二人だけの空
春の日差しが穏やかに降り注ぐキャンパス。講義が終わると、星宮すばるは教室を出て友人たちと合流した。そこには、白石沙月とその友人の天野遥香の姿があった。
「すばるくん、今日の講義どうだった?」
遥香が親しげな声で問いかける。彼女は小柄な体に柔らかな印象の笑顔を浮かべている。
「うん、まあまあかな。でも、ちょっと難しくて……」
すばるが答えると、遥香は「だよね~」と相槌を打ちながら、フラワープリントのノートを抱え直した。
「でも、星宮くんって真面目だよね。沙月も言ってたけど、なんか“育ちが良さそう”って感じ?」
遥香が冗談っぽく言うと、沙月が慌てて手を振りながら反論する。
「ちょっと、そんなこと言ってないから!でも確かに、すばるくんって穏やかだよね。」
「おー、確かに。沙月ってば、星宮くんと一緒にいるときすごくリラックスしてるよね?温泉にいるおじさんみたいな顔してるよ?」
遥香が軽く沙月の肩を叩いてからかうと、沙月は少し照れたように笑った。
そのやり取りを見ていたすばるの背後から、突然誰かが肩を叩いてきた。
「おいおい、おれをほったらかしにして、女の子二人も連れ歩いてんじゃねぇぞ、すばる。」
ゆうきが笑い声を響かせながら、すばるの肩を軽く小突いてきた。
「ゆうき……そんな言い方するなよ。ただ一緒に話してただけだし。」
すばるが慌てて弁明すると、遥香がすかさず茶化す。
「ねえ、それって嫉妬?まさかゆうきくんも星宮くんのこと狙ってたりして!」
「おい、冗談はよせよ!おれが狙うのはもっと華のあるタイプだっつーの。」
ゆうきは肩をすくめながら笑ってみせるが、どこか照れたような表情だ。
「でも、ちょっと寂しいじゃねぇかよ。最近すばるとゆっくり話してねぇ気がするしな。」
一瞬の沈黙が訪れる。すばるはその言葉に思わず立ち止まり、ゆうきの顔を見つめた。
「そっか……ごめん、ゆうき。」
「いや、別に謝んなって。なんか深刻そうに見えるだろ。たまには男同士で飯でも行こうぜ。沙月と遥香に取られっぱなしじゃおれのプライドが傷つく!」
「取られたって……!」
沙月がわざと不満そうな声を上げると、遥香も笑い声を上げながら「じゃあ、今度はみんなでランチしようよ」と提案した。
「それいいな!俺も混ぜてくれよ、すばる。沙月と遥香だけじゃなく、ちゃんとおれもいるんだからな!」
ゆうきが胸を張りながら言い、沙月と遥香も笑顔で頷いた。
その後、しばらくの間、4人でキャンパスを歩きながら他愛のない会話を楽しんだ。新しくオープンしたカフェの話題や次の講義について語り合い、賑やかな時間が続く。
だが、ふとした拍子に沙月とすばるが前に出て、ゆうきと遥香が二人だけで少し後ろを歩く形になった。
「ねえ、ゆうき。あんた、ちょっと寂しいんじゃない?」
遥香がからかうように小声で囁く。
「寂しいっていうか、付き合い悪いなーってだけだよ。」
「それほんとー?」
「あんだけ近くに居たのに少し遠く感じるっつーか。もう俺がいなくても大丈夫なのかなって。ほら!あいつも立派になったなって感動の気持ちっつーか。」
ゆうきが冗談めかしながら笑うが、その言葉に少しだけ本音が混じっているのを遥香は感じ取った。
「大丈夫だよ。私がいるからさ。」
遥香が明るく肩を軽く叩くと、ゆうきは「ありがとよ」と軽く手を挙げた。
「なんか暗くなっちゃったね。気分転換しよ!今日このあと、ゲーセン行く?」
「行く行く!ちょうど俺暇だし。」
「おっけー。ゆうきの奢りね!」
「なんでだよ!」
「星宮くん、今日って空いてるー?夕方ゲーセン行こうと思っててさ!みんなで行こうよ!」
そのまま遥香はすばるに声をかけた。
「ごめん。僕、課題遅れてて……今日は図書館で勉強するね。また今度誘ってよ。」
すばるが申し訳なさそうに笑って答えると、遥香は少し残念そうに頷いた。
「そっかぁ。でもちゃんと返事してくれる星宮くん、えらい!じゃあまた今度ね!」
元気よく言いながら、遥香は次の講義の準備をするために先に行く準備を始めた。
