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80.0 『余』


————ボク達と一緒に来なィかァ?————

 


◇ ◆ ◇



 目を開けると白い天井が映った。


——ここはどこじゃ? 身体は動かんし記憶も曖昧……薬でも盛られたか……?


 筋肉を一つずつ確かめるように力を入れるが、うまく動かせない。

 まるで自分の身体ではないかのように、感覚が掴めなかった。


——ゴライアスの仕業か……? 奴は余の身体を狙っておったからな……色々と覚悟して生きてきたが、あんなのに犯されるのはごめんじゃな……舌を噛みたいがそれも出来んし……。

 

 すると突然、胸に黒い影が飛び乗った。

 それは少しだけ頬を舐めると、顔を横切っていく。


——黒猫? オニキスか? いやそれは有り得ん……じゃが、なんにせよここに居ては危ないぞ。ほれ、早よう外へ出ろ馬鹿者。


「……ぁ………」


——ダメじゃな、声も出せん。どうせ犯されるのなら、感覚の無いうちに終わらせてほしいものじゃが。


 そんな事を考え、ボーッと天井を眺めていると、ヒョコッと少女が顔を出した。

 真っピンクの髪が眩しい、五歳ほどの少女。

 まんまるの瞳にこぼれ落ちそうな頬、そして小さな口をニッコリと笑って見せてきた。


——なんじゃこの愛くるしい生き物は……ここは要塞ではないのか……?


「おきたあ?」


 少女は黒猫を抱き上げ、そう問いかけた。


——子猫じゃったか。可愛いと可愛いが合わさり、とてつもない破壊力となっておるな……。


「おーさまー! みずいろおきたよー! おーおーさーまーーー!」


 突然、少女はそう叫びながら扉をパタリと閉め、どこかへ走って行ってしまった。


——水色とは余の事じゃろうな。それより『おーさま』とは王様か? 他国にでも捉えられたのか……?


 指先が少し動いた。

 そこから痺れが取れるように、ゆっくりと感覚が戻ってゆく。

 周囲を見ると、平凡とも呼べる部屋だった。

 白い壁紙に木製の柱、中央には丸テーブルと椅子が二脚。

 ベッドに寝かされ、白い布団がかけられ……。


——そして余は裸か……じゃが何かされたという感じもせんな。あの愛くるしい生き物を先に見せたのは、余を安心させる為じゃろう。


 どうにか腰をずらして肘を立てる。

 胸を布団で隠しつつ、麻痺の残る身体にムチを打って起こしていく。

 すると、カチッカチッと床を鳴らす金属音が聞こえてきた。

 共に聞こえる、歩幅の小さく軽い足音。

 ようやく上半身を起こし、木製の簡素な扉に顔を向けた。


 するとノックが響いて扉が開く。


 金属杖をついて、足を引きずる白衣の男が姿を見せた。

 その横には、ピンク髪の少女。

 白衣の男が問いかけた。


「なんだ、もう動けるのか」


「まだねてなきゃだめー! なんでうごくのー」


 驚く男の横から、ピンク髪の少女が眉を吊り上げ、ベッドに身を乗り出してくる。

 ようやく少女の頭に手を置けて、ちょっとした満足感に浸った。


「もう……大丈夫じゃ……」


 声をどうにか絞り出し、少女に微笑んで見せた。

 

——頬を緩ませたのは久しぶりじゃな。そしてこの男が王様か、どうもそうは見えぬ。もう少し髪を整えてシャキッとすれば、さぞモテるじゃろうに……。


 そうやって品定めをしていると、男は一歩近づきベッド横の椅子に腰掛ける。

 奥では少女が子猫を追いかけており、それに目を向けまた頬が緩んだ。


 男は問いかける。


「記憶は混濁しているか? 名前は?」


「余は……ルドミラ連邦第三皇女・ベロニカ・リシテ・バルステラじゃ」

 

 ベロニカは記憶を辿り答えた。


 男には妙な安心感があり、同時に懐疑心を与えてきた。


 それはベロニカが、男から常に性的な視線を向けられてきた事が起因する。

 女性の少ない軍を率いれば尚更だ。

 それが不快などと感じた事はないし、当たり前の事象として受け入れてきた。

 

