相当だった。


「今日なんてね――」


 優未はグラスを置く勢いのまま、堰を切ったように話し始めた。


 今日は柏原さんと同行で客先に向かったらしいのだが、柏原さんが他社向けの資料を持ってきてしまったらしい。間違えたのならその場で謝って、正しい資料を取り寄せれば済む話だ。大抵の客先はそれで済ませてくれる。


「なのにあの子、『各務原先輩、これ資料違いますよね?』って言うのよ。まるで、わたしが間違えたみたいな言い方で」

「ああ……その言い方はきついですね」

「でしょ? 結局、わたしが謝って、会社に連絡して、先方のプリンターまで借りて差し替えて……。なんでわたしがそこまでしなきゃいけないのよ」

「帰りにでも謝ってくれれば、まだ違うんでしょうけど」

「謝らないのよ、それが。取引がうまくいったことだけ自慢げに話しておしまい。こういうの、一度や二度じゃないんだから」


 しかも相手が若い男の先輩だと、今度はしおらしく「わたしがドジでご迷惑を……」と涙まで浮かべるらしい。聞いているだけでもたちが悪い。


「上司も上司で、あの子のこと妙にかばうし……もうやってられない」


 話は柏原さんだけではなく、彼女をひいきする係長や課長の話にまで及んでいった。優未の鬱憤は相当溜まっているらしい。


 問題は、そのあいだにも酒がどんどん進んでいることだ。これ以上飲ませるとまた帰れなくなると思ってセーブさせようとしたが、まったくうまくいかない。


「……姉ちゃん?」


 ふと気づくと、光瑠の姿が見えなかった。会話に入ってこないのはいつものことだが、さすがに静かすぎる。


「トイレ……じゃないよな。優未さん、さっき入ってたし」


 大して広くもない一LDKで、人ひとり見失うのはおかしい。


 ピコン。


 嫌な予感しかしない着信音が鳴った。すぐにスマホを取り出してメッセージを確認する。


『あたしは帰るから、あとは優未のことよろしく。まあ、いい大人同士なんだし好きにすればいいさ。念のため、アレはあんたのベッドの枕元に箱のまま半ダース忍ばせてあるから。頑張れよ。じゃあねー』


「……マジかよ。いつの間に帰ったんだ、あいつ。つーか半ダースって……するわけないだろ」


 そう呟いたものの、不埒なことをしない自信があるかと問われると、正直あまりない。いっそ自分も潰れてしまったほうが安全だと思い、そこからは余計なことを考えないように酒を強くしていった。


 朝――というか昼過ぎだったが――目が覚めたとき、優未さんとは折り重なるように寝ていた。けれど、二人ともちゃんと服を着たままだったので、問題はなかったことにする。

 学生のころならこの程度でも大騒ぎしていたかもしれないが、このくらいは見なかったことにしたほうが平和だ、という知見を俺はすでに得ている。大人ってずるい。




 そんなこんなで、その後も金曜になると、姉ちゃんと優未さんが二人してうちに飲みに来るのが半ば定番になった。たまに来ない日があると、逆に少しさみしく感じてしまうのだから、自分でも驚く。


「ねえねえ、雅晴くん」

「はい、何でしょう、優未さん」

「ここのところの設計ってどうなってるの? 図面見ても、ちょっとピンとこなくて」

「ああ、そこはですね――」


 あれだけ頻繁に顔を合わせていれば、当然俺と優未さんの距離も縮まる。会社でもよく話すようになり、製造関係でわからないことがあると優未さんは決まって俺のところに来るようになった。さすがに社内でも目立つようで、何人かにはからかわれた。


