07 愛はすれ違うもの。
「――ただいま」
一昨日も、昨日も、今日も。
――返事が返ってくることはない。
ライナは、真っ暗な冷たい部屋を
少しでも温かい場所にしたくて、灯りをつけた。
最近、母マキは、ほとんど家に帰ってこない。
オトコでもできたか?
長年一人で頑張ってきた母だから
お祝いこそすれど、心配することはない。
しかし、どうにも、オトコではなく、
仕事場に泊まり込んでいるようだ。
古くからのスタッフが
見かねてライナに連絡をくれた。
「最近、ちょっと働きすぎだと思うのよ…」
それは、スタッフと母の距離が離れている、
証拠でもあった。
なんの音もしない、自分の部屋で、
ライナは制服のまま、
ベッドに仰向けに倒れ込んだ。
この一人ぼっちの時間が嫌で、
桐ケ崎家に頼み込み、時間を延長している。
時計を見るともう22時だ。
うちから桐ケ崎家は、電車で二駅。
それほど遠くもないが、近くもない。
歩いていくには、少し遠い。
たまたま、学校の方向と同じなので、
定期券が使えるから助かっている。
ライナは、ゴロンとベッドの上で丸くなった。
――りんと話したい。
りんが、私を殺そうとしていた、と知ったあとも
でも、ここにいてほしかった、と思うのは、
私がおかしいのだろうか…?
この静けさを平和、というのなら、
私はりんと話す地獄、のほうが良かった。
ライナは、痛くなるほど、自分の身体を抱きしめた。
そのまま、いつの間にか、
――眠りの世界に落ちていた。
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和泉マキは、焦っていた。
何に対して、焦っているのか、
本当はマキ自身もわからない。
ただ何をしても、どれだけ働いても、
焦燥感が消えることはない。
それどころか、増える一方だ。
もう一週間、いや、二週間目だろうか?
全く、自宅に帰っていない。
洗濯はコインランドリーで、
お風呂は会社に作った仮眠室兼休憩室の
シャワーを使っている。
スタッフたちも
マキが普通じゃないことに気づいているのか
遠巻きにして、話しかけても来ない。
スタッフとの距離感の近さが
この会社の根幹だったのに。
マキはふと、引き出しから、
使い古したエプロンを取り出した。
イスに座ったまま、ぱっと両手で広げて
しばらくの間、懐かしい気持ちで見つめていた。
「これを付けて、
お客様の笑顔のため、って
何も考えずに働いていたときの方が
――よかったな…」
マキは、誰に向かって言うわけでもなく、
一人つぶやいてエプロンを抱きしめた。
そのエプロンは、
まだまだ駆け出しの頃、
ふと立ち寄ったお店で一目惚れしたものだった。
毎日ギリギリの生活の中で、
ちょっと無理をして、
これからの自分に投資するつもりで買った
エプロンだった。
そこには、不思議と人のような温かさがあり、
マキは少しだけ緊張を解いた。
『そういえば、ライガさんも
このエプロンはマキによく似合う、って
言ってくれたな……』
デスク上の夫の写真を見ながら思った。
彼と離れてもう久しい。
遠い記憶に思いを馳せながら、
現実との落差に頭痛がした。
エプロンを丁寧に畳んで引き出しに戻し、
イスにぐっと体を預けた。
「――はぁ…」
半分照明が落ちた、誰もいない深夜のオフィス。
マキの何度目かわからないため息は、暗闇に溶けた。
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母、マキが、
もう二週間、家に帰っていない。
さすがに、これは、まずいだろう…。
十八年、母マキの娘をやってきたライナは、
静観を決め込むつもりだった。
しかし、
さすがに、今回はしびれを切らして、
マキがいる『いずみスタッフ』へ
差し入れを持って、様子を見に行くことにした。
桐ケ崎家には今日は休むと伝えてある。
葉子さんと茶飲み友達になってしまったライナに
文句を言う人は誰ひとりいない。
ルイですら、二つ返事でOKした。
葉子さんってすごい人なんだな、と思うが、
ライナの前では、
懐かしい祖母の話をしてくれる
おだやかな貴婦人なので、
全く実感がない。
そんなこんなで、
久方ぶりに『いずみスタッフ』の扉をたたいた。
「ライナです。こんにち……」
「――いい加減にしてください!!」
扉を開いて挨拶を言おうとしたところ、
誰かが叫ぶ声がそれをさえぎった。
ライナは、ビクッとして、ドアを半分開けたまま、
その場に立ち尽くした。
「社長は、疲れてるんです!
