8 師弟愛は生まれるか?
走って走って走って――。
周りの人が物珍しそうにする視線なんて
蹴散らして。
そうして、やっと、
ライナが息を切らしながらたどり着いた先は、
もう第二の家となりつつある――桐ケ崎家だった。
いつもの勝手口から駆け込み、
目にも留まらぬ速さで家の中を駆けぬける。
いつも一緒に働く使用人たちは、
そんなライナを、
止める間もなかった。
――たどり着いた先は、
お屋敷の西の端、
一番奥にある、
一室だった。
スパン!
作法などぶっ飛んだライナは、
ものすごい勢いで襖をあけた。
「うおっ!!」
そこには、いつもの文机の前で驚いて
一メートルくらい飛び跳ねてしまった
ルイがいた。
「――あれ?
今日は休みのはずじゃ…」
ルイが話すのを遮り
「――ルイ様!助けてください!!
母が……
母が!!
愛禍に殺されちゃう!!!」
ライナの顔は
涙と汗と鼻水でグシャグシャになっていた。
ライナは必死に訴えた、はずなのに…
「はぁー??」
突然のことに何が何かわからない
といった表情のルイ。
「俺は今、忙しい。
冗談に構ってる暇はないんだよ。」
と、あっさり机に向き直ってしまう。
そして、また、懲りもせず、
キーボードを叩いては消してを繰り返している。
ライナはつま先から頭の天辺まで
全身が一瞬で沸騰するかのような怒りに襲われた。
制御できなくなった身体は、
わたしを見ろ!、と言わんばかりの音を立てて
ルイに駆け寄る。
そして、
肩をつかみ、強引にこちら側を振り向かせた。
「な、なんだ――!」
振り向いた瞬間のルイは、
理不尽さに怒り心頭のようだったが、
ライナの顔を見て、言葉を失った。
先ほどと変わらず、
顔はもうぐしゃぐしゃだったが、
その顔は怒りで覆われてはいなかった。
すがるような、悲しみで満ちていた。
「――お願いします…。
お、お願いだから…!
お母さんが死んじゃう…!!」
目から滝のように落ち続ける涙が、止まらない。
そして、畳に突っ伏して
ライナは小さい子供のように泣きじゃくった。
「あのなあ…」
呆れた顔で、ライナの手を取ろうとしたとき、
ルイは異変に気づいた。
ライナの手首をつかむと、
その手の匂いを嗅いだ。
「――え…?」
突然のことに、ライナは思考が止まる。
ルイは、しっかりと確かめるように
ライナの手の匂いを嗅ぐ。
「――この匂い…!!
お前の言うことは
間違ってはいないようだ…!」
ルイの目が、一瞬で獲物を追う獣に変わる。
その瞬間、ピンと張った殺気が部屋を満たした。
ライナは突然のことに、
びっくりして涙が止まってしまった。
「…へっ」
間抜けな声しか出なかった。
そして、
なぜか胸の奥で
コトン、と音がした。
ルイはサッと立ち上がると、
素早く、英国紳士に変身した。
そして、ライナに言った。
「案内しろ。手遅れになる前に。」
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飛び出していったマキが、
どこにいるのかなんてわからない。
――なんてことはなかった。
散々酔っ払って
スマホを何度も無くした過去があるマキは
もしもの時のために、
ライナのスマホに追跡アプリを入れていた。
――普通は逆だろうが。
ライナがアプリを確認すると、
マキは会社に戻っているようだった。
スマホを置き忘れたのでなければ。
この時間なら、もうスタッフたちも帰っているだろう。
ライナとあんな別れ方をしたあとだ。
家には帰りづらいだろう。
そんな事を考えていると、
『いずみスタッフ』に到着した。
エレベーターで三階に上がる。
