12 香りと想鎮士
ぱちっ。
「……うぅ…。」
――まだ、眠い…。
ライナは、もぞもぞと顔だけ動かして、時計を確認する。
十一時四十七分。
今日は……休みだっただろうか?
全く働かない思考を、動かす気力もない。
――どうでもいいや。
再び目を閉じようとした時、
香ばしい醤油の香りが
ライナのちょっと低めの鼻をくすぐった。
「……ん!?」
ベッドから跳ね起きて、
勢いよくリビングのドアを開けると、
カウンターの向こうに料理をするマキの姿が見えた。
「――お…お母さん……!」
そこには、
おっちょこちょいだけど、いつも一生懸命で、
きちんと目の前の人に向かい合う、
朗らかで人好きな母――マキがいた。
「あぁ、ライナ起きたの?
お昼食べる??
母さん特製チャーハン。
そのくらいしかできなかったけど…。」
そう言って、屈託なく笑う母は、
私の記憶の中の、いつもの母だった。
「――おかあさ、ん…」
「え、え!ライナ、どうしたの!?」
ライナの頬を温かいものがつたう。
もう涙なんて枯れたかと思っていたのに――。
号泣する大きな娘に、マキはひたすら慌てて、
駆け寄ってきた。
そして、ゆっくりと背中をさすってくれた。
母の手は、温かかった。
触れられるたびに、ライナの心は、
温かいもので満たされていた。
やっと落ち着いて、
二人でいつものテーブルで向かい合って、
チャーハンを食べた。
昨日から、小さな子どもみたいだな、と
ちょっとバツが悪い感じがした。
――しかし、
今まで知らず知らず溜めていた、
「いい年なんだから甘えちゃだめだ」みたいな気持ちを
外に吐き出せたことで、
ライナの心の中は
夏の青空のように、天高くまで澄みきっていた。
――そう言えば、
マキもいつもなら仕事のはずだ。
どうしたのだろうか?
そう思って、ちらりとマキを覗き見ると、
何か言おうとためらっているマキと目があった。
「――仕事、どうしたの?」
ライナは素直に聞いた。
聞かれたほうが答えやすいこともある。
「――あのね…
今日、お母さんすごく…
寝坊しちゃってさ!」
マキはあはは!っと、
いつもの愛嬌のある笑顔をライナに向けた。
「……へえー珍しいね。」
まあ、昨日が昨日なだけに、
むしろ、もう少し寝ていなくて大丈夫だったのだろうか
と、ライナは心の中で心配した。
「――それでさ、
慌てて会社に電話したら
立花さんがでてね、
『だから言ったじゃないですか!
ちゃんと休んでください。
倒れられたらこっちが困るんです!』
って、えらい剣幕で怒られてさ……」
「あー、でも、そういってくれる人
ありがたいね。」
ただでさえ、ワーカーホリックなのだ。
娘からしても、
――立花さんの存在は、ありがたい。
「……そうだよね。
私たちはいつもの社長が好きですし、
今の『いずみスタッフ』を愛してるんですから!
だって。
……ホント、
……ありがたいよね…。」
母は、横を向いて、天井をみあげた。
――泣いたっていいのに。
強くっても、強くなくっても、
いつだって私にとっては、
大事なお母さんなんだから。
ライナは、母の涙を見ないふりをして、
チャーハンをかきこんだ。
食べ終わって、皿を洗っていると、
少し落ち着いたマキが思い出したように
ライナに話しかけた。
「――そう言えば、
昨日ライガさんの夢を見たわ。」
「え、お父さんの?」
ライナはおもわず手を止めた。
「うん、最近見てなかったんだけどな……
なんか、懐かしい香りを嗅いだ気がして…
ライガさんの香りだったんだよね…
呼びかけたら、びっくりした顔をしてたわ。」
マキはそう言うと、いたずらっぽく笑った。
――ん…?
香り――
そう言えば、父の面影を思い出す香りを
最近、何処かで嗅いだような……
ライナは何か引っかかったが、
その糸を手繰り寄せることまではしなかった。
==========
――その夕方の桐ケ崎家。
いつものつもりでやってきたライナは、
なぜか、正座させられていた。
目の前には、麗しのご主人様、ルイ。
今から何が始まるのか…。
ルイは、いつものように、墨色の浴衣を着て、
こちらをじっと見つめてきた。
なんだろう…?
何かやらかしただろうか?
ドギマギしてルイの言葉を待っていると、
はあーーーっと盛大なため息をついて
ルイは、重い口を開いた。
「お前の父は、
――愛禍について知っていたか?」
予想もしていなかった質問が来た。
「……もう一度、お願いします。」
聞き間違いかもしれないので、
念のためリピートを依頼する。
ルイが渋柿を食べたような顔になる。
そんな顔なのに、
元がイケメンだとかっこよく見えるから不思議だ。
「――もういい。」
くるりと向き直り、いつものように
文机の上のパソコンに向き合うルイ。
ライナは、
頭の上のクエスチョンマークの行き場を探した。
――なんか…今日…こんなことなかったっけ…?
そこで、あ、と思い当たったライナは、
ルイに聞くことにした。
「そう言えば、
母が、昨日夢の中に
久しぶりに父がでてきた、
と言っていました。
母が父と同じ香りがしたっていってましたが、
それってルイ様の香りでしょうか?
