第二章 — 塵の中の残り火
リリア・ヴェンスが戻った時、砕けた光の市場はまだ燻っていた。
灰。
ひっくり返った木箱。
石畳に残る赤い筋。
乾ききらず、陽に光る。
煙の匂い。
金属の匂い。
口の奥に残る、苦さ。
リリアは壊れた噴水のそばに膝をついた。
割れた石に、指先を走らせる。
「……今日のヴァエロス、機嫌悪い」
背中で声がした。
「毎日だろ。街が、警告するのをサボるだけだ」
ギャロン・ヘイルが、潰れた天幕の残骸の陰から出てきた。
鉄の腕が曲がった支柱をこすって、嫌な音を立てる。
押しのけて、顔をしかめた。
リリアが口の端だけ上げる。
「半分金属のくせに、うるさいのね」
「近づいてるって知らせたいんだよ」
「こそこそ英雄気取りだと思われたくない」
「……か、馬鹿やりに来たか」
「だいたい同じだ」
目が合う。
仲間、とは言えない。
敵、とも言えない。
長い日を何度も越えてきた者の、薄い了解だけが残った。
◆ 子どもと竜
リコは倒れた果物の荷車にちょこんと座り、傷んだリンゴを齧っていた。
捨て山から拾ったやつだ。
それでも、顔だけは誇らしげ。
隣に、ハリック。
人間の姿のまま。
幻術の下で、尾が落ち着きなく動いている。
「昨日の騒ぎ、近づくなって言っただろ」
リコは肩をすくめた。
「無理。脚が言うこと聞かない」
「聞けよ。俺の脚だって、俺の言うことなんてほとんど聞かない」
「でも君、ドラゴンじゃん」
ハリックは焼けた屋台を見て、鼻で息を吐く。
「……正確には、な」
「呼吸ひとつ間違えると、近所ごと燃えるんだぞ」
「可燃物なのに、くしゃみ我慢しろって無理だろ」
リコが笑いすぎて、リンゴを落とした。
「え、君……くしゃみで火が出るの?」
「出る」
ハリックの顔は暗い。
「誰も教えないんだ」
「あれが、どれだけ恥ずいか」
リコが目を輝かせる。
畏怖と悪戯が混ざった顔。
「ねえ、教えてよ。僕にも」
「無理」
「なんでさ」
「お前はドラゴンじゃない」
「判断力が終わってる小さい子どもだ」
リコが満面の笑みを浮かべた。
「知ってる!」
◆ 狐とドワーフと粉売り
メーラが、セイブル・クライアーの“残り物”を見ていた。
割れた小瓶を、つま先で軽く転がす。
粉が、かすかに瞬く。
綺麗に見えるのが厄介だ。
ケトラ・ストーンハンドが眉をひそめた。
「捨てろ」
「砕いて、溶かして、虫が文句言うくらい深く埋めろ」
メーラが狐耳をぴくりと動かす。
「……逆に、取っとくのもあり」
「調べる」
「なんでみんな、あんなに忘れたがるのか」
ケトラが鼻を鳴らす。
「決まってるだろ」
「人生なんて、首にブーツ乗っけられてる」
メーラは粉をもう一度見て、目を細めた。
「でも……変」
「セイブル、商品守る動きじゃなかった」
「隠す感じ」
「痕跡、消してるみたいな」
「何の痕跡だよ」
「でかい何か」
「私たちに見られるのが、怖くて仕方ないやつ」
ケトラが口を開く前に、当人がよろめいて出てきた。
セイブル・クライアー。
裂けた外套を肋骨のあたりに押し当てている。
顔色が灰。いつもより、さらに。
掠れた声。
「……触るな」
メーラの短刀が、もう手にある。
「気をつけて」
「私、切るの得意なの」
「嘘より速い」
セイブルは歯を食いしばって息を吐いた。
「その粉……お前らのためじゃない」
「執行官のためでもない」
「じゃあ誰だよ」ケトラが食うように言う。
セイブルが喉を鳴らす。
「……売れって言った奴のためだ」
「誰よ」メーラの声が落ちる。
セイブルは一瞬だけ黙った。
視線が、折れた日除けの下の影へ走る。
昨日、星刺繍のローブの女が立っていた方角。
そして、吐く。
「……火を灯さずに街を焼く方法を知ってる」
「そういう奴だ」
◆ 監察官が来る
最高監察官ソリンが来た。
書記と執行官の小隊を連れて。
瓦礫を踏む靴音。
乾いた音が連なる。
ショールが揺れていた。旗みたいに。
ソリンは一度見ただけで、全部拾った。
冷えている。
視線が速い。
「これは偶然じゃない」
ギャロンが腕を組む。
「誰かが仕組んだ、と」
ソリンが頷く。
「市場は、一人の男が粉を売っただけで燃え上がらない」
「これは演出された混乱」
「騒ぎが欲しかった者がいる」
「誰が得するの」リリアが言う。
ソリンの目が細くなる。
「目くらましが必要な者よ」
◆ 秘密の話
日が傾きかけた頃。
リリアは崩れた広場の端に腰を下ろしていた。
隣にメーラとギャロン。
少し離れた場所で、ハリックとリコが焦げた荷車を“戦車”扱いして遊んでいる。
笑い声が、短く跳ねる。
メーラが尻尾の先を揺らした。
「一番気になるの、あの女」
「星刺繍のローブの?」ギャロンが聞く。
「そう」
「火の中を歩いた」
「……最初から配置知ってたみたいに」
リリアがゆっくり頷く。
「気配が重い」
「押しつぶされる感じ」
ギャロンが鉄の腕を掻く。
「魔術師か?」
「違う」メーラが小さく言う。
「魔術師は波紋が出る」
「あの女は……沈黙が残った」
「空気ごと飲み込んだみたいに」
リリアが口を歪めた。
「怪物は見てきた」
「でも……あれは、もっと古い」
メーラが身を乗り出す。
声を落とす。
「セイブルに変なこと言ってた」
「歩き去る時、聞こえたの」
「何を」
メーラが、あの声の温度を真似た。
「『灰が語っている。もう一度黙らせたくなければ』」
ギャロンの顔が沈む。
「普通じゃないな」
メーラが頷く。
「でしょ」
リリアは焼けた市場を見渡した。
ほとんど独り言。
「……終わってない」
◆ 最後の糸
夕暮れ。
リコがリリアの袖を引いた。
「ねえ、銀の破片」
「なんで大人って、悪いこと起きたあと、いつもひそひそするの」
リリアは一瞬、言葉を探してから、笑った。
寂しい笑い。
「秘密はね」
「剣より重いの」
リコが眉を寄せる。
「じゃあ……僕たち、怖がったほうがいい?」
リリアはすぐに答えない。
セイブルが消えた路地。
灰眼の女が立っていた影。
まだ燻っている火の気配。
それから、リコの頭に手を置いた。
「怖がるより」
「準備しよう」
背後のどこかで、見えない光が脈を打った。
残り火が、息を待つみたいに。




