諦めとすれ違い
すばるの日々は、音によって侵食されていた。部屋に響く母親の話し声や廊下を歩く足音、外に出たときの電車の轟音や車のクラクション、さらにはドアを閉める音――そのどれもが、すばるを心の底から怯えさせた。音を聞くたびに、心臓が張り裂けそうになり、息が浅くなる。全身が凍り付いたように動けなくなるのだ。
「また何かが壊れるんじゃないか……また、あの音がするんじゃないか……」
父親が怒り狂って机を蹴ったり、家具を倒したりした光景が、すばるの脳裏に焼き付いていた。それは現実ではなく記憶の中の出来事だと頭では理解している。だが、それでも恐怖は体を支配し続けていた。
ある日、母親と一緒に病院へ向かうために玄関に立ったすばるは、靴を履こうとして動けなくなった。全身が小刻みに震え、膝が折れそうになる。
「すばる、大丈夫?」
母親が背中を支えながら心配そうに声をかける。
「……わからない……怖い……」
それが精一杯だった。胸の中で響く鼓動がやかましく、耳鳴りがして周囲の音が遠く感じられる。
結局、母親に支えられながら何とか通院を終えたが、その後すばるは外の世界に出ることをさらに恐れるようになってしまった。
そんな中で、唯一の救いとなったのはゆうきの存在だった。ゆうきは週に何度もすばるの家を訪れ、課題やプリントを届けてくれた。いつものように課題を広げながら、軽く冗談を交える。
「先生もさ、こんなに宿題出してどうすんだろうな。やらせすぎだろ。」
「そうだよね……」
すばるも小さく笑いながら答える。
ゆうきが一緒にいてくれる時間だけは、音や恐怖を忘れられるような気がした。勉強が終わると、二人でゲームをするのが日課になっていた。画面越しに協力して敵を倒し、時には対戦して真剣に競い合う。
「すばる、また負けたのかよ!次はもっと本気出してこいよな!」
「そっちこそ油断してたじゃん!」
そんな言葉を交わしながら笑い合う時間は、すばるにとって唯一の癒しだった。
ゆうきとの穏やかな日々が続く中、すばるの中にある一つの感情が芽生えていた。
「学校に行かなくてもいいんじゃないか」
ゆうきが課題を届けてくれるおかげで、勉強の遅れはない。ゲームで遊び相手にも困らない。家の中は静かで安全だし、外に出る必要性が感じられなかった。
ある日、母親に「そろそろ学校に行く準備をしなさい」と言われたすばるは、初めて自分の考えを言葉にした。
「もういいよ。学校に行かなくても、大丈夫だから。」
母親は驚いたようにすばるを見つめた。
「そんなわけないでしょ。学校は行くべきところなのよ。」
「でも、僕はもう……行けないよ……」
すばるの声は小さく、それ以上の言葉を紡ぐことはできなかった。
母親は日に日に焦りを募らせていった。通院の日以外はほとんど部屋に閉じこもるすばるの姿を見て、何度も声をかけた。
「すばる、遊ぶ元気があるなら学校に行きなさい。このままじゃ進路が大変なことになるわ。」
その言葉に、すばるは耳を塞ぎたくなった。母親の言葉が正しいことはわかっていた。それでも、その正論が胸を鋭く刺していく。
「うるさいよ……」
すばるが小さく呟いても、母親は諦めなかった。
母親は焦りから、ゆうきに頼むことを思いついた。
「ゆうき君、すばるを学校に行くように説得してくれない?あなたの言葉なら、きっと響くと思うの。」
その話を聞いたすばるは、胸が締め付けられるような思いを感じた。
「母さんは、僕の気持ちなんて何もわかってない……」
ゆうきは一度、深く考えた後に答えた。
「わかりました。でも、無理に押し付けることはしません。」
翌日、ゆうきが訪れたときも、すばるはどこか距離を感じてしまった。ゆうきはいつも通りゲームをしながら一緒に笑っていたが、すばるの心の中には、母親に対する苛立ちと申し訳なさ、そして自分に対する情けなさが交錯していた。
ある日の夕方、母親が再び部屋に入ってきた。
「すばる、どうして学校に行けないのか、ちゃんと話してくれないとお母さんだって困るわよ。」
その言葉を聞いた瞬間、すばるは限界を迎えた。
「もうやめてよ!僕だって頑張ってるんだ!どうしてそれをわかってくれないの?」
母親は驚き、しばらく黙り込んだ。そして何も言わずに部屋を出て行った。その背中を見送りながら、すばるは心の中にぽっかりと穴が空いたような感覚を覚えた。
それ以来、母親とすばるの間には完全な断絶が生まれた。母親が廊下を歩く音や食器を片付ける音が聞こえるたびに、すばるは耳を塞いで布団の中に潜り込んだ。家の中ですら、すばるは逃げ場を求めるようになっていた。
夜、すばるは天井をぼんやりと見つめていた。机の上には、かつて愛用していたバスケットボールが置かれている。それを手に取ろうとして、結局やめる。そのボールは、彼にとってかつての輝きを象徴していた。今の自分には眩しすぎるものに思えた。
「このままでいいのかもしれない……」
すばるはそう呟いた。だが、その言葉が空虚な響きを持つことに、彼自身が気づいていた。
静かに目を閉じると、闇の中に落ちていく感覚だけが残った。




