あの時のこと
「なあ、すばる。一体何がそんなにお前を追い詰めたんだ?」
圭吾がベッドの横に座り、真剣な表情で尋ねた。その声には、ただ知りたいという気持ちだけではなく、すばるを支えたいという強い思いが込められていた。
すばるは一瞬、視線を彷徨わせたが、やがて深く息を吸い込んだ。
「僕が学校に行けなかった理由……話すよ。」
すばるは深く息を吸い込み、言葉を紡ぎ出した。その場にいた全員が静まり返り、すばるの言葉に耳を傾けていた。
「音が怖いってこと、ゆうきには話してたよね。」
すばるは視線をゆうきに向けた。ゆうきは小さく頷き、すばるの目を真っ直ぐに見返した。
「うん。お前が体育館で全部話してくれた。机を蹴られる音や大きな音が怖い理由も……父さんとのことも。」
ゆうきの言葉に、母親が驚いたように顔を上げる。
「……ゆうき君には、話してたの?」
母親の問いに、すばるは少し俯きながら答えた。
「うん。学校で、誰にも言えなかったけど、ゆうきが真剣に聞いてくれたから……それで、話したんだ。」
「最初は、ただ音が怖いだけだったんだ。机を蹴られる音や椅子を引きずる音がすると、体がすくんで動けなくなる。それが何回か続いて……僕が怖がるのを、周りの人が気づき始めた。」
「最初は心配してくれる人もいた。でも、そのうち面白がる人たちも出てきたんだ。音を立てて僕がどう反応するか見て笑う人が……。」
その言葉に母親は顔を歪め、唇を震わせた。
「そんなこと……知らなかった。」
すばるは首を横に振り、続けた。
「言えなかったんだよ、母さんに。心配させたくなかったし……どう言えばいいのか分からなかった。」
ゆうきが静かに口を開いた。
「俺、すばるが学校に来なくなったあとも、クラスで何が起きてたか知ってる。机を蹴る音をわざと立てたり、『引きこもり』とか『怖がりすぎ』ってからかうやつらもいた。」
「そんなことが……」
母親が震える声で呟く。
「俺、黙ってられなくて言い返したけど、すばるがいないところで好き勝手言うやつらには止められなかった。」
ゆうきは悔しそうに視線を落とした。
「でも、俺、すばるの気持ちは分かってるつもりだ。あの日、体育館で全部話してくれたから。」
すばるは一度息を吐き出し、母親の顔を見た。
「僕、ゆうきにしか話せなかった。父さんのことも、机を蹴る音が怖い理由も……母さんには言えなかったよ。」
その言葉に、母親は涙を浮かべて首を振った。
「どうして……どうしてもっと早く気づいてあげられなかったのかしら。」
すばるは静かに俯いたまま言った。
「言えなかったのは僕のせいだよ。母さんが忙しいのもわかってたし、僕が弱いだけだって思ってたから。」
その言葉に、母親の目から一筋の涙がこぼれた。
沈黙を破ったのは、麻子先生だった。優しい声で語りかける。
「星宮君、過去の出来事を語るのはとても勇気のいることよ。それだけでも、あなたがどれだけ頑張ってきたか分かる。」
すばるはその言葉に驚いたように顔を上げた。麻子先生はさらに続ける。
「でも、残念ながら過去を消すことはできないし、一朝一夕で乗り越えることはできない。大切なのは、それとどう向き合い、どう寄り添って生きていくかを考えることなの。」
「寄り添う……?」
すばるが呟くように尋ねると、麻子先生は優しく頷いた。
「そう。恐怖や辛い記憶は、どうしても消えない。でも、それを学びに変えて、自分の一部として受け入れることが、次の一歩になるわ。それに冷たく聞こえるかもしれないけれど、あなたがこれから生きていく中で、今抱えている悩みやこれからの悩みの大半は、意外とどうでも良いことに変わっていくの。」
「どうでも良いこと……?」
すばるが不思議そうに尋ねると、麻子先生は静かに頷いた。
「そうよ。大人になるにつれて、色々なことを知るわ。そしていつの間にか、いろんな自分を許せるようになったり、色んな自分を愛したりしていくの。」
その言葉に、すばるは息を飲んだ。麻子先生は続ける。
「怯えていた自分も、勇気を持った自分も、悲しんでいた自分も、笑っていた自分も――全部ね。」
その言葉は、すばるの胸に深く染み渡った。
「そうしていつの間にか、それらが意識しなくても星宮すばるという人間の一部になっていくのよ。」
すばるは、麻子先生の言葉を反芻しながら、自分の胸に問いかけた。
「僕の一部……。」
恐怖や不安、苦しい記憶。それらが自分の一部になるなんて、今は想像もできない。それでも、麻子先生の言葉には不思議な力があった。
「僕も……いつか、そんなふうに思えるのかな。」
その呟きに、麻子先生は穏やかな笑みを浮かべた。
「もちろんよ。星宮君ならきっと大丈夫。ゆっくりでいいから、一歩ずつ進んでいきましょう。」
すばるは涙を拭いながら、小さく頷いた。自分の中に少しだけ希望が灯るのを感じた。