昨日、ベッドまで運んでくれた時に、
寝ぼけていて父と間違えたのかもしれません。
私も似たような香りを
最近、嗅いだ気がしたので
ルイ様の香りかなと思って……。
私は香水なんて付けないので――。」
と、そこまで口にした時、
ルイがこちらを見ていることに気づいた。
先程まで、
疑問に揺れていた瞳が
確信を得た光を放っていた。
=============
「あなたがここに来るなんて、
珍しいこともあるものね。
長生きはしておくものだわ。」
そう言った葉子の目線の先には、
何かを決意したような様子のルイが立っていた。
ここは桐ケ崎家の別邸。
都内から2時間弱。
鎌倉の山林にひっそりと建つ、
こじんまりとした平屋の邸宅である。
ちなみにこじんまりとは、
都内の本邸と比べた場合であって、
一般庶民から見ると、
誰が見ても豪邸に違いない大きさの
純和風の邸宅である。
普段全く近寄ろうとしない、
むしろ、距離をおきたくて仕方のない場所である。
しかし、
その邸宅へ足を向けたのは、
ルイの中の疑問と推測の答えを知っているであろう
――葉子に会うためである。
ルイは、推測が外れていることを期待してはいるが、
おそらく外れることはないだろう。
言わずもがな、ライナの出自についてである。
約束を取り付けた時点で、
葉子には要件がわかっていたのだろう。
いつもの、どうしても逆らえない威光の奥に、
ようやく気づいたか、という表情が見える。
「さて、遠くまでお越しいただいたのだから、
積もる話でも……と言いたいところだけど、
そんなつもりじゃなそうね。」
「――からかうのは、やめてください。」
「ふふふっ。なんだか楽しめそうねぇ。
まずはおかけなさい。」
すすめられるまま、
葉子の向かい側のソファに腰を下ろす。
こういう人なのだ。
おだやかな見かけなのに、
平気で人を煙に巻く。
「単刀直入に聞きますが、
和泉ライナは
桐ケ崎家のような
『想鎮士』の血筋ですよね?」
「――どうしてそう思うのかしら?」
やはり、正面から聞くだけでは、簡単に教えてくれない。
根拠を述べろ、
仮説を立てろ、
論理立てて話せ。
幼い頃から、口酸っぱく言われてきたことだ。
桐ケ崎家の当主になるのであれば、
想鎮士を名乗るのであれば、
絶対に必要なスキルだ、と。
「そう考えた理由は三つ。」
「――そう、三つも見つけたの?」
葉子は、ルイの感情をいちいち逆なでしてくる。
ルイは、ぐっとこらえて口を開く。
「一つ目は、
愛禍が見える、
その声が聞こえ会話できる、こと。
見える例は、聞いたことがありますが、
声まであんなにはっきりと聞こえ、
しかも、
会話できるものは聞いたことがありません。」
「続けて。」
葉子は、ルイを鋭い視線で促す。
「二つ目は、魔法陣が描けたこと。
恥ず
緊急時に備えて、
私のステッキは、同等の力を注げば、
魔法陣が描ける契約魔法がかかっています。
ライナが、描けたということは、
少なくとも、
――私と同等以上の力を持っています。」
葉子はソファに深く腰掛けたまま、
耳を澄ましている。
続けていい、ということだ。
「三つ目は、
ライナの父親の香りと私の香りが同じ、
ということです。
茶会から現実世界に戻った際、
しばらく、あの世界の残り香に身体を包まれます。
あの香りは、『幽冥』。
この世には、決して存在しない香りです。
私の香りが、ライナの父の香りと同じだったと
ライナの母が漏らしていたと聞きました。
また、ライナも同じ感想を持っていました。
二人が証言するなら、間違いはないかと。」
ルイは、すべて話し終えたあと、
じっと葉子の目を見た。
いつもは、即座にそらしたくなるが、
今回はそうはいかない。
これが本当なら、ライナへの接し方が変わる。
ルイ自身だけではなく、
桐ケ崎家の当主として。
本当は、当たらないことを願っている自分がいる。
――『普通の女子高生』であってほしいのだ。
たまたま、
ライナが愛禍の主になってしまい、
俺が愛禍の戦いに巻き込んだだけだ。
こんな世界の中で、
あんな少女が生きていかなくていい。
ただ平和な世の中で、
笑っていてほしいのに……。
しばしの沈黙のあと、
葉子は、ふぅ、と一息はいて告げた。
「――いい見立てね。
これであなたは、満足かしら……?」
「――っ!」
――そうか…。
葉子が愛禍や想鎮士について、
ライナに話しても問題ない、といったときから
胸騒ぎはあった。
魔法陣が描けるということは、
ライナの潜在能力はルイと同等、
もしくは上。
そんな家門は限られる。
「お祖母様、もう一つよろしいでしょうか?」
「――まだあるの?」
葉子は、緊張の糸をピンと張ったままの声で答えた。
「もしかして、
――藤凪家、でしょうか?」
ピクッ、
葉子の微笑みの奥で、
鷹のような眼差しが光る。
「――なぜ、藤凪家と?
もしかしたら、もしもの時のため、
桐ケ崎家で能力があるものを
私が、囲っていたかもしれないわよ?」
ルイを試すような笑みで見下ろす。
鷹に見つめられたネズミのような気持ちで
ルイは、ゴクリと喉を鳴らした。
しかし、
ここで引き下がるわけにはいかない。
膝の上の拳をぐっと握りしめ、
ルイは、答えた。
「……その可能性も考えました。
しかし、私が調べた範囲で、
そのような出生のものが見つからなかった。
逆に、それならば、
お祖母様は絶対に私に会わせることはない、
考えました。」
――これでどうだ…!?
ルイの手札はすべて見せた。
ここまで詳らかにした内容で
葉子が首を縦に振らなければ、
ライナについては分からないままだ。
葉子は黙ったままこちらを見ている。
背中を嫌な汗がつたう。
葉子と話す時、この間が、いつも果てしなく感じる。
どっちだ――?
葉子は、おもむろに立ちあがり、
窓の外を見つめた。
そして振り返り、ルイに告げた。
「――正解よ。」




