01 愛すべき出逢い?
「でか…」
人間も焼き尽くされそうな、真夏の大都会東京。
高級住宅街のど真ん中、
そこにくたびれた学生カバンを下げた
女子高生が立っていた。
ジリジリと肌を焼くアスファルトの熱気と、
どこからか聞こえる蝉時雨が、思考を鈍らせる。
彼女は和泉ライナ。
十八歳、高校三年生。
どこにでもあるセーラー服を着た彼女が持つ
くたびれたカバンには
愛用のエプロン、手袋、新品の雑巾…
勉強道具は一つもない。
彼女が立ち尽くすのは、とある邸宅の門の前。
とりあえず、でかい。
他の言葉で言い換えたいが、
思いつかないくらい、でかい。
そして、両側には
きちんと手入れされている木塀が
静かに建っている。
しかも、
どこまで続いているのか、わからないほど長い。
壮大な歴史を感じさせる趣のある建物だ。
とりあえず、
ライナの家はこの門にすっぽり入る
ということだけはわかる。
瓦屋根の荘厳な純和風の門は、
扉もそれに見合ったサイズで、かなり大きい。
背だけは高いが、
ごぼうのようなガリのライナには
力技で開けられない、ということだけはわかる。
なんかもう帰りたいな…
と思いながらも、
仕事だしなあ、きちんと勤めななきゃ、
母さん、家にあげてくれないしなあ…
なんて、
ライナはあっちこっちに思考を飛ばしていた。
母・マキは祖母の代から続く家事代行サービス
『いずみスタッフ』の社長だ。
優秀なスタッフを多数抱え、評判も上々。
ただし、スタッフ第一主義を掲げるマキは、
少しでも不満があればすぐ配置換えをしてしまう。
そんなとき、便利に使われるのが
──私。
和泉ライナ、十八歳。
今回も例に漏れず、
桐ケ崎家の古株スタッフ・末さんが
急遽入院し、代打に選ばれたのだった。
今回少し趣が異なったのは
母のマキがライナを派遣することを
なかなか決断しなかったことだ。
『……そういや、
なんであんなに今回は、
渋ってたんだろう…?』
そんなこんなで、半ば放心状態で
門の前に突っ立っていると、
しびれを切らしたかのように、
小扉を開けて、お迎えの人が出てきた。
「お待ちしておりました。こちらからどうぞ。」
そうか、あのサイズなら、ライナにもあけられそうだ。
そんなくだらないことを考えながら、
迎えの人に続く。
歳は三十代半ば、母くらいだろうか。
きっちりとまとめられた髪、
やはり、といった感じの和装のお仕着せ。
墨を溶かしたような青が
この家の重厚な佇まいと静かなこの人に
とても良く合っている。
そんな事を考えながら、
キョロキョロ見渡しつつ、案内人の後ろについていく。
失礼極まりないことを知りつつ
好奇心に負けたライナは、
外の門だけではなく、
予想通りのおそろしくでかい庭に
感心しながら進んでいた。
玄関まで続くであろう石畳は
年代を感じさせる艶を放っている。
きちんと打ち水がしてあり、枯葉は一枚も見えない。
古いだけではなく、きちんと手入れが行き届いている。
石畳の両脇には、これまた年季の入った
躑躅に桜が品よく植わっている。
金持ちなだけでなく、センスもいい。
玄関にたどり着くことなく、その手前で脇道に入る。
てか、玄関見えてないし、
どんだけだよ……
なんて
思ったことは隠しておこう。
「こちらへどうぞ」
使用人用の勝手口から中に入ると、
良く言えば、由緒正しい、
まあ、ざっくばらんに言えば、
古めかしい土間の台所が現れた。
さすがに、
かまどではなかったので
そこはホッと心をなで下ろした。
ライナは、基本的に掃除担当だが、
請われれば、料理も対応する。
庭の草むしりだって、お金のためなら、
炎天下でもやり遂げる。
家電の簡単な修理までやってしまう
オールマイティーなスタッフなのである。
だから、母の頭の中に、
何かあった時にはライナをぶち込め、
みたいな掟があるのではないだろうか。
いや、確実にある。
ライナもそれにあがらえない。
まだ、自分で稼いでいない身としては、
住む家がなくなると困るのだ。
「まずは、ご主人様にご紹介いたします。」
そうして、
長い長い長い廊下をしずしずと歩きつつ
相変わらずキョロキョロしつつ、
たどり着いた先は、
建物の西の端の、
これまた整った日本庭園のお庭に面した
離れのような一室だった。
こんな場所に住む人は、
さぞかし神様のような人だろう。
――いや、そうであってほしい。
無茶難題は慣れているが、
いや、慣れたくないのだが、
平穏な日々であってほしい。
ライナは神様に、必死に願う。
部屋の前の廊下に正座して待つように促され、
同じように正座した案内人の女性は、中へ声をかけた。
「ルイ様、お忙しい所失礼いたします。
松木でございます。
本日から末さんの代わりにいらっしゃった
和泉ライナさんをお連れいたしました。」
おお、この人は私の名前を知っていたのか!
