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一族の幻影  作者: じゃれにぁ


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3/3

ー言語の迷宮と、沈黙の支配者 ―1950ジュネーブ

レマン湖に垂れ込める朝霧あさぎりは、すべてを隠す銀のカーテンのようだった。

1950年代初頭のジュネーブ。ここは、世界のどこよりも複雑で、どこよりも「言葉」が武器になる戦場だった。

志乃は、湖畔に佇む重厚な石造りのホテル・デ・ベルグのロビーにいた。


周囲から聞こえてくるのは、優雅だが冷徹なフランス語、鋭い響きを持つドイツ語、戦勝国の傲慢ごうまんさを孕んだ英語、そして地元スイス人たちが身内だけで交わす、独特のなまりのあるシュヴィーツァードゥイッチ(スイスドイツ語)。

複数の言語が層を成し、一つのテーブルで三つの国の思惑おもわくが交差する。


そんな中、志乃は漆黒しっこくのハイヒールを鳴らし、ロビーの中央を悠然と歩いた。彼女が発するのは、完璧な発音のフランス語でも、流暢りゅうちょうな英語でもない。


「言葉は、真実を隠すためにある。数字だけが、嘘をつかない」

それが志乃の持論だった。

言語の迷宮を抜ける「数理」の瞳


志乃が対峙たいじしたのは、スイス最大手の銀行「ユニオン・ド・バンク・スイス」の幹部たちだった。

彼らは当初、日本から来たこの東洋の女性をあなどっていた。

「マダム・クリス。ここではフランス語が社交の礼儀で、英語が商売の道具だ。君は何を持って、我々と対等に話すつもりかね?」

一人の銀行家が、ドイツ語混じりの英語で嘲笑った。


志乃は無言のまま、ハンドバッグから一束の羊皮紙を取り出した。そこには、熊野の地で千年以上受け継がれてきた「クリスデングッド」の数秘術すうひじゅつを、現代の統計学へと昇華させた数式が並んでいた。

「私は、貴方たちの『母国語』で話しましょう。それは、利潤りじゅんという名の言語です」


志乃が提示したのは、戦後復興における鉄鋼需要の推移、そしてドルとフランの相関関係を、当時のどんな経済学者よりも正確に弾き出した予測グラフだった。


フランス語での社交辞令も、英語での恫喝どうかつも、志乃の前では無意味だった。


彼女は、相手がどの言語で思考し、どの言語で嘘をついているかを、その瞳の動き一つで見抜いた。

「この投資案に乗れば、スイスは今後100年、世界の金庫番としての地位を不動のものにするでしょう。断れば、貴方たちはただの『中立という名の傍観者ぼうかんしゃ』として歴史に埋もれる」


当時のジュネーブは、戦火を逃れた資産家や、旧枢軸国きゅうちゅうじくの残党、そして新興のアメリカ資本が入り乱れるカオスだった。


志乃はこの「多国籍な混沌こんとん」を逆手に取った。

彼女は、あえて自分自身が何語を話す人間であるかを特定させなかった。

ある時はドイツの技術者たちと、彼らが愛する緻密ちみつな論理で語り合い、その特許を買い取った。

ある時はフランスの貴族から、没落しかけた名門ワイナリーの土地を、優雅な交渉で手に入れた。

地元スイスの労働者たちには、彼らの現地語であるスイスドイツ語を少しずつ覚え、彼らの懐に飛び込んで信頼を得た。


「志乃様、なぜそこまでして……」

秘書として仕える同胞が尋ねた時、志乃はハイヒールのかかとをコツリと鳴らして答えた。

「そこまでとは?私にとって、これが普通よ」

そばにいる娘に伝える。

「美月、いいかい。この街は世界中の『声』が集まる場所だ。けれど、多くの者は自分の声に酔い、他人の声に怯えている。私たちは、そのすべての声を聴き分け、最も正しい『静寂』を選ばなければならない。それが、栗栖くりすが守るべき『中立』の真の意味だよ」


志乃は、ジュネーブの旧市街にある質素な時計工房の裏に、秘密の拠点を構えた。

そこには、世界中から集められた最新の通信機と、翻訳されたばかりの経済新聞が山積みになっていた。

彼女が築き上げたのは、単なる富ではない。『情報の多国籍ネットワーク』だ。


アメリカがどの企業を支援し、ソ連がどこの資源を狙っているのか。

ジュネーブのカフェで交わされる些細ささいな噂、多言語の囁きの中から、志乃は真実の金脈だけを抽出していった。


1950年代が終わる頃には、スイスの有力な銀行家たちは、志乃を「マダム・リス(リスはフランス語で百合、あるいは彼女の名前・栗栖の響き)」と呼び、畏敬の念を込めてその助言を乞うようになった。


彼女が歩くたびに響くハイヒールの音。

それは、多国籍な人々が集まるジュネーブの雑踏の中で、唯一、誰にも媚びず、誰にも惑わされない「王者の足音」として定着していった。


「準備は整ったわ。次は、この富を『日本』という器に戻すための、長い長い伏線を張りましょう」

志乃の瞳は、レマン湖の霧の向こう、遠い東の空、まだ焼け跡から立ち上がろうとしている、日本を見つめていた。


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