ちゃんと休んでください!」
「大丈夫って言ってるじゃない!」
そこでは、
社長、と呼ばれた母マキが、
古参のスタッフと言い争っていた。
マキに苦言を呈しているのは、
先日、ライナに連絡をくれた立花さんだ。
張り詰めた空気の中、立花さんは続けた。
「私は社長が、
私たちの話を一人ひとり親身になって
聞いてくれるから!
きちんと私たち働く側の視点で
お客様を選んでくれるから!
だからこそ!
ここで働きたいと思って、ここにいるんです!!」
立花さんと向かい合ったマキは、
ぐっと唇を噛んでいる。
ライナは、ささっと、
一番近いスタッフに駆け寄った。
「――な、何があったんですか?」
コソコソと尋ねる。
そのスタッフは、チラッとライナを見て、
はあ、と、
小さなため息をついてから答えた。
「最近、社長が働き詰めで、
なかなかスタッフと会話がなくなってて、
みんなちょっと不満をためてたのよ。
それでも、
お付き合いの長いお客様が多かったし、
スタッフ同士でやりとりしながら
何とかやってたんだけど…」
「けど…?」
そのスタッフはライナの顔をもう一度見て
言い淀んだ。
社長の娘、という扱いなのだ。
話しにくいこともあるのだろう…
そして、意を決したようにライナに伝えた。
「他社がやってる、
『24時間いつでもスタッフ派遣』
みたいなサービスをやる、って
決定だ、って突然言い出したのよ。」
「……それは…」
ライナもさすがに言葉をなくす。
――今までの方針と真逆ではないか。
そりゃ反発がでてあたりまえだ。
「そりゃ……、
会社として利益が必要なのはわかるわよ…。
でも、私たちもみんな
育児や介護の合間に何か自分ができることを、
と思って働いているわけだから…。
自分の家族より仕事を優先させなければならない
やり方には賛成できないわよ…。」
あなたに伝えるのは申し訳ないけれど、
そんな顔で伝えてくれたスタッフは、
本当にこの会社で働くのが楽しかったのだろう。
こんなに会社を想ってくれるスタッフに対して
母は何をやっているのか?
向こうでは、
マキと立花さんがお互い一歩も引かないまま
立ち尽くしていた。
ここは、ちょっと身内として、
一度クッションにならねば…
妙な責任感を持って、
ライナはマキと立花さんの間に割って入った。
「た、立花さんも、社長も一旦ちょっと落ち着いて…」
パァン!!
その瞬間、頬がかっと熱くなった。
気がついたら床が目の前にあった。
「ライナちゃん大丈夫!?」
立花さんがライナに駆け寄って呼びかける。
「いっつつ…」
頬の熱は引かないまま、
上半身を起こして、見渡すと
真っ青になった母がぼうぜんと立っていた。
「社長!」
立花さんの呼びかけに
ビクッと怯えたように反応したマキは、
カバンをつかんで飛び出していった。
そうか、私は母に手を上げられたのだ、
とその時実感した。
十八年娘をやってきて
初めてのことだった。
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立花さんが頬を冷やす氷を持ってきてくれた。
みんな心配そうに見ている。
ただ、こうなった元凶はわたしの母なので、
なかなか声をかけづらそうだ。
私は、主のいなくなった母の椅子に腰掛けた。
机には、書類が積み上げられ
雪崩警報が発令されそうな勢いだった。
パソコンの横には、小さな写真立てが置いてあり、
小学生くらいの私と母、
そして――亡くなった父が笑っていた。
なんでこんなふうに笑えなくなったのだろう。
マキは何も悪くないし、
ライナだって何も悪くないと思う。
ライナはマキと笑って過ごせたら
それが一番の幸せなのに…
イスにもたれかかり、ぼーっと天井を見つめていたら、
ふと、天井がにじんできた。
泣くな。こんなところで泣くな。
ライナは手の甲で自分の目を
慌ててゴシゴシとこすった。
気を紛らせるために、マキの机に視線を戻した。
特に理由はないけれど、引き出しを開けていく。
すると脇机の上から二段目の引き出しに
丁寧に折りたたまれたエプロンを見つけた。
「あっ…」
ライナはひと目見て、
母がよく着ていたお気に入りだと気づいた。
懐かしいな、と思い、
手を触れたとき、
バチン!
と衝撃とともに
知らないはずの誰かの記憶が、
濁流のように頭の中に流れ込んできた――
――深夜のオフィス。
孤独に震える母の肩。
そこに寄り添い、
甘い言葉を囁く女の姿が、そこにあった。
――私がだけが、あなたの味方だよ…
そう母に語りかけていたのは。
ライナは、ガタン!と勢いよく立ち上がり
駆け出していた。
母が危ない…!!!
――あなたの味方はわたしだけ…
そう言って母を包みこんでいたのは、
りんによく似た
ガラス細工のような女、
――愛禍、だった。