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崩れる世界で

 大学1年が終わる頃、すばるは前期の成績表を見つめていた。「優」という文字が並ぶその紙は、彼の努力の結晶だった。教師になるという目標に向かい、地道に積み重ねてきた日々の成果。それは彼にとっての誇りであり、未来への道しるべだった。


 しかし、すばるの指先はその紙を握りながらわずかに震えていた。後期に入ってからの生活が、その成果を裏切っているように思えたからだ。沙月と過ごす時間が増えるにつれ、講義をさぼることが日常になり、提出期限に追われる課題。ふとした時に頭をよぎるのは、前期の自分との乖離だった。


 その日、午後の講義を終えると、すばるはその足で沙月の部屋を訪れた。講義をサボるのはこれで何度目だろう――そんな思いが一瞬浮かんだが、すぐに消えた。沙月と過ごす時間の方が何倍も心地よく感じられるからだ。


 沙月の部屋に入ると、午後の日差しがカーテン越しに柔らかく差し込んでいた。沙月はいつものようにソファに腰掛け、すばるを迎え入れるように手を広げた。


「おかえり、すばるくん。」

「ただいま。」


 二人の短い言葉のやり取りで、その空間は完全に「ふたりだけの世界」となった。沙月はすばるの隣に座り、彼の胸に顔を埋める。

「ねぇ、ずっと私のそばにいてくれるよね?」


 沙月の問いに、すばるは一瞬だけ戸惑った。それは、彼女が抱える不安を感じ取ったからかもしれない。すばるは彼女の髪にそっと手を触れながら答えた。

「もちろんだよ。沙月を置いてどこかに行くなんて、考えられない。」


 そう言いながらも、その言葉がどれほど自分の本心なのか、すばるには分からなかった。沙月を不安にさせたくない――その一心で紡がれた言葉が、自分自身に言い聞かせているように響いた。


 沙月は安心したように微笑み、その笑顔の儚さがすばるの胸を締め付けた。


 後期の間、二人で過ごす時間は特別で幸福に満ちていた。彼女の柔らかな笑顔や、手を繋いだ時の温もりが、すばるの心を満たしていた。だが、その幸福感の裏に隠された不安は、次第に二人を追い詰めていった。お互いに「この関係がいつか崩れるのでは」と無意識に感じ、その不安を埋めるように何度も身体を重ねる。


「すばるくん、こうしていると、世界に私たちだけみたいだよね。」

 沙月が囁くように言うと、すばるはただ黙って頷いた。その一言一言が甘美で、同時にどこか危うさを孕んでいた。


 講義をさぼる日が続き、成績のことも、教師になるという目標のことも、次第にすばるの中で遠のいていった。心のどこかで警鐘が鳴っていることは分かっていたが、沙月と過ごす時間の快楽にその音をかき消されていた。


 数日後、後期の成績表が届いた。前期の成績表と見比べると、その差は歴然だった。中途半端な評価が並ぶ紙を見つめながら、すばるは無意識に拳を握りしめていた。教師になるという目標が、何か遠い存在に感じられていた。


「どうだった?」

 隣にいた沙月が、彼の成績表を覗き込む。


「……全然だめだよ。」

 すばるが小さく呟くと、沙月は笑顔で言った。

「そんなの気にしなくていいよ。成績なんて関係ないよ。私がいるじゃない。」


 その言葉に、すばるは小さく笑みを返したが、その瞳には消えない影があった。沙月の言葉が甘美であればあるほど、すばるの胸の奥では罪悪感が膨らんでいく。


 その日の午後、沙月はすばるを誘い、キャンパスを歩いた。二人きりで過ごす時間が、彼にとって日常になっていた。だが、ふと遠くに見えた遥香とゆうきの姿が、胸に棘を刺すような痛みを与えた。


 彼らは笑い合いながら、学食へと向かっている。かつては自分もその輪の中にいたことを思い出し、すばるは目を逸らした。


「どうしたの?」

 沙月が心配そうに問いかけるが、すばるは首を横に振るだけだった。


「なんでもないよ。」

 そう言いながらも、すばるは心のどこかで、自分が選んだ道の先にある不安を感じていた。


 その夜、沙月の部屋に戻ったすばるは、思わず口を開いた。

「ねぇ、沙月……僕たち、このままでいいのかな。」


 沙月はそんな彼の顔を覗き込み、優しく微笑む。

「どうしてそんなこと言うの?私たち、すごく幸せじゃない。」


「でも……」

 すばるが言葉を続けようとすると、沙月は彼の手を取り、そっと唇を重ねた。


「難しいことは考えなくていいよ。今を大事にしようよ。」


 その言葉に、すばるは再び何も言えなくなった。そして、沙月の笑顔に囚われるように、彼女を強く抱きしめた。


 甘美な関係と罪悪感の狭間で揺れるすばる。その胸に鳴り響く警鐘は、沙月の微笑みによって再びかき消されていった。

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