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第一章 — 砕けた光の市場

※ダーク寄りのファンタジーです。残酷描写があります。

太陽が昇る。

ヴァエロスの上空で、朝霧が切れる。

裂けて、落ちる。

路地へ。

この街は、継ぎはぎだ。

崖に掘られたドワーフの鍛冶場。

運河に傾いたエルフの塔。

広場を占める人間のバザール。

城壁の外には、名を呼ばれなくなった獣と、忘れられた神の話だけが残っている。

その中心。

砕けた光の市場が、動き出す。

広場の上には、ガラス板と鏡、薄い金属板。

太陽を受けて、光が割れる。

色が落ちる。

露店に。

人の顔に。

現実が、少しだけずれる。

リコは噴水の縁に座っていた。

足は届かない。

半人半ハイラックス。

丸い耳。

手の中には、木製の玩具の竜。

静かな朝が好きだった。

まだ、声がぶつからない時間。

この街が、自分を拒まない時間。

彼は群衆を眺めていた。

ただ、見ている。

エルフが通る。

足音がしない。

正確で、無駄がない。

リリア・ヴェンス。

腰のレイピアが、光を受けて小さく鳴る。

リコは知っている。

裏路地で、彼女の稽古を見たことがある。

三歩。

回る。

一瞬。

気づいた時には、終わっている。

月織りの足さばき。

そう呼んでいた。

今日は、歩き方が違う。

視線が、人の顔を拾っていく。

手は柄の近く。

まだ、握らない。

広場の反対側。

柱にもたれた男。

ギャロン・ヘイル。

人間。

肩が広い。

右腕は鉄だ。

飾り気はない。

戦場の形をしている。

彼は拳を握る。

関節が鳴った。

昔は、紋章を着けていた。

今は、金のためだ。

目が、違う。

「……執行官、多いな」

「給料が安いからよ」

後ろから、軽い声。

三日月毛皮のメーラ。

狐の耳が、フードの下で動く。

隠す気はない。

半狐。

半人。

厄介なやつ。

「安い給料で権力持つとね」

「荒れるのがオチ」

「犯罪者よりか?」

「そりゃ犯罪者も危ねえわよ」

「でもあいつら、タチ悪い」

「こっちは追加料金だけどね」

噴水の近くで、ハンマーの音。

鋭い。

迷いがない。

ケトラ・ストーンハンド。

小さな鍛冶屋台。

左手は、完全には閉じない。

それでも、叩く。

「直したら払え」

「施しなら神に頼め」

「神は空っぽの財布が大好きだ」

声が飛ぶ。

リコは、少し笑った。

彼女の台には、いつもパンの耳が残る。

日除けの下。

色あせた布。

セイブル・クライアーが瓶を並べている。

小さなガラス。

中で粉が光る。

青。

金。

灰。

目は、遠い。

笑っても、そこにいない。

「夢を見ずに眠れ」

「息と一緒に忘れろ」

「希望より安い。確実だ」

客は、来る。

リコは、目を逸らした。

あそこだけ、空気が変だ。

市場を見下ろすバルコニー。

彫刻の影。

最高監察官ソリンが立っている。

鎧はない。

でも、誰も間違えない。

視線が動く。

数えるみたいに。

執行官。

商人。

子供。

買い手。

安全は、ここでは売り物だ。

市場の端。

平服の若者。

歩き方が、慎重すぎる。

光が当たった瞬間。

目に、銀が走る。

リコの首が冷える。

――見られた。

彼は、その男を覚えた。

監視対象者。

雲が太陽を隠す。

鏡に影が落ちる。

市場が、息を止めた。

リコは目を閉じた。

音だけが残る。

値切り声。

笑い声。

金属の擦れる音。

ガラスの触れる音。

それが、途切れる。

空気が変わる。

執行官たちが隊列を組み直す。

石畳に足音が揃う。

隊長が、セイブルの屋台を指した。

「さあ」

「高等監護官の命令だ」

「未登録の粉末は全部没収する」

「売人。どけ」

ざわめきが引く。

人が後ろへ下がる。

でも、離れきれない。

目だけが残る。

セイブルの顔は動かない。

手だけが、机の縁を強く握る。

「捜索は構わない」

「正当な令状があるならな」

隊長が詰める。

「なくても押収する」

「書類は後で整えりゃいい」

バルコニーでソリンが顎を固めた。

命令か。

独断か。

リコには分からない。

ギャロンが背を起こす。

鉄の指が、ゆっくり曲がる。

メーラの尾が止まる。

笑いが消える。

リリアが動く。

群衆の縁。

執行官も出口も見える位置へ。

ケトラが吐き捨てる。

「……渡しちまえ」

「生きてりゃ、また売れる」

セイブルは見ない。

目が冷たい。

「これを奪うなら」

「俺の命も奪うことになる」

隊長が鼻で笑う。

「大層なこと言うじゃねえか」

セイブルの声は低い。

「一度は売った」

「二度目は売らない」

手が露店の下へ消えた。

隊長の腕が跳ね上がる。

「武器を構えろ!」

刃と警棒が抜けた。

後ろの若い執行官が息をのむ。

白いスカーフ。

まだ顔が柔らかい。

彼は拳を握った。

喉が鳴る。

後で誰かが言う。

名前はジョラスだった、と。

最初の押し合いは軽い。

執行官が机を押す。

セイブルが一歩引く。

次は、もう違う。

誰かがよろめく。

盾にぶつかる。

木箱が落ちる。

石畳が鳴る。

ガラスが割れる。

セイブルの瓶が一つ、転がって割れた。

