第6話「静かなる覚醒」
砦の空気が、朝から妙だった。
湿ってもいなければ、風向きが変わったわけでもない。けれど、肌に刺さるような緊張感が空気の底に流れていた。
美奈は食堂へ向かう途中、砦の壁沿いに立ち止まる。
風が、鋭い気配を運んできた。
(何かが、動き出してる……?)
彼女はそのまま無言で歩き出し、扉を開けた。
パンをかじるガリムが、ふと顔を上げる。
「お、来たな。今日は寝グセついてへんやん。えらい」
「普通に寝ただけです」
「ほな、魔王様が寝相も矯正してくれたん?」
「……そこまで手厚くはないです」
パンをちぎる指先のリズムとは裏腹に、美奈の表情は揺れていなかった。だが、彼女の背後からは――ほんの微かな“圧”が滲み出ていた。
裏庭では、ムスリが剣を振っていた。
静かな動きの中で、一瞬だけ、空気が震えた。
(……まただ)
剣を止める。
遠く、何かが“押し寄せてくる”ような気配。
それは、かつて美奈が初めて暴走しかけた夜と、似ているようで違っていた。
昼過ぎ。
砦の外、岩場の上で美奈は空を仰いでいた。
雲の間から、淡く光が滲み、空の一部がわずかに歪んで見える。
(……境界?)
《その空の裂け目は、わしが封じし者たちの“通い路”じゃ。
再び開かれようとしておる》
「誰が?」
《さあな……未練を残した者か。あるいは、“わし”を呼ぶ者か》
その時――声が、“外”にこぼれた。
《……眠れ。もはやそなたの居場所は、ここにはない》
砦全体に、薄い金属音のような残響が広がった。
その“声”に反応したのは、2人の元配下だった。
ムスリは、剣を納めていた手を止めた。
すぐに背筋を伸ばし、周囲を見回す。
(……また、聞こえた)
(けれど、前よりも……“輪郭”がはっきりしている)
あのときは、ただ“何かが響いた”程度だった。
けれど今は――言葉が、意味が、確かに伝わってきた。
食堂のガリムも、パンを口に入れかけて止まっていた。
「……今の……」
手の中のパンが少しずつ崩れていくのも気づかず、彼は目を細める。
「いや……前に聞いた時は、幻聴かと思たけど……
これはもう、確信やろ。魔王様の声や……けど、なんや……前より“近い”……?」
彼の目が揺れていた。冗談ではなく、怯えでもなく――“確信と戸惑い”が、ガリムの胸をゆっくり満たしていった。
その夜。
ムスリは、屋上にいた美奈に静かに声をかける。
「……また、聞こえた。前より、言葉がはっきりしてた」
「たぶん、力が戻ってきてるんです」
「……本人、なのか?」
「私の中にいる誰か。それが“魔王”である可能性は、否定しません」
ムスリは短く頷いた。その目は真っ直ぐで、けれど、どこか遠くを見るようでもあった。
「なら、お前を止めるときは――俺がやる」
「そのときは、遠慮なくお願いします」
廊下では、ガリムが角にひっそり隠れていた。
気配を感じ取った美奈が、目だけで視線を送ると、彼は手を挙げてひょっこり顔を出す。
「なあ、美奈ちゃん。ぶっちゃけ聞くけど……中におるん?」
「……知らないことにしておけば、気楽ですよ」
「うわ、さらっとかわされた。……でも、もう無理やな」
ガリムの目は、笑っていなかった。
「ほんまに、あの人の声やった。けど、なんか違う。
“混ざってる”っていうか……生っぽいというか……」
「……そういう風に聞こえるんですね」
美奈はふっと息を吐き、軽く顎を引いた。
《ふぉっ……わしの“声”が届いたか。ならば、わしもまたこの世界の“輪”に戻りつつあるのう》
「戻るとかじゃなくて、勝手に“発言権”を持ち出さないでください」
《聞こえてるとは思わんかったわい》
「それはそれで問題です」