10 地の底より愛を込めて。
「――サキよ。
ここがただの
――おしゃべりの場と思っていたか?」
女をすべて蕩かすような笑顔なのに、
この空間すべてを凍りつかせるような声で、
ルイは告げた。
ライナは恐ろしすぎて身動ぎすらできない。
この嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
「あらぁ~、えらくご立腹のご様子で。」
全く気にもとめないサキは、
ルイを嘲笑っていた。
春の午後の陽気だったこの場所が、
極寒の南極に感じられる。
空気が痛い、痛すぎる……。
「まずは、主から離れろ。」
ルイが、少し笑顔を崩し、
愛禍を睨みつける。
「なぜ?」
愛禍――サキは、
扇子を広げ口元を隠しながら
値踏みするような視線をルイに向ける。
「――どうやら、
此処の主人が誰か
分かっていらっしゃらないようだ。」
ルイはスッと右手を上げ、
指揮者かのように優雅に指を振った。
「――っ!」
愛禍は、極限まで目を見開き
驚愕の表情になった。
――え?
なにが起きた?
ライナは愛禍とルイを
交互に見やる。
しかし、
ルイはライナと目を合わせようともしない。
混乱するライナを尻目に、
ルイは静かに零す。
「――ああ、口が聞けないと少し不便だな」
スッとまた指を振る。
「――っは!この!
想鎮士ごときが……!!!」
「わかったか??
この空間は、俺がルールだ。」
再び、満面の笑みで、
ルイは愛禍に話しかけた。
ライナは意を決して、ルイに尋ねた。
「ど、どうなってるの…?」
ルイはコチラを見ないまま、
愛禍を見つめたまま答える。
「先程、言ったとおりだ。
茶室では、
俺がルールだ。
愛禍の行動を制限するなど、
容易いことだ。
俺が願えば、天気も思いのままだ――。」
そういった瞬間、
四阿の外が、ザァーッっと大雨になり、
雷鳴が轟く。
「ええっ!」
ライナが驚く隙もなく、
再び、暖かな日差しが差す、春の陽気になる。
「な、なにそれ…」
「此処は、俺の思いが作り上げた空間だ。
俺に操れないものはない」
そういいながら、手のひらをくるりと返すと
愛禍が首元を押さえて苦しみだした。
「――っ、かはっ!」
「お前ごときと同じ息を吸うのも、
腹立たしいな……」
ライナは背中の汗が止まらなかった。
怖い、いつものルイも怖いが、
本性がこわすぎる…!
ぐらり…
その時、マキが愛禍の手から離れて
床に倒れそうになった。
――あっ……!!
「お母さん!」
ライナが慌てて駆け寄り、抱きとめる。
軽い……
ライナはぎゅっと唇を噛む。
もっと…もっと早く…!!
後悔ばかりが、胸を締め付ける。
ぎゅっと抱きしめて
ライナの座っていた椅子に、ゆっくりと座らせる。
それを横目で確認したルイは、
大きく両手を振りかぶった。
「――さあ、終幕だ。」
その声は、画面を外した《悪魔》そのものだった。
「──道を踏み外したその魂よ。
この世にも、天にも、もはや居場所はない。
想鎮士たる我が手で、
滅びの扉をその身に刻め──
開門・《断罪ノ門》!」
勢いよく振り下ろす両手とともに、
ルイの声が、空間そのものを裂いた。
茶会のテーブルが砕け散り、虚空が割れ、
足元に黒き螺旋の門が開かれる。
無数の手が、悲鳴すら許さぬまま
サキを引きずり落とそうとする。
それは、想鎮士にのみ許された、
「悪しき愛を葬る」ための術。
ライナは、マキをしっかりと抱きとめ、
門の中に引きずり落ちていくサキから
目を逸らせなかった………。
「……マ…キ」
門の縁から最期の指が離れ、
無数の手の中で
どんどん引きずり落とされていくサキが
見えなくなった時、
静かに扉は閉じた。
愛禍――サキの最期だった……
黒き門が閉じ、すべてが終わった。
四阿は先程までと同じように
そこにあった。
立ち上がったルイと
マキを必死に支えていたライナも
先程と変わらずそこにいた。
ルイは深く息を吐き、
いつもの表情に戻ったように見えた。
「戻ろう…」
少し疲れを滲ませた声で、ルイは小さく呟いた。
――終わったんだ…。
ライナは頷くと、マキの脇に肩を入れ、
しっかりと抱え直した。
ルイがスッと左手を振ると
見慣れた『いずみスタッフ』に戻っていた。
服も見慣れた制服で、
マキも着古しているスーツ姿になった。
ズシッ……
現実に戻ってきたら、
マキの重さが、愛おしく思えた。
「手を貸す」
ルイが、マキを反対側から支えて、
休憩室にあるソファベッドへ寝かせてくれた。
「……ありがとう」
その背中に、ライナは下を向いたまま呟いた。
あの時、ルイに助けを求めなければ……、
あの時、ルイが来てくれなければ……、
――マキは此処にはいなかった。
ライナはまた、家族を失うところだった。
本当に世界でたった一人になるところだった。
今の気持ちのすべてを伝える言葉を、
ライナは持っていなかった。
できるのは、ただ、
感謝すること、
だけだった。
「これくらい何ともない」
ルイは気づいていないかもしれない、
ただ、母をここまで運んでくれたことに
お礼を言っただけだと思っているかもしれない。
――そのほうがいいかもしれない。
俯いていたライナの目は、
いつの間にかおおきな水たまりになっていた。
泣くな、…泣くな…!!!
両手をぎゅっと握りしめるが、
俯いた目にうかんだ涙は、
重力には逆らえるはずもなく…
ポタッ…
「――あっ!」
落ちてしまった涙に、思わず声が出た。
マキの傍に座っていたルイが振り向いた。
「……どうした?泣いているのか…?」
「……ちがっ!」
目元を隠そうとした腕を、ルイに優しくつかまれた。
驚いて見上げた先、ルイの整った顔が目の前にあった。
――二人の視線が交錯する。
「……大丈夫…じゃないよな?」
いつもの冷徹な声ではなく、
ライナの心を包み込むような温かい響きだった。
スッと引き寄せられ、気がつくと
ライナはルイの腕の中にいた。
背中と頭を優しくポンポンとたたく。
幼い子どもをあやすように。
「マキさんが助かってよかったな…」
「……っふ、ふぇっ…」
母が生きているという喜びか。
現実に戻ってきたという安心感か。
愛禍が葬られた安堵か。
ルイの腕のなかが心地良いせいなのか。
「――泣きたいだけ、泣いていい。
落ち着くまでこうしているから……」
大事な人を慈しむような声で
囁かれたからなのか。
ライナはもう、
涙を止めることなんてできなかった。
「……こ、怖かった…!」
「そうだな、怖かったよな…」
「もう、お母さん死んじゃうかと…」
「うん…大丈夫。生きてるよ。」
ルイの腕の中は、温かくてホッとして、
いつまでもこうしていてほしかった。
ライナが今まで身体の中に溜め込んでいた
不安、焦り、憎しみをすべて涙に乗せて、
吐き出そうとしていた。
ルイは、相槌を打ちながら、
ずっと頭をやさしく撫でていた。
ライナが落ち着くまで、ずっと――。




