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一族の幻影  作者: じゃれにぁ


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漆黒のハイヒール

康一の母方の歴史です。

1945年、7月下旬。

真夏の湿り気を孕んだ風が、和歌山県・熊野本宮大社の奥深くに鎮座する栗栖くりすの本邸を揺らしていた。

蝉時雨が降り注ぐ中、奥座敷には二人の人物が対峙していた。


一人は、栗栖家現当主、栗栖 志乃しの

もう一人は、皇室の命を帯びて極秘裏に派遣された老勅使、近衛であった。


「志乃殿。……もはや、猶予はありませぬ」

近衛は沈痛な面持ちで、一枚の書状を差し出した。そこには、敗戦を見越した上での、日本の「再興」に向けた極秘プロジェクトの全貌が記されていた。


志乃は、凛とした背筋を伸ばしたまま、静かに書状に目を落とした。

「日本が、焼土になると仰るのですか」


「……このままでは、そうなります。敵軍は本土に迫り、この国の財も、技術も、そして誇りさえもが、占領軍の手によって解体されるでしょう。だからこそ、陛下は仰せなのです。1400年の歴史を持ち、かつてペルシャから『知恵』を運んできたクリスデングッドの末裔……栗栖家こそが、この国の最後の希望であると」


志乃はふっと、わずかに口角を上げた。その瞳には、悲しみよりも、これから始まる巨大な変革を見据える強い光が宿っていた。

「私たちに、国を捨てて逃げろと?」


「滅相もない。逆でございます。日本という器が壊れる前に、その中身……すなわち再起のための『種子』を、中立国スイスへと運び出していただきたいのです。あなたがたが熊野の地に隠し持ってきた黄金、そして世界を読み解く『数理の知恵』。それをジュネーブに持ち込み、来るべき新時代の『盾』となっていただけませんか」


志乃は立ち上がり、縁側へ向かった。そこからは、熊野の深い山々が見渡せた。

「近衛様。私たちは600年、この山で座礁してからというもの、この地を守り、この地の者に『一本下駄の天狗』と恐れられながらも、心の拠り所として生きてまいりました。今さらこの山を下り、海の向こうへ渡るなど……」


「志乃殿、思い出していただきたい。あなたがたの先祖がこの地に辿り着いた時、履いていたのは草鞋わらじではなく、高い踵の靴だったはずだ」

志乃の肩が微かに揺れた。

近衛は言葉を継ぐ。

「あなたがたは、元より風。一箇所に留まるべき存在ではない。世界を歩き、富を循環させ、人々を導く……それがクリスデングッドの宿命。今、この日本を救えるのは、非国民と呼ばれてもなお、海を渡る勇気を持つ貴女だけなのです」


長い沈黙が流れた。蝉の声だけが、世界の終わりを告げるように響いている。

やがて、志乃は静かに振り返った。

「……承知いたしました。ただし、条件がございます」

「何なりと」

「私が連れて行くのは、一族の者と、命を懸けて技術を守る職人たちだけです。そして、私たちがジュネーブで成すことは、一切、公にはなさいませんよう。私たちは『見えない盾』となります。日本が再び自らの力で立ち上がるその日まで、私たちは世界の影に潜み、富を積み上げましょう」


「感謝いたします、志乃殿」

近衛が深く頭を下げた。

その夜。志乃は身の回りの品を整理し、最後にひとつの頑丈な木箱を開けた。

中に入っていたのは、現代の日本にはおよそ不釣り合いな、漆黒の革で作られたハイヒールであった。それはペルシャから伝わった意匠を継承し、歴代の女性当主だけが履くことを許された、歩みの象徴。

志乃は、履き慣れた足袋を脱ぎ捨て、そのハイヒールに足を通した。

コン、と板間に高い音が響く。


「お母様、その靴……」

背後から声をかけたのは、まだ幼い娘、美月みづきであった。

「美月、よく見ておきなさい。この音は、私たちが未来へ踏み出す音だよ」


「私たちは、どこへ行くの?」

「自由の国。そして、孤独な戦いの場へ。……美月、これから私たちは『非国民』と呼ばれるかもしれない。日本を見捨てた裏切り者だと罵られるかもしれない。けれど、覚えおきなさい。本当の贅沢とは、誰にも知られずに、誰かの未来を守ること。本当の誇りとは、泥にまみれてもなお、その心に黄金の志を失わないことだよ」


志乃は美月の小さな手を握り、窓の外の闇を見つめた。

「失敗は許されない。けれど、もし失敗しても、それは新しい文明への発明だと思いなさい。私たちは1兆円、いや、それを超える富を築き、いつかこの日本が、そして世界が道を誤った時、それを正す『重し』になるのです」


翌未明。

熊野の山中から、数台のトラックが密かに出発した。

積まれていたのは、表向きは軍の重要物資。だがその実態は、栗栖家が数百年かけて蓄積してきた金塊と、世界中の経済を読み解くための極秘文書であった。


港に待機していたのは、潜水艦。

志乃はタラップを登る直前、一度だけ振り返り、熊野の山に深く一礼した。

その足元、漆黒のハイヒールは、夜露に濡れながらも気高く光っていた。

「行きましょう。日本を救うために、日本を捨てるのです」


1945年、夏。

後に世界を影から操ることになる、巨大財閥「栗栖」の、これが孤独で壮大な第一歩であった。


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