そして、この人は松木さんというのか!
と驚くライナを尻目に
中から声がかかる。
「入れ」
少し低めのよく通る耳障りの良い声だった。
これがいわゆるイケボというやつか。
ライナが、先程の『入れ』というひとことを
エンドレス脳内リピートしながら感心していると、
案内人の松木さんは、慣れた手つきでスッと襖を開け、
中に向かってお辞儀をした。
慌ててライナも
「よ、よろしくお願いしまひゅ!」
と噛みながらお辞儀をした。
ちゃんと準備をしておくべきだった、
と後悔しても、もう遅い。
いつもはこんなことないのに!
と心の中で叫びながら
目をぎゅっと瞑ったまま、
廊下にベッタリとおでこをこすりつけていた。
「顔を上げろ」
また、先ほどと同じ、
心臓を射抜かれるかのような低目の通る声で
ルイと呼ばれた男は言った。
ライナは
一秒が一時間にも感じられる速度で
恐る恐る顔を上げた。
そこにルイはこちらを向いて座っていた。
「――遅い。」
背筋をスッと伸ばし、
痩せすぎす、程よく筋肉がついているであろう身体に
ふわりと浴衣を羽織っている。
部屋着であるはずなのに
シワ一つない無地の墨色の浴衣に
銀鼠の帯を腰に締めている。
派手さはないが、その生地の艶からして
このお屋敷に見合った良い着物であることが
一目瞭然である。
顔を見れば、
濡羽色の髪に、陶器のように艶のある肌。
スッと切れ長の目の中から、
浴衣の色のような深い墨色の瞳が、こちらを伺っている。
鼻筋はスッととおっており、
薄めの唇は全体のバランスを整えている。
誰が見ても
おそろしくイケメンな男性がそこに座っていた。
こんな家のお坊ちゃんなら、
もやしのようなヒョロ男でもお釣りがくるが、
それをいい意味で裏切っている。
部屋の中からは、古い本の紙の匂いと、
嗅いだことのないお香のような、
不思議で落ち着く香りがした。
室内は、きちんと整頓されていて、
これまた家主に見合う、
質の良い整った家具が最低限並んでいる。
奥に見える文机もよく使い込まれて
いい味を出している。
文机の上には、仕事でもしていたのか、
開きっぱなしのパソコンが置かれている。
そのまわりには、
何やら懐中時計の中に時計ではなく、
赤い石が見えるよくわからないものも置かれている。
更によくわからないのが、
文机の横に、英国紳士御用達!!
と言わんばかりのステッキが
傘立てのようなものに立てられている。
――何に使うんだろう…?
足が悪そうではないし……。
そんなふうな感じで、
部屋の中は不思議だらけだわ、
出てきた主は
今まで見たことのないイケメンだわ、
とにかく、
――今ここに心あらずだったのだ。
「…い!
おい!
おい!!!
きいているのか……!?」
はっと気がついた時には、
おそろしく整った顔が
激しい怒りを抱えた顔で
ライナの目の前にあった。
どうやら、
呼びかけが全く聞こえないくらい
ルイ様とやらの顔にのぼせていたらしい。
確実にライナが悪い。
――弁解の余地なし。
「本当にこんな奴が末さんの代わりなのか!?
ボーっとして突っ立ってるだけのやつはいらん!
それに何だ?
なんかお前のポケットの中のものはなんだ!?
ごちゃごちゃとうるさい!!!
とっとと帰ってもらえ!」
ライナは、ドキッとして
大切なモノが入っている
ポケットを押さえる。
『――うるさいってなんだ?