粉が広がる。

甘い匂い。

刺すように。

執行官が咳き込む。

涙を流す。

もう一人が目を押さえた。

見えないまま、警棒を振り回す。

「止まれ!」

隊長が怒鳴る。

止まらない。

群衆が押す。

恐怖は、命令より速い。

警棒が子供の方へ落ちる。

ギャロンが踏み込んだ。

鉄の腕で受ける。

鈍い音。

「落ち着け」

「同じ大きさ殴れ」

警官が後ずさる。

別の警官がギャロンの腕を見て、勘違いした。

攻撃だと思った。

打撃が鉄をかすめる。

ギャロンの返しが重い。

鉄拳が石に落ちる。

ひびが走る。

執行官が転ぶ。

リリアが横に滑り込んだ。

足が、ずれる。

月織り。

突進が空を切る。

刃は、肉じゃなく革を裂く。

ベルト。紐。握り。

武器が落ちる。

「下がれ!」

「余計に悪化させてる!」

誰に向けた声か、分からない。

でも、通る。

メーラが走る。

影みたいに。

追い詰められたストリートチルドレン。

執行官が掴もうとした。

その腕の内側へ、メーラが潜る。

「そっちじゃないでしょ」

刃の平で、警棒を弾いた。

手から抜ける。

ケトラが木箱を投げる。

突進してきた警備員の足元へ。

箱が砕ける。

男がよろめく。

怒鳴り声。

泣き声。

金属。

ガラス。

リコは噴水の陰に身を縮めた。

心臓がうるさい。

玩具の竜を握りすぎて、指が痛い。

嫌だ。

こういうの。

でも、目が離れない。

混乱が、ふっと切れた。

ジョラスが滑った。

割れたガラス片。

足が取られる。

体が傾く。

倒れた屋台の縁へ。

頭が当たる。

誰も間に合わない。

押し合いの中だ。

群衆が、やっと引いた時。

彼は石の上に横たわっていた。

首から襟元へ、細い赤い線。

白いスカーフが、色を変える。

赤い。

じわじわと。

リコは見ていた。

目が開いている。

悪党に見えない。

ただの、若い執行官だ。

焼き菓子を買って、誰かと笑う顔。

そういう顔が、そこに残っていた。

リリアの腹が落ちる。

血は見てきた。

訓練場でも、戦場でも。

でも、この静けさは違う。

まだ温度が残っているのに、もう戻らない。

メーラの顔から笑みが消える。

目だけが、冷える。

「リコ……」

囁くように呼んだ。

リコの手が空になっている。

玩具の竜が落ちていた。

メーラが拾う。

土を払う。

リコの手に押し戻す。

「これ、離すな」

「これが全部になったら、きつい」

リコは、何も言えない。

握った。

戦いが、しぼむ。

怒りが残る。

恥も残る。

息が荒い。

隊長が叫ぶ。

「止めろ!」

「下がれ!」

執行官たちが負傷者を引きずる。

担架が出る。

ジョラスのための担架。

でも、遅い。

市場が、別の音になる。

罵声。

呪い。

セイブルへ。

執行官へ。

街へ。

見える顔すべてへ。

バルコニーでソリンが一瞬、目を閉じた。

署名してきた命令は多い。

処刑までいかないものも。

いくものも。

今回の死も、帳簿に入る。

自分のインクか、誰かのインクかは関係ない。

不穏な静けさの中で、別の気配が入ってくる。

星を刺繍した深いローブの女。

群衆の縁を抜けてくる。

人が避ける。

理由は分からない。

でも、避ける。

通り過ぎた空気が冷たい。

薄い温もりが、持っていかれたみたいに。

リコは顔を見切れない。

フードの下で、くすぶる炭みたいなものが揺れた。

それだけ。

声は大きくない。

でも、届く。

「粉は置いておけ」

「子供たちを集めろ」

「ヴァエロスは同じ名前を二度と名乗ることは許されない」

命令じゃない。

でも、逆らう選択肢が最初から薄い。

そういう置き方だった。

セイブルが顔を上げる。

目に、はっきり恐怖が走る。

リリアの腕の毛が逆立つ。

理由が言えない。

ギャロンの鉄の指が、さらに強く握られる。

きしむ音。

市場の端で、銀の糸の目をした若者が凍りつく。

自分だけが知っている名を呼ばれたみたいに。

リコが振り返った。

女はいない。

さっきまでそこにいた場所へ、人が詰まっている。

折り畳まれたみたいに。

後で治安判事は、これを暴動と呼んだ。

噂は粛清と呼んだ。

商人は壊れた露店を思い出す。

親は、叫び声が上がった瞬間の手の感触を思い出す。

リコは、赤くなったスカーフを覚えている。

市場は少し血に染まり、少し警戒心を増し、少しだけ何かを失った。

負債が刻まれた。

金貨で払うもの。

罪悪感で払うもの。

リリア。

ギャロン。

メーラ。

ハリック――端で静かに火の広がりを防いだ者たち。

ケトラ。

セイブル。

リコ。

そして監視官ソリン。

それぞれが、また交わる理由を抱えて散っていった。

ヴァエロスの上空に、煙が細い筆跡みたいに渦巻く。

城壁の外では、古い力が蠢いていた。

まだ神じゃない。

でも、長い記憶を持つ何か。

もっと長い忍耐を持つ何か。

ああいう街が好きだ。

破れた約束で満ちた街が。

そして市場からそう遠くない狭い部屋で、銀色の瞳をした青年が炎の夢から目を覚ました。

喉の付け根。

奇妙な灰の痕が、かすかに燃え残っていた。

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