降りて、左の奥が『いずみスタッフ』だ。
エレベーターを降りると、
三階はしんと静まり返っていた。
もう、ほかのテナントには、人がいないようだ。
『いずみスタッフ』の扉からは、
光が漏れている。
スマホを置き忘れて、本人は違う場所…、
というわけではなさそうだ。
扉の前に立つと、隣に立つルイから
隠せないほどの
紳士らしからぬ殺気が漏れていた。
空気がビリビリと震えるほどで
素肌の部分が、痛いくらいだ。
「――いくぞ。」
「う、うん。」
ライナは、ゴクリと息を呑んだ。
そして、ゆっくりとドアをあけた。
足を踏み入れると、
薄暗い部屋の一番奥、
マキの席付近の照明だけがついていた。
マキの席だけスポットライトが当たっているかのようだ。
マキがこちらに背中を向けて、
椅子に座っているのが見えた。
ライナは、ホッとして声をかけた。
「おかあ…」
その後は――言葉が続かなかった。
マキの上になにかが覆いかぶさっている。
スカイブルーのエプロンをまとった、
ひび割れたガラス細工の顔。
――愛禍、だった…。
ライナは両手で口元を抑え、ヒッと青ざめた。
よく見ると、
マキの顔も真っ青になっている。
愛禍は、愉悦を浮かべた瞳で、
マキを見つめている。
そして、
眠っているのか、目をつぶったままのマキの頬を
氷のような手で、愛おしそうに撫でている。
「――こうやって夜な夜な、命を食らっていたのか…」
ルイが愛禍に、射殺すほどの視線を向けている。
「お前は下がっていろ。――邪魔だ」
そういうが早いか、
ルイは床を蹴り愛禍をめがけて
突っ込んでいった。
ライナは、自分の身体を壊れるほどに抱きしめ
うずくまった。
『――お母さん!!』
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「――くそっ! 三日目か…!?」
ルイは呟く。
――時間がない!
おそらく、今日が覚醒三日目。
ライナについていた匂いは、
咲き誇った薔薇にも似た、むせ返るほど甘い香りだった。
だが、その甘さの奥に、
熟しきった果実が腐り落ちる寸前のような、
微かな腐臭が混じっている。
これは命が満ち、
そして尽きようとする最後の瞬間にだけ放たれる、
――死の芳香だ。
主の余命は、覚醒してから三日。
つまり、ライナの母親は、
既に、
――あの世への入り口に立っている。
ルイは、部屋の奥の壁にかけられた時計を見た。
さて、あと何時間、いや、何分の猶予があるのか…。
ルイは、チラッと入口にうずくまるライナを見やった。
――まだ、こんな子ども置いて、
あっち側にわたらせてたまるかよ!!
研ぎ澄ました殺気を更に研いで、
先手必勝とばかりに、
愛用のステッキで愛禍に殴りかかる。
主の顔に見惚れていた愛禍が、
やっと気づいたかのように、
ゆっくりとこちらを見た。
「――おや、想鎮士さんではありませんか?」
そう言うのが早いか、マキのそばから飛び上がった。
「――ちっ!」
――身軽なやつだ!
ルイが天井付近の愛禍を見上げて、
再度飛びかかろうとしたときだった。
愛禍の目がカッと見開き、赤く染まった。
カラーン…
まるで磁石が反発するように、
握っていたはずのステッキが弾き飛ばされ、
力なく床に転がった。
――えっ!!体が動かない……!!
ルイは愛禍の目を見た瞬間、
目が離せなくなり、身体の自由を奪われた。
「――くっ!」
「――ふふふっ。甘いわねえ。」
にやにやと薄気味悪い笑いを浮かべながら
愛禍は言った。
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――あ!!ルイが!!