 そんなある日、今年から法人営業部に移った同期の神明(しんみょう)に声をかけられた。


「神明じゃないか。久しぶり。元気してたか? 個人営業から法人営業だと、勝手が違って大変じゃないのか」

「まあ、売るものが変わるから製品知識は総入れ替えで苦労はあるけど、やりがいはあるよ」

「それはよかった。で、今日は? 仕事の相談か?」

「いや、仕事とは関係ない話。今夜、空いてるか?」


 神明にそういう誘い方をされるのは珍しかった。仲が悪いわけじゃないが、今までこういうタイミングはなかった気がする。




 その日の夜。平日なので、酒は控えめにしてゆっくり話せる店に入った。


「おつかれ。乾杯」

「おつかれ、乾杯」


 一口飲んだあと、神明が間を置かずに切り出した。


「回りくどいの苦手だから、単刀直入に聞くけど。おまえ、柏原明海のことどう思う?」


 いきなりその名前が出てきて、危うくビールを吹き出すところだった。


「柏原さん? 知ってるよ。新人のときは俺が教育係だったし。でもなんで急に」

「その柏原さん、おまえのこと好きらしい」

「…………は?」


 一拍置いてから、喉の奥から変な声が出た。


「はぁぁぁ!? いやいやいや、待て待て。神明、おまえそういう冗談言うタイプじゃなかっただろ」

「冗談じゃない。昨日、本人にそう聞いた。で、おまえとの話をつけてくれないかって頼まれた」


 今、神明と柏原さんは営業で組まされているらしい。神明のほうが社歴は上だが、法人営業では柏原さんのほうが先輩だ。表向きは“お互い勉強のため”らしいが、実態としては別の組み合わせを避けた結果なのだろう。


 それより問題なのは、柏原さんが俺のことを好きだという話のほうだ。


 神明によると、柏原さんは入社直後、不安だらけだったところに俺が教育係としてつき、頼りがいがあって優しくて、しかも格好よく見えたらしい。


「待ってくれ。それ、誰か別のやつと勘違いしてないか? 優しいはともかく、格好いいは絶対俺じゃない」

「いや、間違ってないよ。おまえのとこに用もないのにちょくちょく来てただろ。“ここ、ちょっとわからなくて”とか言って」

「……たしかに来てたな。あれ、そういう意味だったのか」

「そう。で、急におまえに近づこうとしてきた理由だけど、どうも各務原先輩が関係してるらしい」

「優未さんが?」

「法人営業部では、各務原先輩と柏原さんが二大美人扱いされてるんだよ。で、柏原さんは各務原先輩のこと、前からよく思ってない。そこに来て、おまえが各務原先輩と妙に親しそうだろ」

「妙にって……」

「だって、おまえ会社で各務原先輩のこと名前で呼んでるだろ。あれ、おまえくらいだぞ」


 そこを言われると弱い。優未さん本人にそうしろと言われた流れとはいえ、外から見ればそう映るのかもしれない。


「柏原さんから見たら、気に入らない相手と、自分が気になってる男が近い距離にいるわけだ。思うところはあるだろ」


 なるほど。優未さんへの当たりが妙に強かったのも、そのあたりが絡んでいるのかもしれない。


「で、どうすればいいんだよ」

「いや、俺は伝えるだけ伝えたから。あとはおまえがどうにかしてくれ」

「丸投げかよ……」

「そういう役、向いてないんだよ俺」


 それはたしかにそうだ。神明がこうして話を持ってきただけでも、むしろ義理堅いくらいかもしれない。


 店を出たあとも、頭の中はぐちゃぐちゃだった。柏原さんの件だけでも厄介なのに、優未さんとの関係までそこに絡んでくるとなると、さすがに一人では整理がつかない。


「……しょうがない。姉ちゃんに相談するか」


 あいつに弱みを見せるのは、ものすごく嫌だ。だが、こういうときに頼れる相手がほかにいないのも事実だった。


『姉ちゃん、相談がある。近いうちに時間とってくれないか』


 メッセージを送る。数日中にでも話せれば十分だと思っていた。


『今夜いく』


 返信は、ほぼ秒だった。

 ……あいつ、絶対どこかで見てるだろ。




「ほーん。なかなか面白いことになってるじゃないの」

「これのどこが面白いんだよ。こっちは本気で困ってるんだから、ちゃんと相談に乗ってくれないと困るんだけど」

「あはは。悪い悪い。それで? その柏原って子のこと、雅晴はどう思ってるのよ」

「どうも思ってない。前からそうだったけど、最近になって裏の顔みたいなのを聞いたら、余計に関わりたくないって思った」


 正直、今となっては好意を向けられても嬉しいより困るが勝る。

 なにがどうひっくり返っても、柏原さんを恋愛対象として見ることはないからだ。


「ふーん。そいつ、可愛い系だっていうのに、もったいない」

「そういう話じゃないだろ」

「まあ、それならよかったよ。もしそこで悩んでるとか言い出したら、あんたとは縁を切るしかないかなって思ってたし」

「そっちで悩むわけないだろ。そもそも柏原さんと姉ちゃん、相性最悪だろうとおもうんだよな……」


 万が一にも柏原さんと付き合う、なんてことになったら、姉ちゃんとの間に俺が挟まれる未来しか見えない。そんなの冗談じゃない。


「そんなのはどうでもいいわよ。じゃあ、優未は?」

「えっ、優未さん……?」


 急に名前を出されて、言葉に詰まる。


「先輩だし、もともと憧れてはいたよ。でも、うちに来るようになってからは……優しいところとか、仕事に真剣なところとか、逆に弱いところとか、そういうのを近くで見るようになって……なんていうか……好き、なんだとは思う」

