第7話「黒き牙、霧を裂いて」
霧が濃かった。
それは夜明け前の山裾、湿りを孕んだ、纏わりつくような“気配”だった。
ガリムは砦の裏手に立ち、草の茎をくわえながら空を見上げる。
吐き出した息が白いのは、気温のせいだけではない。
「……うっわ、最悪な空気やなあ……」
霧の向こうから、ぬるりと“なにか”が這ってくる気配。
魔族の時代――そう呼ばれた遥かな過去から、干涸らびずに残った“残響”が、今、蠢いていた。
砦の中、朝。
美奈は布団から体を起こすと、小さく眉をしかめた。
(……この布団、やっぱり変なにおいがする。誰か使ってたのか、それとも……)
ごくりと喉を鳴らし、髪を結い上げる。
体内時計だけを頼りにした目覚めにも慣れつつあるが、朝の独特な空気にどこか緊張を覚えていた。
食堂へ向かうと、ムスリがすでに座っていた。
背筋を正し、太刀の手入れを終えた直後のようだった。
「……おはようございます」
「起きるのが早いのは悪くないが……無理はするな」
「そう言われると、かえって早く起きようと思ってしまいますけど」
ムスリは少し目を細めたが、それ以上は言わず、湯気の立つ器に視線を落とす。
その頃、砦の外。
遠くで“獣の咆哮”が響いた。
木を薙ぎ倒すような重低音。
霧の中で音だけが鮮明に届く。
「来たか」
ムスリが立ち上がる。
大太刀を手に取り、音の方向へと目を細めた。
「ガリムを――」
「呼ばんでええよ。もう来とるわ」
ガリムが扉を蹴って現れる。
草を噛み捨て、目元に笑みを浮かべながらも、その雰囲気には一切の軽さがない。
「魔獣や。……しかも、ちょっとヤバいやつ」
「視認したのか?」
「まだ。けど、空気が教えてくれんねん。“暴走型”やで、これ」
美奈もまた、空気の異変を感じていた。
砦の外へ出ると、木々が異様な音を立てて揺れている。
その中心――“空気そのものが拒絶反応を起こしている”ような一角があった。
《……くるぞ。これは、狂気の匂いじゃ。かつてわしが封じた獣の“末裔”かもしれぬ》
「つまり、話が通じない相手ですね」
《うむ。であるからして、躊躇は無用じゃ》
――そして、現れた。
樹々を引き裂くようにして姿を現したのは――
漆黒の毛並みに、どす黒いオーラを纏った異様な魔獣。
体躯は馬の二回りはあろうかという巨体。
頭部には禍々しい角、口元から滴る液体は腐臭と魔気を帯び、踏みしめた大地が黒く焦げていく。
その周囲には、まるで霧が逃げるように空間が歪んでいた。
《ふむ……やはり、わしの目に狂いはない。“あれ”は、ただの魔獣ではない》
「目というか……魂ですよね、あなた。ていうか、黙っててくれません?」
《ぬぅ……》
突如、魔獣が美奈の方へ顔を向けた。
目が合った瞬間、巨体がピタリと静止する。
(……動かない?)
《わしの気配にひれ伏したようじゃな。ふふふ、2%でこれとは、実に愉快……》
「ちょっと。自己満足してる場合ですか」
《黙れ言うたんはそっちじゃろうが!》
だがその静けさは、長くは続かなかった。
魔獣の体内で何かが暴れた。
内側から膨れ上がるように魔気が沸騰し、魔獣はガリムへと突進する!
「って、なんで俺なん!?」
「避けてください!」
美奈の声が届くと同時に、黒い閃光が地を走る。
《よいか、美奈。ほんの一時、わしの力を貸すぞ。見せてやれ、我が覇気を!》
美奈の指先から放たれた黒き閃光が、大地を這い魔獣の足元を切り裂いた。
バランスを崩した瞬間、ムスリの大太刀が喉元へ走る。
続けざまに、ガリムの拳が腹へと叩き込まれた。
魔獣は呻くような声を漏らし、黒い煙を吐きながら地に伏した。
土煙が晴れる。
静寂が戻り、魔獣の残した焦げ跡が風に冷やされていく。
美奈は息を整えながら、一歩下がって地面に腰を下ろした。
《ふむ。やはり、わしの力は偉大じゃの》
「……それ、さっきも聞きました」
《ぬ? 記憶力がいいのう》
「あなたの話、無駄に記憶に残るんですよ。声が濃いから」
《ぬわっはっはっ、やはりわしは偉大じゃ――》
「だから、うるさいってば」
ふと、美奈が顔を上げる。
視線の先――ガリムとムスリが立ち尽くしていた。
そして、ガリムがポツリと口を開く。
「……おい、ムスリ。今の、聞こえたか?笑い声みたいなの」
「……ああ。“あの声”だ。……間違いない。これで三度目」
「三度目、やな……魔王様の“声”が、はっきり聞こえたのは」
静かに風が吹く。
美奈の中に眠る何か――
それが確実に、目を覚ましつつあった。