ライナは思わず立ち上がる。
愛禍に、何か、しかけられたらしい。
遠くてここからは、二人の会話が聞き取れない。
思わず駆け寄ろうとするが、
気持ちばかりで、足がついていかない。
立ち上がりはしたものの、
足は震え、立っているのがやっとの状態だ。
『――邪魔だ。』
さっきのルイの言葉を思い出し、
ヘナヘナとその場にしゃがみ込む。
『――私が行っても……邪魔なだけ…!』
顔を伏せて、
心のなかで言い聞かせる。
物陰に隠れて、
ルイと愛禍を見ないようにする。
『このまま、ここで待っていれば……。
ルイがきっと愛禍を倒してくれる。
だから…
私は、ここで待てばいい。
それが一番いい……。』
――でも……!
ライナの心の奥から、
強い声が聞こえた。
――わたしは、このままでいいの!!
ルイが…
ルイが負けてしまったら、
わたしは、お母さんが
愛禍食べられるのを
――ただ、見ているだけなの!?
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愛禍は
ルイを手の上で転がして、楽しくて仕方ないらしい。
「いつまでも、私たちが同じって思ってないかしら?
想鎮士のみなさんが、
日々鍛錬して成長されるように、
私たちだって、進化しないと
――面白くないでしょう?」
愛禍は、蛇のようにぬるりとルイに近づいてくる。
そして、怖いくらい研ぎ澄まされたガラスの指で、
身動きのできないルイの顎を押し上げた。
再び目を合わせる、ルイと愛禍。
――次の瞬間、
ガリッ!!!
「――っ!!」
ルイの唇に紅い血がにじむ。
「……あら、自分で噛み切ったの??」
愛禍が、
考えたわね、と言った表情でこちらを見ている。
ルイの方は、痛みで、身体の感覚が戻ってきた。
やはり、催眠術のようなものだったらしい。
口の中に、鉄の味が広がるにつれて、
頭もクリアになってきた。
――怒りを捨てて、冷静になれ。
さっきまでの己を恥じ、
自分のすべきことに集中しろ――!!
「あらぁ、せっかく楽しかったのに…
まあ、
そういうがむしゃらな《人間》って
……嫌いじゃないわよ。」
愛禍は、相変わらず
薄気味悪い嘲笑を浮かべている。
――なぜそんなに余裕なんだ…!?
ルイは、思考をフル回転させていた。
何か見逃していないか!?
ルイは、はっ、と時計を見た。
「大正解〜♪
あと、十分もすれば、
私はマキをすべて食べ尽くせるわ。
あの子は、甘美で、たまらなく美味しい……。
十分で、食べ終わるなんて、
もったいないくらい……」
「――くそ!!十分もあれば……」
――しかし、一歩が踏み出せない。
まだ、足には、麻痺が残っているようだ…!
クソっ!!!
小説家なんてかまけているから、こんなことに!
お前は、桐ケ崎の名を背負っているんだぞ!
お前はまた、
大切な人を喰われてしまうのか――!?
その時だった。
「――甘いのは、あんたでしょ?」
ルイと愛禍が、
声のする方をみた。
そこには、
何か吹っ切れた顔のライナが、立っていた。
「お前何もできないくせに……
――何を言っている?」
愛禍は、ニヤニヤしながら
ライナに近づく。
――その瞬間、
愛禍の足元に、
光が走り、紋様が浮かび上がる。
「何もできないなんて、
――決めつけんな。」
ライナの手には、ルイのステッキがあった。
――そして、
愛禍の足元には、
茶会へ誘う、
黄金に輝く魔法陣が姿を現していた。
「ルイ様!
愛禍を茶会へ!」
「――わ、わかった!」
――何で!?
想鎮士ではないライナに、
《陣》が描けるんだ――!?
声をかけられたルイは、
驚いている間もなく、召喚呪文を唱えた。
「愛に囚われしものよ――
我が言葉は契約、
我が名は鍵。
漆黒の誓約のもとに、
その魂を優雅なる束縛へと導かん。
招待を拒むな、
――これは命令だ。」
その瞬間、足元から光の洪水が巻き起こり、
ここにいた全員を包みこんだ。