「思う、って何。高校生のガキかよ」

「ガキで悪かったな。でも、今はそれしか言えないんだよ」


 好意があるのは確かだ。

 でもそれを今この場で、胸を張って恋愛感情だと言い切る自信がなかった。

 ただ、優未さんを他の女性とは違う目で見ているのも事実で、その答えをいつまでも先送りにはできないとも思っている。


 姉ちゃんは結局これといった妙案を出してくれたわけじゃない。

 それでも、自分の気持ちをちゃんと言葉にしたことで、胸の中は少しだけ軽くなった。恥を忍んで相談した甲斐はあったと思う。




 翌日。社内の休憩スペースに行くと、隅のテーブルで優未さんがうなだれていた。


「あ、優未さん。おはようございます」

「ああ……雅晴くん、おはよう」

「どうしたんですか。元気ないですね」

「……わかる?」

「そりゃ、これだけしんどそうにしてたら」


 優未さんは苦笑いして、紙コップを指先でいじった。


「何かあったんですか?」

「うん……まあ、言っちゃえばいつものことなんだけど。柏原さんがね……」

「また彼女ですか」

「雅晴くんに言っても仕方ないんだけど、最近ちょっと当たりが強いっていうか、言い方がきついっていうか……。なんか、嫌な感じなんだよね」


 十中八九、その原因のひとつは俺だろう。

 柏原さんは、俺が優未さんと親しくしていることを面白く思っていない。そう考えるのが自然だった。


「……すみません」

「え? なんで雅晴くんが謝るの。変なの」


 優未さんは首をかしげて、それから立ち上がった。


「コーヒー飲む? 淹れるよ」

「ありがとうございます」

「いいの。雅晴くんの前だと、ちょっとほっとするというか、気が抜けるのよね」


 そう言ってから、優未さんは少し笑う。


「なんだろうね。気分転換に雅晴くんを一家に一台ほしい、みたいな」

「家電みたいに言わないでくださいよ」

「でも便利そうじゃない?」


 そんなふうに言われると、やっぱり嬉しい。

 ほんの少しでも優未さんの力になれているなら、それだけで十分だと思えた。




 さらに数日後。


 自分の気持ちにもやもやしたまま仕事をしていた。

 優未さんのために何かしたい。でも下手に動けば、かえって状況を悪くするかもしれない。そんなことばかり考えてしまう。


「敷島せーんぱいっ」

「うわっ……びっくりした」


 顔を上げると、柏原さんが立っていた。


「また何か、わからないことでも?」

「今日はわからないことじゃなくて。この前、神明先輩に聞きましたよね?」

「ああ、聞いたけど……」

「だったら、今晩お食事でもどうですか?」


 あまりに直球で、逆に返答に困った。


「いや、今日はちょっと……。金曜だし、姉が来ることになってるから」


 厳密には約束していない。

 でも金曜なら、あの二人が来る可能性はかなり高い。


「……各務原先輩とは仲良くランチとか行くくせに、わたしとは約束できないんですか?」

「え」


 今日の昼は、たまたま優未さんが社内にいたので、気分転換になればと思って俺から誘ったのだ。

 それを見られていたらしい。


「敷島先輩って、あの人とはずいぶん仲いいんですね」


 柏原さんの声音が、さっきまでとまるで違っていた。


「わたしのほうが、絶対いいのに」

「柏原さん……?」

「……見ててください」


 柏原さんはそれだけ言うと、ふん、と鼻を鳴らして踵を返した。

 仕事中だし、周囲の目もある。追いかけるわけにもいかず、そのまま見送るしかなかった。

 今思えば、あれが明確な分岐点だったのだと思う。




 その夜。案の定、姉ちゃんと優未さんはうちに来た。


 ただ、いつもと様子が違った。

 優未さんが、見るからに憔悴していた。


「大丈夫ですか、優未さん?」

「……うん。いや、ごめん。今日はちょっと無理かも」