 だが、目の前の男には一切それが見られなかった。

 胸を隠しているとはいえ、裸の女を前にしても視線が移ろわない。

 安心感がありすぎて、それに対して疑念を持ってしまっていたのだ。


「なんでお前が品定めしてるんだよ、記憶は混濁してんのかって聞いているだろう」


「あぁそうじゃな、少なくとも現状の心当たりは無さそうじゃ。主と、その娘の名は聞いてもよいのか?」

 

 ベロニカはチラリと、猫と戯れる少女にも目を向けた。

 すると、ニコニコしながら駆け寄って、大きな声で自己紹介をしてきた。


「ろにか、おぼえたー! エルはねー、そろもんななじゅーふたはしら・あくまだいそーさいのブエルだよー! よーしくね!」


 自然と少女の頭を撫でてしまうベロニカだったが、霞がかっていた記憶が少しずつ顔を出し始めた。

 少しずつ、記憶の断片を探っていく。


——あくま……悪魔か……そうじゃ、少し思い出してきた。


「ならば、主が魔王か?」


「ほぉ、理解が早いな、混乱している様子もない。大暴れされる覚悟はしてたんだがな」


 記憶はハッキリしたものではなかった。

 眉を顰めて自分の頭を叩くが、どうにも断片的にしか出てこない。


「いや、まだかなりあやふやじゃ……余が暴れるならばもう少し後じゃろう……今しばらく覚悟しておくがよい」


「どんな忠告だよそれは、急がなくていいから少しずつ整理していけ。こっちは別に急いでないんだ」


 そう言うと手元の本を開き、ゆっくりとページをめくり始めた。

 横でカラカラと音が響き、そこからスプーンを向けられる。


「ろにかのめるー? あーんしてぇ」


 ブエルの手元にはコーヒーカップ。

 思わず口を開けて、スプーンを迎え入れた。


——ミルクかの? 甘ったるいがよい味じゃな。さて、此奴から説明をして来んという事は、場合によっては本当に暴れると思っておるのじゃろうな。余に思い出させる方が早いという事か。

 

「余は悪魔と対峙しておった筈じゃ、あの地はどうなった」


「兵士は一人残らず殺した、裏から逃げた役人も含めて全員だ。取りこぼしはゼロ、保証しよう」


 これにショックを受けなかった訳ではないが、その事実はミルクと共に飲み込んだ。

 そして。


「ハハッ! そうか一人残らずか、それは実によい気味じゃな。この後、余も殺されるのじゃろう。聞きたい事があるなら、今のうちに聞いておけばよい」


 同胞の死を笑い飛ばしたが、魔王に驚く素振りは無かった。

 魔王は本を閉じてベロニカに目を向ける。


「なら聞くが、お前のチカラは誰に教わった?」


「あの悪魔にも同じ事を聞かれたな。じゃが、余のチカラは余のものじゃ。これは事実故に、拷問を受けようと答えが変わる事は無い。なんなら試してみるか?」


 ベロニカは機嫌が良かった。

 少し胸元を晒し、したり顔を魔王に向けて反応を伺った。


「お前はそのつもりかもしんないけどな、なんかあるだろう? 誰かを参考にしたとか、アドバイスを受けたとか、ソレを使うきっかけになった奴を聞いてんだよ」


 頭をガシガシとかき、めんどくさそうな声をかける魔王だったが、ベロニカの答えは変わらない。


「おらぬな。幼少の頃に師はおったが、ただ強いだけじゃとすぐに分かった。他の者も皆、力任せで何の参考にもならん。他者のチカラを倣っても、ただ余が曇るだけじゃと悟った」


 ここでようやく魔王が驚きを表情に出す。


 全て真実で本心だった。

 だからこそ、男の驚く顔がチカラを称賛されたように受け取れて、ベロニカはとても愉快な気分になれていたのだ。

 