そのやり取りを横で静かに聞いていた沙月は、軽く首を傾げながらすばるを見つめていた。
「課題、そんなに大変なんだ?」
沙月が声をかけると、すばるは軽く肩をすくめてみせた。
「大変というか、今日すませておいた方が楽というか。」
「ふーん……」
沙月は少し考え込むようにしながら、黙っていた。
その日の夕方、すばるは静かな図書館の一角で、一人教科書を広げて勉強していた。ペンを動かす音だけが聞こえる中、背後から誰かが近づいてくる気配を感じたが、課題に集中するあまり振り向くことはなかった。
突然、頬に柔らかな感触が触れた。
「えっ……!?」
驚いて振り返ると、そこには微笑む沙月が立っていた。唇に浮かぶ笑みが、どこかいたずらっぽくも愛おしく感じられる。
「ちょっとした挨拶だよ。」
沙月がさらりと言うその言葉に、すばるは思わず動揺した。
「沙月さん、それは……こういうのは付き合っている人とか、好きな人にしかしちゃだめだよ?」
すばるが慌ててそう言うと、沙月は少し意地悪そうな笑みを浮かべながら机に肘をついた。その仕草が、すばるの胸をさらにざわつかせる。
「好きな人にしたんだよ?」
沙月の声は、低く柔らかく響き、すばるの心に真っ直ぐ突き刺さった。
「そ、そういう冗談はやめた方がいいよ。誤解されるから……」
すばるは視線を泳がせながら答えたが、沙月の視線を感じ、次第に言葉が詰まっていく。
「冗談だと思う?」
沙月は少し首を傾げながら、すばるの顔を覗き込んだ。その動作に、すばるの心臓はさらに高鳴った。
彼女の瞳は冗談ではなく本気を宿しているように見えた。真剣さの中にもどこか楽しげな色を含むその瞳に、すばるは言葉を失う。
「星宮くん、私のことどう思ってるの?」
突然の問いに、すばるは思考が追いつかなかった。胸の鼓動が耳まで響き渡る。沙月の声は静かで穏やかだったが、その一言一言がすばるの心を揺さぶった。
「どうって……」
「友達として?それとも、それ以上?」
沙月の問いは柔らかかったが、その目はすばるの答えを逃さないように真っ直ぐに見つめていた。
すばるは答えようとするが、胸の内に渦巻く感情をどう言葉にすればいいのか分からない。沙月に向けた特別な思いは、今この瞬間まで自分の中で名前を持たなかった。
「……分からないよ。だって、そんな風に考えたこと、なかったから。」
やっとの思いで絞り出した言葉だった。
沙月はすばるの答えを待つようにしばらく黙っていた。そして、机の上に置いた手を軽く握りしめながら静かに話し始めた。
「私はね、星宮くんといるとすごく安心するし、楽しい。それだけじゃない。ずっと隣にいてほしいって、そう思うんだ。」
その言葉はすばるの中で大きく響いた。沙月の指先がわずかに震えているのを見たとき、彼女もまた、この瞬間にどれほどの勇気を振り絞っているかを感じ取った。
すばるはふと、自分がここまで誰かに求められることの心地よさを知らなかったことに気づいた。そして、今までの沙月との時間が頭の中を駆け巡り、胸がじんと熱くなった。
「僕も……沙月のことが好きだよ。」
少し震えた声で、すばるは自分の想いを口にした。
「たぶん、ずっと前から。でも、こんな僕じゃ釣り合わないんじゃないかって……思ってた。」
沙月は目を丸くしてすばるを見つめたが、次第にその瞳に涙が滲み、やがて柔らかな微笑みが浮かんだ。
「そんなことないよ。私は、星宮くんだから好きなんだ。」
夕日に染まる図書室の中、二人の距離が自然と近づいていく。すばるは沙月の頬にそっと触れた。彼女の肌の温かさが、彼に小さな勇気を与える。
「沙月……好きだ。」
すばるの声は震えていたが、その言葉には確かな想いが込められていた。
「私も、星宮くんが大好き。」
沙月が静かに答えると、二人はそっと顔を寄せ合った。
柔らかな唇が触れ合った瞬間、すばるの中にある不安や迷いは消え去り、ただ目の前の沙月の存在だけがすべてを満たしていた。
外の世界が夕焼けに染まり、窓から差し込む光が二人を包む中、初めてのキスはまるで新しい世界への扉を開くかのようだった。