「柏原さん、ですか」

「うん。午後からずっときつくて。言いがかりみたいなのも多いし、言い方も刺々しいし……。今日はさすがにメンタルにきた」


 やっぱり、と思った。

 たぶんあの昼の件が引き金になっている。


「とりあえず飲みなよ、優未。少しは楽になるでしょ」

「姉ちゃん、あんまり酒に逃がすのもどうかと思うけど」

「いいの。今はそういう日だから。ほらいいお酒、入っているわよ」

「……じゃあ、もらう」


 姉ちゃんは勝手知った顔で戸棚を開け、買ったばかりのクラフトジンを見つけては勝手に封を切った。

 いつものことなのでもはや止める気にもならない。


「はあ……。わたし、彼女に何かしたのかなあ。最近は組むことも減ってたし、少し気が抜けてたんだけど……」

「あの、それなんですけど……」


 二人の視線がこっちに向く。


「たぶん、原因のひとつは俺です」

「雅晴くんが? なんで?」

「今日は、ちゃんと話します」


 そこで俺は、神明から聞いたことも含めて、今わかっていることを全部話した。

 柏原さんが俺に好意を持っているらしいこと。そのせいで優未さんに対抗心を燃やしているらしいこと。昼間に誘いを断ったあと、明らかに機嫌を悪くしていたこと。


 話し終えるころには、優未さんは驚いた顔を通り越して、妙に納得した顔になっていた。


「なるほどね。要するにヤキモチってことか」

「たぶん……」

「わたしが雅晴くんと仲いいのが気に入らない、と」

「それだけじゃないとは思いますけど。元々の性格もあるんでしょうし」

「だよね。もともとああいう子が、余計に悪くなっただけだ」


 グラスを傾けてから、優未さんは少しだけ笑った。


「でも、よかった。理由がまったくわからないよりは、まだマシ」

「よかった、で済ませていい話じゃないけどな」


 姉ちゃんが鼻を鳴らす。


「それで? 雅晴はどうするの」

「それがわからないんだよ……。俺がきっぱり断れば終わるなら、今すぐそうしたい。でも、あの感じだと断ったら断ったで、余計に優未さんへの当たりが強くなりそうで」

「実際、なりそう」

「だろ? だから、下手に動くのも怖い」


 優未さんを助けたい。

 でも俺が動いたことで状況が悪化するなら、それは助けることにならない。


「……ほんと、どうしたらいいんだろうな」


 その答えは、まだ出なかった。




 考えがまとまらなくても、仕事は待ってくれない。

 俺の仕事は製造部での設計業務だ。とくに安全装置まわりを担当することが多い。

 客先の工程作業者の命を守る装置を設計している以上、仕事中に余計なことばかり考えているわけにはいかない。柏原さんのことはいったん頭の端に押し込み、目の前の図面に集中する。


 それでも昼休みになると、どうにも気が晴れなかった。


 気分転換に一人で外へ出て、普段は食べないようながっつりした定食を腹いっぱい詰め込む。


「午後は切り替えないとな……」


 そう思いながら部署に戻ると、まだ昼休み中だというのに、何人かの同僚が慌ただしく図面ファイルを探し回っていた。


「あ、敷島! ちょうどよかった!」

「どうしたんですか?」

「GSZインダストリーのFライン向け安全装置、設計したのおまえだよな?」

「はい、そうですけど……」

「現場で事故があったらしい」


 一瞬、背中が冷えた。


「担当は法人営業部ですよね。資料持って向かいます」


 慌てて法人営業部のフロアへ向かうと、そちらもすでに騒然としていた。


「製造部の敷島です。GSZさんで安全装置の件があったと聞いたんですが」

「ああ、敷島くん」


 法人営業部二課長が険しい顔で振り向く。


「現時点では“装置の不具合”とまでは断定できない。今、現担当の柏原さんと神明くん、それから納入当時の担当だった各務原くんが先方に確認に行っている。戻るまで待ってくれ」

