第5話「静かな砦と、牙を持つ世界」
目を覚ましたとき、最初に鼻をついたのは、ほのかに湿った藁のにおいだった。
美奈は眉をひそめ、掛け布団の端をつまみあげる。
(……あれ? この布団、干して少しはマシになったはずなんだけど)
指先で布の隅を摘み、そっと鼻に近づけると――
ほんのり漂う“誰かの気配”。
(……また、使われてますよね?)
稾を編んだだけの即席布団は、昨日は太陽の匂いがしていたはずなのに、
今はほんのりと獣っぽいというか、“最近ここで寝ましたよ”的な残り香が蘇っている。
「……なんのために干したと思ってるんですか、もう」
思わず小声で呟き、軽くため息をつく。
ささやかな努力が裏切られた気分だった。
彼女は静かに身を起こすと、窓を開けた。乾いた朝の空気が、砦の中に流れ込む。
雲の切れ間から差す光は柔らかく、空はまだ青く染まりきっていなかった。
屋上に出ると、風が頬を撫でていった。
昨晩、魔獣を弾き飛ばした砦の一角。その空気には、まだかすかに、あの“圧”が残っているような気がした。
《なかなかの反応じゃったな、美奈よ。あの狂化種を、力の“漏れ”だけで退けるとは》
「……まだ2%の力なんですよね、これで?」
《うむ、ほんの欠片じゃ。全盛期なら、くしゃみひとつであれぐらい吹き飛ばすわい》
「くしゃみで吹き飛ぶとか、やめてください」
《ふぉっふぉっ。冷静じゃのう……》
少し呆れたような声音で返しながらも、美奈の足取りは迷いがない。
ここが異世界であっても、現実であっても、彼女にとって“考えて動く”ということは変わらなかった。
軋む階段を上がってきたのはムスリだった。
黒髪を後ろでひとまとめにし、無表情のまま、美奈に視線を寄越す。
「見回りに出る。ついてこい」
低く、無駄のない言葉。
美奈は素直に頷いた。
「了解です」
砦の門を抜けると、草の匂いが濃くなった。
昨晩の痕跡ははっきりと残っていて、土の裂け目や、倒された木の幹がそこかしこに見える。
そして、森の陰。魔獣たちが――いや、“何か”が、こちらをじっと見ていた。
美奈は一歩前に出て、足を止めた。
「……頭を下げてる」
「お前に対して、だ。昨日の力を見たからだろう」
ムスリは視線を巡らせながらも、常に美奈の半歩先を歩いていた。
彼女の“何か”が暴走しないように――あるいは、何かから守るように。
「怖くないんですか? 私が“暴れる”可能性」
「……怖い。だが、それ以上に“見極めたい”」
その言葉に、美奈はわずかに瞠目し、すぐに静かに目を伏せた。
「……真面目ですね。驚くくらい」
「お前は、冷静すぎる」
「よく言われます」
砦に戻ると、食堂ではガリムが背もたれに寄りかかり、パンをかじっていた。
椅子の後ろ脚だけで器用にバランスを取りながら、美奈を見てにやりと笑う。
「おー、今日もキマってるな美奈ちゃん。冷静でクールで、なおかつ強い。最高やん?」
「私は普通の派遣社員です。クールでも強くもないです」
《むしろ、それでこの順応力は末恐ろしいのう。やはり、わしの器にふさわしい》
「“器”呼ばわりはやめてください。気持ちの準備ができてません」
《準備など、必要ない。すでに“混ざって”おる》
「その現実を突きつけるのもやめてください」
ガリムが肩をすくめて笑った。
「また脳内会議か? 最近、1人でしゃべっとること多くね?」
「副作用です」
夜になり、美奈はふと砦の裏へ出ていた。
何かが変わった気がしていた――胸の奥が、静かにざわつく。
その感覚は、はっきりと「異常」を知らせていた。
「……空気が重い。何かが、近い?」
《察しがいいのう。そなたの感覚、研ぎ澄まされておる》
「これは……ただの魔獣の気配じゃないですね」
《うむ。これは“封印”に関わる、深い淀み。
この世界の奥底で、かつて閉じ込められた何かが――目を覚ましつつある》
石壁の上を、冷たい風が流れた。
その中に、獣のような、けれど獣とは違う、鈍く低い音が混じっている気がした。
美奈は、そっと目を閉じた。
その静かな夜が、少しずつ変わり始めていることを、肌で感じながら。
オマケ「犯人はお前か」
翌朝。
昨日と同じように目を覚ました美奈は、再び布団のにおいを確認して、眉をひそめた。
(……昨日よりひどい)
その微かな“獣っぽさ”に加えて、今日はなぜかほんのり甘ったるい匂いまで混じっていた。
(……え、何このにおい。肉? 香辛料?)
怪訝な顔で布団を持ち上げると、端に銀色の毛が数本――。
「……誰かが、毛布をすり替えた?」
その瞬間、廊下の向こうから聞こえてくる、やけに陽気な声。
「は~、よう眠れたわ~! 美奈ちゃんの布団、程よくあったかくて最高やったで~!」
静かに振り返ると、自分の毛布を羽織って歩くガリムがそこにいた。
「……え、なにしてるんですか」
「ん? ああ、昨日な、なんかそっちの布団、あったかそうやったから。ちょっと交換しといた♪」
「……無断で他人の布団をすり替えるって、どういう倫理観ですか?」
「えっ、でも寝てる間やし問題ないかと……」
「どんな基準ですかそれ。あと、あなたの匂いが染み付いて戻ってきたんですけど」
「俺の寝汗って、野生の男の香りやろ?」
「それは“害獣注意”の領域です。野生じゃなくて害です」
――こうして、美奈の小さな快適生活の夢は、またひとつ潰えたのだった。