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先生

 

 学校は、すばるにとって唯一の逃げ場だった。



 家庭の恐怖と過干渉から解放される時間は限られていたが、それでもクラスメイトと一緒に過ごす教室では、家で感じる息苦しさが少しだけ和らいだ。


 しかし、彼の心は完全に晴れることはなかった。家の事情を話すことなどできないし、友達といてもどこか心が浮つかない。自分が傷つくのが怖くて、深く関わろうとする勇気が湧かなかった。


 そんなすばるに最初に気づき、手を差し伸べたのが、担任の中川麻子だった。




 麻子先生は30代半ばの優しげな女性で、どの生徒にも平等に接していた。けれども、すばるにはどこか特別に目をかけているようだった。


 無理に話しかけることはせず、けれども彼の様子を静かに見守りながら、小さなサインを拾い上げていた。


 麻子が最初に気づいたのは、すばるの袖口から見えた痣だった。少し暑く感じる季節になっても、すばるは長袖のシャツを着ていたが、袖をまくった瞬間に薄紫色の痣がちらりと見えた。


「これは……。」


 麻子は思わず言葉を飲み込んだ。授業中、彼のノートに視線を落としたときに見えたその痣は、明らかに転倒などではできない場所にあった。それ以外にも、すばるがクラスメイトと距離を置くような態度や、時折見せる怯えた表情が気にかかっていた。


 しかし、彼女はすぐに問い詰めることをしなかった。慎重に様子を見るべきだと考えたのだ。すばるが何か話したいと思ったとき、話しやすい環境を作ることが大切だと感じていた。





 給食の時間、すばるはクラスメイトの輪に入らず、一人で窓際の席に座っていた。誰にも気づかれないようにパンを口に運びながら、窓の外を眺めていた。


「すばる君、ここ空いてる?」


 不意に声をかけられて振り向くと、麻子がすばるの隣の席に座っていた。


「給食、おいしい?」


 すばるは少し驚きながらも、小さく頷いた。何を話せばいいのかわからず、俯いたままスープを飲む。


「最近、少し疲れてるみたいだね。何か困ったことがあったら、先生に話してくれてもいいんだよ。」


 その優しい声に、すばるの手が止まった。家では「余計なことを言うな」と教えられていた彼は、すぐには言葉を返せなかった。


「……僕、何をやってもダメなんです。」

 やっとの思いで、すばるはそう呟いた。


 麻子は少し驚いた表情を見せたが、すぐに穏やかに微笑んだ。


「すばる君、それは違うよ。」




 麻子は椅子に座り直しながら、話を続けた。


「例えば、運動会のかけっこを思い出してみて。スタートの合図が鳴ったとき、誰かが一歩を踏み出さないと、ゴールには絶対にたどり着けないよね?」


 すばるは少し考えてから、静かに頷いた。


「たとえ途中で転んだり、最後にゴールすることになっても、最初の一歩を踏み出した人はそれだけで素晴らしいんだよ。行動を起こすっていうのは、誰にとっても勇気のいることだから。」


 その言葉は、すばるの心にじんわりと染み込んでいった。これまで家では「ダメな子」としか扱われてこなかった彼にとって、「行動することが評価される」という考えは、全く新しいものだった。



「すばる君は、もうその一歩を踏み出してる。こうやって話をしてくれてることも、その一歩なんだよ。」





 その日から、麻子はさらにすばるを注意深く見守るようになった。彼の表情や行動の変化を見逃さないように、学校生活の中で少しずつ彼に寄り添っていった。


 ある日の放課後、麻子は職員室で他の教師に尋ねた。


「星宮君のご家庭について、何か聞いていますか?」


「いや、特に聞いたことはないけど……あまり保護者が学校に来ることはないよね。」


 その言葉に麻子は黙り込んだ。何か問題があるのは明らかだったが、それをどう扱うべきか慎重に考える必要があった。彼女は学校の児童相談員と密かに相談しながら、すばるが自分から話し始めるのを待つことにした。





 その夜、すばるは小さな机に向かいながら、自分の中に生まれた変化を静かに噛み締めていた。


「行動するだけで、何かが変わるんだ。」


 家ではまだ父親の怒声が響き、母親はその声に怯えていた。それでも、学校で感じた「一歩を踏み出す」ことの大切さが、彼の心を少しだけ軽くしていた。




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