「わかりました」


 いったん自席に戻るしかなかったが、まったく落ち着けなかった。




 夕方になって、二課長から内線が入った。

 設計担当として同席してほしいという。


「失礼します。どういう状況だったんでしょうか」


 会議室には、戻ってきた三人がそろっていた。

 優未さんは疲れた顔をしていたが、俺の問いに最初に答えてくれた。


「まず、装置そのものの設計に問題はなかった。動作確認も取れていたし、安全面も工場長の確認済み。ただ……」

「ただ?」

「現場主任が、安全装置を無効化してた」

「……は?」

「カバーもインターロックも外して、センサーまで切ってたらしい。ワークが詰まるたびにラインが止まるのが面倒だったって」

「そんな……」


 過去災害を受けて、効率より安全を優先する前提で組んだ設計だった。

 それを現場判断で殺されたら、どうしようもない。


「でも、それならどうして現場主任がそこまで装置の構造を把握してたんですか。あれ、そんな簡単な構造じゃなかったと思うんですが」

「それなのよ」


 優未さんが眉を寄せる。


「わたしが担当していたとき、図面や仕様書は安全管理者と工場長にしか渡してなかった。でも、現場主任も図面を持ってたみたいで」

「誰かが渡していたってことですか」

「先方では、その図面を社内で回した記録はないそうだ」


 二課長が重く言う。


「うちから出た可能性が高い」


 嫌な予感がした。


「確認してきます。発行履歴を見れば、たどれるはずです」




 急いで社内システムを洗い直す。

 そして、ほどなく履歴は見つかった。


「……ありました。一年前に再発行されています」


 会議室に戻って報告する。


「発行依頼を受けたのは製造部の大林さん。依頼者は……柏原さんです」


 空気が止まった。


「どういうことだね、柏原さん」


 二課長の声が低くなる。

 柏原さんはしばらく黙っていたが、やがて小さく口を開いた。


「GSZの三上主任に頼まれました。各務原さんにも頼んだけど断られたって聞いて……。その代わり、新しいラインの導入計画を教えてくれるって言うから……」

「それで、独断で図面を出したのか」

「……はい」

「しかも、そのことを最初に申告しなかったな?」

「……」


 沈黙が、そのまま答えだった。


 二課長は大きく息を吐いた。いつもは柏原さんに甘いという課長も今日は違っている。


「災害そのものは先方の不適切な運用が原因だ。だが、本来開示を絞るべき図面を独断で再発行したのは重大な問題だ。明日、私が工場長に正式に謝罪に行く。柏原さん、君も同行しなさい」


