第4話「目覚めの朝と、呼応する」
目を覚ましたとき、辺りはまだ静かだった。
石造りの天井。ひんやりとした空気。
小さな窓の外からは、まだ青く染まりきらない空と、かすかな鳥の鳴き声が感じられた。
美奈は干し草の上でそっと身を起こす。
(……六時前くらい、でしょうか)
目覚ましがなくても時間がわかるのは、長年の生活習慣によるものだった。
だが今日は、起きた瞬間から明確な“違和感”が鼻を突いていた。
「……この布団……」
ふと、掛け布団の端を指でつまむ。
湿った藁のにおい。そこに混じるのは、微かに汗のような、どこか人っぽい残り香。
(……誰か、使ってたな。しかも長く)
一瞬、表情を曇らせた美奈だったが、すぐに目を伏せた。
(……干せばまだ使えますね)
何事も合理的に捉えるその性格は、異世界であっても変わらなかった。
軽く身支度を整えた彼女は、静かに扉を開けた。
「……おはようございます」
「……起きるの、早いな」
出た先には、腕を組んで立っていたムスリの姿。
背筋を伸ばし、相変わらず表情を崩さない鬼神のような男だった。
「案内する。……砦内」
「助かります。お願いします」
無言のまま歩き出すムスリ。その背を追って、美奈も一歩を踏み出す。
砦内の石床にはところどころ苔が生え、築年数の古さを物語っていた。
「砦は古い。だが、最低限は整えてある」
「見た限り、整理整頓は行き届いています。ただ……寝床以外は快適でした」
「……寝床?」
「布団が、少し気になりまして。誰かが使っていたような」
ムスリが一拍置いてから口を開く。
「……あれはガリムが前に使ってた布団だ‥」
「そうだったんですね……。とりあえず干しておきます」
「……冷静なやつだ」
「よく言われます」
ムスリの口元が、ほんのわずか緩んだように見えた。
案内の終わり、美奈は砦の奥――古びた石扉の前に立っていた。
湿った空気と重い気配。壁は苔むし、扉の縁からはかすかな風が漏れている。
「……この奥には?」
「不明だ。魔王様が唯一、俺たちを寄せつけなかった場所だ」
その言葉の直後、背後から聞き慣れた軽い声が響いた。
「美奈さんよぉ、これ……開きかけてね?」
ガリムが顔を出し、石扉の隙間を覗く。
確かに、重い扉にはわずかな隙間があり、そこからじわりと“何か”が漏れていた。
《ふぉっ……懐かしい空気じゃのう。これは、わしが遺した“核”の一部じゃ》
(核……?)
《肉体を失う前、余力をこの地に封じた。いずれ必要になると考えてのことじゃ。だが、今はまだ早い》
(……触れない方がいい、ですね)
《うむ。察しが良いのは助かる》
重く、静かな空気が流れるなか、扉の奥は依然として沈黙していた。
その日の夕刻。砦に異変が起きる。
――ガアァァアアッ!!
森の奥から唸り声が響いた。空気が濁り、地面がかすかに震える。
「美奈さん!」
見張り塔から駆け降りてきたガリムが叫ぶ。
「森の奥から魔獣の群れが……!けっこうな数や!!」
ムスリも剣を抜いて立ち上がる。
「魔力の波……中級以上。……ただ、動きがおかしい」
「おかしい?」
「近づいてこない。威嚇もない。――静観している」
その言葉どおり、森の影から現れた魔獣たちは、砦の外で動かず立ち尽くしていた。
そして、美奈が門を一歩出た――その瞬間。
ズシャ……ッ!
魔獣たちは一斉に伏せた。頭を垂れ、鼻を鳴らし、まるで忠誠を示すかのように。
「な、なんやこれ……」
ガリムが呆然と口を開く。
「……跪いている。王に、従うように」
ムスリの声は低く、静かだった。
《うむ。そなたが、わしを宿しているからこそ、じゃな》
(……私、何もしてないんですけど)
《力とは、見せつけずとも“格”で伝わるものよ。奴らは本能で知っておる。誰に頭を垂れるべきかを、の》
しかし次の瞬間――空気が震えた。
ズドン!!
森の奥から、狂ったように吠える黒い影が飛び出す。
四足。膨れ上がった筋肉。白濁した眼と泡を吹く口――狂化種の魔獣だった。
「来るぞ、美奈!」
ムスリが剣を構える。
「魔王の気配に反応して……逆に暴走か!」
美奈が一歩前に出ると、空気が弾けた。
《ふむ……これは、わしの力が漏れただけじゃがの》
バンッ!!
狂化魔獣の巨体が、何かに弾かれるように吹き飛び、地に叩きつけられた。
その身体から黒い火花が弾けるように散り、獣はもがきながら沈黙する。
「……ッッ!?今の、何や……!」
「……何をした、美奈」
ガリムとムスリが息を呑む。
しかし、美奈は静かに口を閉ざしたまま、ただ魔獣の亡骸を見つめていた。
(……これが、魔王の力)
《うむ。2%にすら届かぬ片鱗じゃ。……ふふ、恐ろしかろう?》
(……ほんとに、そうですね‥でもいつレベルアップしたんですか?)
《やはり、そなた……ワシよりも冷静で優秀かもしれぬな……むむむ……》
(ふふっ)
その時、初めて美奈の口元に小さな笑みが浮かんだ。
夜の砦。火が揺れ、静けさが戻る。
だが、森の奥で目覚めかけている“封印”は、少しずつその姿を現そうとしていた。
その脈動に、美奈はまだ気づいていなかった。