しかも、なんで、ポケットに何か入ってるって
わかったんだろう……??』
疑問を浮かべながら、
ちらりとルイ様とやらを見やると
目の前の御人は、
綺麗な顔でひたすらに不機嫌そうだ。
ライナにとっても初めての事態である。
顔合せで帰れと言われたのは初めてである。
まあ、確実にライナが悪い。
悪いんだけれども……。
――コイツも気が短すぎやしないだろうか。
今までのクセしかない顧客が頭をよぎる。
対人恐怖症すぎて、
会話が全て置き手紙のユーチューバーとか。
あの大ベテランの末さんが長年勤めていたのだ。
むしろ、末さん以外では
太刀打ちできなかったのではあるまいか…
そうじゃなければ、他のスタッフで事足りるはず……。
ライナの中で、
『コイツはヤバイ奴』認定が早々に下された。
――しかし、
このまま引き下がれないのが、
ライナの辛いところである。
スゴスゴと帰ると判断した瞬間、
母親のマキに実家から追い出される。
まだ寝床は失いたくない。
また、ライナがここで踏ん張らなくては、
『いずみスタッフ』としても、
長期優良顧客を失いかねない。
それは困る、非常に困る。
スペシャルピンチヒッターとして、
プロとして、それだけは避けなければならない。
つまり、
このルイ様とやらの機嫌を取らねばならぬ。
ライナの平穏な日常を守るために、
――選択肢は他にない。
それにしても、末さんから聞いた話と違う。
静かで、的確に仕事を指示してくれて
特段文句も言わないいい顧客と聞いていたのだが。
末さん以外にはこうなのか!?
松木さんも
「初めていらっしゃったばかりですから…」と
援護射撃をかけてくれているが
ルイ様とやらはひたすら文句をたれている。
しかし、
ヤバイ奴=ルイ様をこちらに振り向かせて、
これからもよろしく、
と口にしてもらわねばならない。
やれるかどうかではない。
――やるのだ。
背中を汗が流れ落ちる。
暑さのせいではなく、今の緊迫した状況から来る冷汗だ。
ライナは腹をくくった。
「あの!」
ルイと松木がこちらを見た。
ライナはそれを確認し、
ガバっとお辞儀をした。
「先ほどは、大変失礼いたしました!」
「このような大きなお屋敷は
中々訪れる機会がないため、
舞い上がってしまいました。
長らく勤めてまいりました末からも
しっかりと業務内容は引き継いでおります。
若輩者ではございますが、
しっかりと務めさせていただきます。
一週間。
まずは様子を見ていただいて、
それでお気に召さなければ、
担当を変更いただいても構いません。
どうかこちらで働かせていただけないでしょうか?」
とりあえず言いたいことは言い切った。
頭を下げたまま、相手の反応を待つ。
スッスッと音も立てずにライナの方に歩み寄ってきた。
キュッと握りしめた手に、
緊張のせいか汗がにじんでいる。
チッ、コイツ作法も完璧だな。
年上なのは棚の向こうに放り投げて、
ライナは心の中で悪態をついた。
と、次の瞬間
ぐいっと顎をつかんで、顔を無理やり上げられた。
目の前には先ほどと同様の整った顔。
一瞬息が止まり、顔に熱が宿る。
しかし、次の瞬間思い出した。
――コイツは性格が最悪だってことを…
「お前、なんか勘違いしてないか?
いいか?
ここで働けるのは
『俺が許した者』だけだ」
もっともらしいことを言い放ち
眉間にシワを寄せこちらをにらんでくる。
残念ながらもう、全く怖くない。
コイツは、『ヤバイ奴』なのだから。
松木さんが向こうでオロオロしているが、
なんの役にも立っていない。
ライナとルイはしばらく睨み合っていた。
ふと、ルイの目に怒り以外の何かがよぎった気がした。
心配というか罪悪感というか。
気のせいだろうか?
やがて、ルイが根負けし、
「勝手にしろ…」
と言い捨てて顔から手を離し
ライナに背中を向け、机に向かって何かを書き始めた。
とりあえず仕事をしてもいいらしい。
ライナはとりあえず寝床は確保できたという安堵で
ふーと息を吐いた。
それをちらっと横目で見たルイは
ドサッと何かを投げてよこした。
山盛りの着物と、書き潰された紙の山だった。
「末さんがやっていた通りに
やってくれ。
引き継ぎは完璧なんだよな?
一つでも間違えたら追い出してやるから
覚悟しておけ。」
ルイはそう言い捨てて、再び机に向かった。
ライナはふつふつと湧き上がる怒りを必死に鎮めるため
とりあえず目の前の仕事に取り掛かることにした。
明らかに宣戦布告された
ヤバイ奴と一週間――。
どちらが先に音を上げるか勝負である。