40 あの日とこの日
シリアスな感じですが楽しんでもらえたら嬉しいです!
――あの日。
忘れたくても忘れられない日。
どれだけ悔やんでも悔やみきれない。
あの頃私は、
名家の奥方という地位にあぐらをかいていてね。
今思い返しても、恥ずかしい限りよ。
桐ケ崎家の当主、私の夫。
その後を継ぐのがタクト、ルイの父。
その妻、菜摘子。ルイの母ね。
――みんな私が殺したの。
三人ともみんな。
あ、本当に殺したわけではないわよ?
夫のことをほったらかして、
自分の好きなことしかしていなかったらね、
夫が病にかかっていることに気づけなかったの。
よくある話よ。
夫は認知症になっていてね。
私は全然気が付かなかった。
お友達と遊ぶのが楽しくて、
毎日のように出かけて、
夫が家督を息子に譲ってからも
夫をほったらかしにしていたわ。
夫は、家のなかでどんどん
孤独になっていた。
そしてね、
自分の紡具を
愛でることしか楽しみがなくなっていった。
それはそれは、夫の愛は深かったわ。
だから……
紡具からも好かれて、
愛されてしまった。
そして、愛禍になってしまった…。
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「――じゃあ、
ルイのお祖父様は愛禍に……。」
ライナが恐る恐る呟く。
「……そうよ。
それだけならまだ、良かったんだけど……。」
「――え?」
「続きを聞いてくれる?」
「――もちろん…です。」
葉子は再び静かに話し始める。
――あの日、
私が帰宅した時、
家の中が恐ろしいくらい静かだった。
『……ただいま、帰ったわよ…?』
声をかけても、
反応がない。
こちらの別邸は、
本邸よりもかなり少ない使用人しか雇っていないの。
お使いなどで家を空けることもあったから、
いつもは静かだとしても
それほど気にならなかった。
でも、その日は、
何か胸騒ぎがして、
夫の部屋にいそいだの。
ドアの前に立った時、すごく嫌な雰囲気がした。
扉を開けることをためらった。
でも、息を吸い込んで一気に開けると……。
その瞬間、甘い腐臭のような気配が鼻を刺した。
愛禍は、まるで恋人を抱くように夫を包み込み
――笑っていた。
「……っ!!」
ライナは息を呑んだ。
母、マキが襲われた瞬間がフラッシュバックする。
――声がでなかった。
愛禍は
とてもいやらしい目で夫を見ていたわ。
そして、恍惚な表情を浮かべて、
夫の想鎮律を貪っていた。
『ああ、美味しいねぇ……』
そうつぶやきながら…。
聞いた話だと、
愛が深ければ深いほど
《モノ》の愛情も深くなり、
愛禍の力も強くなるそうよ。
そして、
優秀な想鎮士の
想鎮律を体内に取り込んだ愛禍は、
さらに力を強める。
ライナはゾッとした。
その結末は、どこへ向かうのか――
想像すらしたくなかった。
――想鎮士ではない、
私には、どうすることもできない。
必死に息子に助けを求めたわ。
息子――ルイの父親はタクトと言うの。
タクトはとても優しい子だった。
しかし。
想鎮士としての能力は
桐ケ崎家としては凡庸だった。
「だから、あの子には失礼なんだけど、
夫を止められるわけはない。
そう思っていた。
でも…それでも……
頼れるのがあの子しかいなくて…っ…!」
「うっ……うっ…。」
葉子は当時を思い返し、
深い深い…深い後悔の中にいた。
ライナは何も言わず、
いや――
何も言えずに、
ただじっと耳を傾けていた。
「……タクトは
あの愛禍を見ても怯まなかった。
そ…それだけでも、あの子は立派だった。」
目元を拭いながら葉子は続ける。
――陣を構成し、
茶室に愛禍を召喚した。
その後は、一緒に行かなかった私には
詳しくはわからない……。
だから、聞いた話になるわ……。
誰からって?
桐ケ崎家の嫁、ルイの母親――菜摘子さんからよ。
菜摘子さんは、
桐ケ崎の遠縁にあたる家の出身で、
タクトとは昔からよく気が合ってね。
ふふふっ。
ああ、完全に尻に引く感じよ。
いつでもちょこまか色んなところで世話を焼いていて。
まるで
止まったら死んでしまう魔法をかけられたかのように
常に動き回っていたわ。
そして、よく頭が切れた。
菜摘子さんがいるなら
桐ケ崎家も安泰だろうと言われるくらいに。
「よく考えたら、
ライナと似ているかもしれないわね。」
「――ふへっ?」
突然、自分の名を呼ばれ、
ライナの口から変な声が漏れた。
「ふふふっ。」
葉子はそんなライナを見て楽しそうだ。
「よく母親に似た人を選ぶって言うけど、
あの子もその口かしら?」
葉子は意味深な笑みを浮かべる。
――そんなこと言ったら、
まるでルイがライナのことを好きかのようでないか!?
ライナは突然の爆弾に、
目をきょろきょろさせている。
葉子はその様子を微笑ましいような様子で見ていた。
「……話が逸れたわね。
続きをいいかしら?」
「は、はいっ!」
ライナの声は、きれいに裏返っていた。
――ふふふっ。
まあ、その話は、またあとにして、
続きをお話しましょうか。
やあねー、歳を取ると
話があちこち行っちゃって。
えーと、そうそう!