「本気で言っているのか……なら重力を操るチカラにはどうやって行き着いた? 言ってみろ」


 ベロニカの口元には笑みが浮かんでいる。

 余程機嫌が良いのだろう、言葉を濁す事もせず、過去を辿るようにゆっくり語り始めた。


「先に、余に魔術の才が無い事は言うておくが……」


 ベロニカのマナは平均的だった。

 放出量、貯蔵量、共に中位程度。

 唯一、吸収量のみ最上位に位置していたが、貯蔵量が少なく意味を為さない。

 他の皇位者と比べれば最底辺。

 出来損ないと揶揄される事すらあった。


 ベロニカは土のマナが得意だった。

 壁を張り、罠を作り、槍を突き出し、地を揺らした。

 水のマナを混ぜて泥を作った。

 火のマナを混ぜて熱砂を作った。

 だが、飛び回る者を追うには限界があった。


 土以外のマナが、どうにもならない程に苦手だったのだ。

 土の矢を飛ばしたかった。

 砂嵐を起こしたかった。

 粉塵爆破をしてみたかった。


 そしてベロニカは重力に行き着いた、相手を地に留めれば良いのだと。


「……とまぁ、そんな感じじゃな。才無き者の知恵という奴じゃ。それを逆に反発させれば、風は無くとも砂は舞う」


 そう話しながら、空のカップとスプーンを宙に浮かせながらブエルと戯れる。


「そのチカラを願ったのか?」


「いいや、余は何も願ったりはせぬ。他者の施しで余が輝く事など無いのじゃからな」


 男はまた少し驚くように目を開き、すぐに頭をガシガシとかいて愚痴のように溢す。


「どうやら本当らしいな……悪魔に願わず、自力で魔術に行き着く人間なんて初めて見たぞ……」


「何を言う、無数におるじゃろう。魔術を使えぬ者の方が珍しいくらいじゃ」


 もどかしい面持ちの魔王は、ため息をつきながら宙に浮いたカップに目をやってきた。


「その返事も分かっていたがな、お前のそれは魔力だ。魔力ってのは悪魔の力だ、悪魔と契約しなきゃ使えねーんだよ普通はな。同じチカラを使える奴なんて居なかっただろう」


——ふむ、確かに見た事が無いな……魔力という概念があり……魔術を使う人間が初めてか……つまり……。


「つまり本来の魔術とは、魔力とやらを使った術を指すのか? そこらで使われておる魔術は、マナでそれを真似たものじゃと……」


「本当に理解力が凄まじいな、あの戦闘IQも頷ける」


 ベロニカは育ち故、お世辞の類を嗅ぎ分ける事に長けていた。

 だが魔王からはそれを感じない、表情、目線、声色、全てに賛辞が見て取れる。


——気をよくさせて情報を引き出そうと言う雰囲気も無さそうじゃが……さてどうかのう。


 子猫がベッドに飛び乗り、疑念を絶やさぬベロニカの心を和ませた。


「いや、素直に称賛と受け取ろう、してその魔力じゃが……」


「悪いがそれより先に聞いておきたい事がある、ブエル」


 ベロニカの質問は遮られ、男の視線はブエルへと向けられた。

 ブエルはベッドにぎこちない手足で登り、愛くるしい顔を傾げてきた。


「ろにかーこれなーにー?」


 その手に持たれていたのはガラスの大瓶だった。

 その中には、たくさんの白い錠剤が詰まっている。

 ここまで表情を崩さなかったベロニカは、目を見開いてそれを凝視する。が、すぐに冷静さを取り繕った。


「兵のやる気を出させるものじゃ、気晴らしや娯楽の類と受け取ればよい。主も上に立つ者なら分かるじゃろう?」


「この件に関しては言葉を選べ、これを半島に広めたのはお前で合っているか?」


 魔王の雰囲気が変わった。

 穏やかな口調に怒気が混ざる。

 視線も睨みつけるような眼光に変わっている。


「そうじゃ、余があの地に広めた」


「理由は?」


「余が王となる為。兵の士気向上、民の労働意欲も上がり、収益にも繋がる」


「では、お前はこれがどういう物か分かっているか?」


「無論じゃ、それは」


 そして、ベロニカはハッキリとこう答えた。