 装置自体に瑕疵はなかった。

 それでも、安全装置を外す手がかりになる図面を軽々しく渡した責任は重い。しかも、それを隠しかけたのだからなおさらだった。


 柏原さんは前担当の優未さんを出し抜こうと簡単に考えたのかもしれないが、それにしては代償が大きすぎた。




 翌週の金曜。

 いつものように優未さんがうちに来て、ハイボールのグラスを傾けていた。姉ちゃんは残業らしく、あとで合流するという。


「その後、どうなったんですか?」

「先方から大きな請求が来たわけじゃない。事故の主因は向こうの安全無視だったからね。でも、重要書類の管理についてはきっちり釘を刺されたみたい」

「そりゃそうですよね……」

「柏原さんは、いまの担当を外されるらしい。再研修って名目で、しばらく地方工場に行く方向だとか」

「一からやり直し、って感じか」


 正直、軽率のひと言で済ませられる話ではない。

 安全装置は、下手をすれば人の身体や命に直結する。今回は三日の休業災害で済んだらしいが、それでも十分重い。


「担当設計者の顔にも泥を塗ったわけだしね」


 優未さんはそう言って、少しだけ俺を見た。


「これで……雅晴くんのことも、諦めてくれるといいんだけど」

「優未さんは、あの人がこのまま諦めてくれたら嬉しいですか」

「そ、それは……まあ、嬉しいよ。雅晴くんを取られるのは嫌だし」

「それって、そういう意味に取ってもいいですか」


 自分でも、ずいぶんずるい聞き方だと思った。

 でも、この機会を逃したら、たぶんまた言えなくなる。


「優未さん」

「……はい」

「俺、優未さんのことが好きです。ちゃんと付き合ってください。軽い気持ちじゃなくて、将来のことも真剣に考えたいと思ってます」


 優未さんは一瞬だけ目を見開いて、それからみるみる顔を赤くした。


「……はい。わたしでよければ、お願いします」


 その返事を聞いた瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。

 酒のせいじゃない。こんなに身体が浮つくみたいに嬉しいのは、たぶん初めてだった。


「よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」


 抱きしめたい気持ちはあった。

 でもいきなりそれは違う気がして、とりあえず俺はそっと手を差し出した。

 優未さんは、小さく笑ってその手を握り返してくれた。


「へえ。あたしのいないところで、ずいぶん面白いことしてるじゃん」

「うわっ、姉ちゃん!?」

「ひゃっ、光瑠!?」


 いつの間に入ってきたのか、姉ちゃんが壁際に立っていた。

 まったく気配に気づかなかった。


「いつからいたんだよ!」

「“諦めてくれるといいんだけど”あたりから?」

「ほぼ最初からじゃないか! 最悪だ!」


 さっきまでとは別の意味で顔が熱くなる。


「でさ、二人とも。将来のことまで考えてるなら、もう結婚しちゃえばよくない?」

「な、何を言い出すんだよ」

「だって優未、再来月まではまだ二十八でしょ? 二十八で結婚しました、っていうのと二十九でしました、って、女的にはなんか違うじゃん」

「うっ……まあ、言いたいことはわかるけど……」

「今なら二十代の母親もまだ狙えるし」

「姉ちゃん!」

「……そういうふうに言われると、ちょっとだけ魅力的に聞こえてくるのが悔しい」

「優未さん?」


 優未さんが妙に真剣な顔で考え込む。

 俺としては、今すぐ役所の夜間窓口に向かえと言われても構わないくらいだが、そういうのを勢いで決めていいのかという理性も、まだ一応ある。


「そういう姉ちゃんこそ、どうなんだよ。その理屈なら姉ちゃんだって同じだろ」

「あたし? あたしは平気。来月結婚するし」

「……は?」

「え? 結婚? 光瑠、彼氏いたの?」

「いるわよ。失礼しちゃうわね」

「聞いてないんだけど」

「ごめんごめん。うっかり」

「うっかりで済ますなよ! 俺だって何も聞いてないぞ!」

「親には話してるから、あんたは黙って祝っとけばいいの」


 相変わらず身勝手だ。

 でも、親にまで黙っていたわけじゃないと知って、少しだけほっとした自分もいた。


「式は特にやる予定ないんだけど、いっそダブルウェディングとかどう?」

「やめろ!」




 言いたいことだけ言って、姉ちゃんはそのまま帰っていった。

 今日は件の彼氏のところに行くらしい。彼氏は平日休みとのことで、金曜にうちへ来ること自体は何の問題もなかったらしい。


 しかも結婚したら「ちょっとは控える」とのことだった。

 ちょっと、なのが嫌な予感しかしない。


「すみません。あんな姉ちゃんで……」

「ふふっ。光瑠はいつもあんな感じだから、もう慣れたよ」


 毎度のことながら、姉ちゃんの奔放さには振り回される。

 それでも、どこか憎めないままでいられるのは、あの人なりの愛嬌と人徳なのだろう。


「……優未さん」

「優未、でいいよ」

「え?」

「もう付き合うんでしょ? だったら、いつまでも“さん”は変じゃない?」

「じゃあ……優未」


 名前を呼ぶだけで、変に緊張する。


「うん」

「さっきの結婚の話だけど……姉ちゃんの言い方は極端としても、俺は将来のことまでちゃんと考えたいと思ってる。軽く付き合うつもりはない」


 優未は少し目を伏せて、それから小さく笑った。


「嬉しい。わたしも、雅晴がいいと思ってる」

「ほんとに?」

「ほんと。ずっと一緒にいたいって、ちゃんと思ってる」


 それを聞いて、今度こそ我慢できなくなった。

 握っていた手に、少しだけ力を込める。優未も逃げなかった。




 それからしばらくして迎えた、金曜の夜。

 いつもの飲み会の時間なのに、今日は姉ちゃんはいない。


 部屋には俺と優未だけだ。


 自然な顔で優未がキッチンに立ち、つまみの用意をしている。

 もうこの光景は、うちの部屋にすっかり馴染んでいた。


「グラス、これでいい?」

「うん。それで大丈夫」


 棚からグラスを取り出しながら、ふと思いつく。


「……今度さ、二人用に新しいグラス買いに行かないか」

「いいね。でも、それだと光瑠が拗ねそうじゃない?」

「大丈夫だよ。あいつはあいつで好きにやるだろ」


 俺は笑って、テーブルにグラスを置いた。


「だから、俺たちは俺たちで好きにしよう」

 優未が少しだけ目を丸くして、それからやわらかく笑う。



 金曜の夜。

 最初は姉ちゃんに振り回されて始まったはずのこの時間が、いつの間にか、俺たち二人のものになっていた。


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