菜摘子さんの話ね。
そんな感じだったから
タクトと菜摘子さんは、
二人で一人前、みたいな感じでね。
揶揄する人たちもいたけれど、
本人たちは、とても仲が良かったし、
二人とも、いや、特に菜摘子さんは
そんなの放っておけ!って感じだったわね。
思い出したら、あーおかしい!
そうね、思い出さないようにしていたけど、
楽しい思い出もあったんだわ。
忘れていたわね……。
葉子はふぅっと深く息を吐いた。
これからの話のために
この場の空気を書き換えるかのように。
――そんなふうだったから、
あの日もタクトの横には菜摘子さんがいた。
オロオロするしかできない私に
『お義母さん、大丈夫です。落ち着いてください。』
って言ってね。
あの時はね、
タクトの茶会に菜摘子さんも
一緒に入ったのよ。
でも、永遠かのような時間が流れたあと、
突然、バチンという大きな音とともに
みんながこちらの空間に投げ出された。
――タクト以外のね。
菜摘子さんは、泣いていた。
その涙は、怒りと、哀しみと、絶望が入り混じっていた。
そして、目の前の愛禍を、
射殺さんばかりの目で睨んでいた。
『……な、菜摘子さん。
タクトは……?』
私は、何も考えられなくて、
それだけしか口にできなかった。
菜摘子さんは、私のほうを振り返ると、
ぎゅっと抱きしめて言った。
『お義母さん。
落ち着いて聞いて下さい。
タクトは、
愛禍に――。』
――コトリ。
なにかが壊れる音がした。
――タクトは《断罪ノ門》を開いた。
しかし、
愛禍は、地の底には落ちなかった…。
タクトの能力では、
この愛禍を引きずり落とすことができなかった。
逆に、力を持った愛禍は
茶室を粉々にした。
その空間を打ち砕かれることは
構成者の死を意味する。
『お義母さん、
このままでは、
彼奴はお義父さんを喰らったあと、
何も関係ない人間を喰らう悪鬼へと
変幻するでしょう。
――もう、私しかいません。』
『菜摘子さん……!』
『……ルイを
ルイを頼みます。
私たちが渡せるものは渡してあります。
あの子は――強い。
桐ケ崎家を必ず引っ張っていける。』
『いやよ……いや!!』
私の涙は止まらなかった。
何もできない自分と
菜摘子さんに頼ることしかできない自分と
明日からの未来に絶望して。
菜摘子さんは、
静かに私から離れて
笑顔でこういった。
『いってきます』
菜摘子さんに勝てる相手ではないのは
わかっていた。
だから、
もう戻ってこないつもりなんだ、と悟った。
「――まさしくそのとおりに
なってしまったのだけど…。」
ライナは言葉にならなかった。
「菜摘子さんは、
自分の茶室を自分で壊した。
自分の命と引き換えに、
愛禍を茶室に閉じ込めたの。
私の夫も一緒にね。」
葉子は、言葉を切った。
ただ、沈黙が部屋を包む。
「あーもう、泣き疲れたわね。」
泣き腫らした目を隠すかのように
葉子は、両手で顔を覆い、天井を仰いだ。
ライナは、ただ、葉子を見つめていた。
「――ふ、ふふふっ!!
殺られる前に殺れ、なんて
どこのヤクザよ!
あははは!!」
突然、葉子は高らかに笑った。
過去の後悔を振り払うかのように。
目をまん丸にしたライナなんて全く目に入っていない。
楽しそうにケラケラ笑い続けた。
あんまり高らかに笑うもんだから、
ライナもつられて笑ってしまった。
「あはは!」
二人で涙が出るほど笑った。
葉子は、過去と向き合うために。
ライナは、これからの覚悟を決めるために――。
「あーー!おかしい!!
こんな事うじうじ悩んでるなんて
歳は取りたくないわね!」
ヒイヒイ言いながら葉子が言う。
「ええーっ?
葉子さんそんなに元気なのに
何言ってるんですか!?」
ライナもハァハァいいながら返す。
やっと落ち着きを取り戻した二人は、
目を合わせて微笑んだ。
「ライナ。」
「はい、なんでしょう。」
「うちの孫は、
名家の跡取りで、
あんなに整った顔で、
大作家のくせに、
性格はひねくれてて、
人見知りで、
子どもっぽくて、
俺様で、
こんな不幸な過去を持っていて、
そして、
引きこもりなのよ。」
「……はい。」
ライナから見たら
その全てがルイだ。
「それでも、あなたは
――ルイを好き、だと言ってくれるの?」
その眼差しは、
不安にかすかに揺れていた。
葉子にとってもルイにとっても
お互いがたったひとりの肉親なのだ。
その輪にライナは加われるだろうか――。
いや、加わらなくたっていいのだ。
ライナはルイの側にいて、
ルイと同じ方向を見て、
ルイの隣を歩いていきたいのだ。
「――はい。
私の想いは変わりません。」
葉子の瞳から不安が消えた。
次の瞬間、涙であふれて、
まぶたが閉じた。
「ライナ、ありがとう。」
ライナも言葉にならなくて、
ただ首を横に振った。
どのくらいそうしていただろう。
葉子がまぶたを上げた。
もう、その目には涙はなく、
先代亡き後、桐ケ崎家を率いてきた威厳を称えていた。
「私のすべてをかけて、
あなたを想鎮士にするわ。
ついてこれるかしら?」
ああ、いつもの葉子だ。
自信に満ち溢れていて、
自分の選択に迷いのない。
ライナは、
ぐっと口角を上げて笑った。
「よろしくお願いします!!」