「麻薬物質じゃ」


 だが魔王に驚いた様子は無かった。

 最初からそれと分かった上で聞いていたのだろう。

 張り詰めた空気が流れたが、そこにブエルの軽い声が響く。


「でもこれすーっごくうすいよ? うすうす」


 瓶の蓋を開け匂いを嗅ぎ、ジャラジャラと瓶を振りながらそう言った。

 ブエルからの問いかけではあったが、この少女に麻薬の話はしたくなかった。


 魔王に顔を向けてから答える。


「粗悪品じゃからな。口裏を合わせ、安く仕入れ、高く売っただけの話じゃ」


「その目的は?」


「利権絡み、と言えば想像はつくじゃろう」


 部屋が静まり、一触即発の空気が流れる。

 ピりつく空気で額に汗が滲んだ。


 また魔王はため息をついて頭をガシガシとかく、これは癖なのだろう。

 そして顰めっ面を向け、叱りつけるような言葉が響いたのだ。


「本っ当に素直じゃないな……! こっちもある程度の当たりをつけた上で聞いてんだよ。お前がそれっぽいと思ってる言い訳は、こっちからすりゃ見当違いなんだよ!」


「いや余は本当に……」


「うるせーんだよ口答えをするな! いくら遠回りしても行き着くゴールは同じだ。もうお前めんどくさいからイエスかノーで答えろ、わかったか?」


 落ち着いていた男の、突然の人間らしいその態度に、キョトンと眺めた後、思わずたじろぎ返事をしてしまう。


「わ、わかった……」


 そして魔王からの質問責めが始まった。


「お前ホントは麻薬が好きじゃないだろう? というか吐き気がするほど嫌いだろう。正直に答えろ」


「………まぁ……イエスじゃな……」


「ほらみろ! それに一度、アドリアス半島で麻薬禁止令を出したよな? 嘘つくんじゃねーぞ」


「…………イ、イエスじゃ……」


「これだよ、この情報が割れてんだよ! 自分がどんだけ見当外れな事を言ってたか分かったか? なーにが利権絡みだ、そんな事聞いてないんだよバカタレ!」


 迫力はあるが庶民的な叱責を受け、思わず苦笑いを浮かべてしまう。


「お、おぉう……すまぬ……」



——余が謝罪するなど初めてじゃな……。



「ろにかおこられてるのー? おーさまこわいー?」


「あぁ……思ったよりもこわいな……じゃがこれは余が悪い、心配しなくて大丈夫じゃ」


 そう言ってブエルに微笑み、また頭を撫でた。

 魔王の質問は続いてゆく。


「その麻薬禁止令も、両親とかそこら辺の圧力で有耶無耶にされたとかそんな所だろ」


「イエスじゃ……」


「だから麻薬の代替品として、コレを作って広めた。さっきの利権がどうこうはその隠れ蓑だ。そうだろう」


「……イエス……」


「つーか、なんだよこの薄っすいオピオイドは! 風邪薬の方がまだキマる。嘯くならもっとギリギリを攻めろ、こーゆーとこにお前の麻薬嫌いが滲み出てんだよ!」


「………」


 そう言って瓶をコツコツとノックするように、責め立ててくる魔王。

 あまりにも的確な指摘にぐうの音も出なかった。


「そんで? ルドミラ連邦の本土には、今も別の麻薬が出回ってんのか?」


「イエス」


「じゃあ王を目指してんのは、国全体に麻薬禁止令を出すのが目的か」


「……イエスじゃ」



——あーもうぜーんぶイエスじゃ……誰にも言うてないのじゃがな、これでは逃げ道が一つもないではないか……。



「そんで王になったら、半島にいるギブリス国民を救おうとでもしてたんだろう」


 ここでベロニカの返事が止まった。

 少し考えるように顎に手をやり、下唇を噛んでから出した答えは。


「ノーじゃ」


 魔王もブエルも、これに意外そうな顔を向けた。


「余はあの地の全てを礎にして、王になると決めたのじゃ。救おうなどという甘い考えはそこに無い、犠牲に配慮した事もない。目的が増えれば手段が減る、手段が減れば王にはなれぬ。余の目的は麻薬の根絶、そのただ一つじゃ……!」


 同情を買おうという気持ちも、強がろうという気持ちもそこには無かった。

 だが、これまでよりも語気が荒んで、上擦ってしまっていた。


 魔王が珍しい物でも見るような顔を向けてくる。


 ブエルがピョンとベッドに飛び乗った。

 ベロニカの腰に跨って、のしのしと膝を滑らせ、小さな身体を近づけてくる。


 そしてベロニカの頭を抱きしめ、


「ろにかつよーい、いーこいーこしたげるー」


 水色の髪を優しく撫でた。


「え……?」


 そんな声が漏れると同時。

 ベロニカの瞳から大粒の涙がボロリとこぼれ落ちた。


「あ、あれ……なんじゃ……? なんじゃこれは……」


 胸の奥が張り裂けそうになりながら、瞳に訪れる不可思議な現象が止まらず、必死にそれを拭い始めた。


「ろにかずーっとがんばってたんだねー、もぉつらいことしなくてだーいじょーぶーー」


「違う……ッ……余は……余は頑張ってなどおらぬ……ッ……! 辛くなどない……余は他者を踏み台に……王に……ッ……!」


 鍵をかけ、その鍵すらも失くしてしまったベロニカの心を、幼い声が無理やりこじ開けてくる。


「なーんでー、とってもえらいのになーんでー! エルがゆうんだからまちがいないのー、ろにかはとーってもいーこー!」


 押し込んで隠した感情が、土砂崩れでも起こしたように傾れ出ていく。


「余に優しい言葉はいらぬ……ッ……! 余は……強くあらねばならぬのじゃ……ッ……! やめて……ッ……ねぇッ……! ……優しくしないで……ッ……戻れなくなっちゃう……ッ……」

 

「もどんなくていーのー! もどっちゃやーだー! もうつらいことしなくていーのー!」


「……ッ……つらかっだッ……ぁあ"ッ……あ"ぁぁッ……! ……ほんとは……づらぐでぇッ……ッ……! ……ッ……ぁ"ぁぁああ"ああああ………ッッッ!!」


 小さな身体にしがみつき、ベロニカは声をあげ大声で泣いた。

 長い水色を揺らし、涙がボロボロボロボロと零れ落ちる。

 

 小さな手はベロニカから離れない。

 上擦る声に無邪気な言葉をかけ続ける。


 柔らかく暖かいこの少女に、今だけは甘えようと、ベロニカはまた声をあげて泣いた。



◇ ◆ ◇



 部屋にノックの音が響いた。


「入ってよい」


 ブエルが引っ張り出してきた麻の部屋着に身を包み、中央に置かれた丸テーブルについて、少し背筋を伸ばした。


 扉が開き、足を引きずる魔王が姿を見せた。


「少しは落ち着いたらしいな」


「気を遣わせた、席を外してくれたんじゃろう」


 ミルクの入ったカップを置き、ベッドの上に目を向ける。

 そこでは子猫と戯れ、ぴょんぴょんとはしゃぐブエルの姿。

 これを眺めているとどうしても頬が綻んでしまう。


 魔王は丸テーブルを挟むように座り、ダラリと椅子に身を預けた。


「別の用事があっただけだ、忙しいんだよ俺は」


「なんじゃ、ダラダラ過ごしておるのではないのか?」


「なんだよそれ、ブエルがなんか言ったか?」


 魔王は眉を顰めてベッドの上に目をやったが、不機嫌そうにも見えない。

 その顔に笑みは無いが、大切な物を眺めているように見えた。

 その光景にまた笑みが溢れる。


——もう表情が取り繕えんくなっておるな……余がここまで頬の緩い女とは知らんかった……。


 ベロニカはそれを、したり顔で覆い隠して口を開く。


「夢で見たのじゃ。南西諸島の燃えゆく様を、小気味よく眺めさせてもらった。あそこに居ったのは主じゃろう?」


「チッそういう事か……! 視聴率がやけに高いと思ったら、寝てる奴らまで夢で観てたのか……大失敗だな」


 顔に手を当て、『やっちまった』と言わんばかりに天井に顔を向ける魔王。

 これには何の事かさっぱり分からず、思わず首を傾げていた。


「なんの話じゃ??」


「いやこっちの話だ。それで? 記憶も少しは整理出来たろう」


 待ち時間に色々と考えたつもりだったが、まだ気持ちをまとめきれていなかった。

 それの答えを出すには、記憶だけでは情報も足りない。


 ベロニカは目を真っ直ぐ向けて尋ねた。


「余は死んでおるのか?」


「お前の予想は?」


 品定めするような魔王の視線。

 ベロニカには確信に近いものがあった。

 だがあまり現実的でなく、ここまで目を背けていた。

 それを今、ようやく言葉にする事となる。


「余は悪魔となったか?」


 これを聞いた魔王が口を開こうとした時、ブエルが膝に飛びついてきた。


「ろにかせーかーい! でもはんぶーん! おーさまのわがままー!」


 そう言って膝の上に座り、魔王に向けて指を突きつけるのだった。



——正解だけど半分……? この男のわがまま……?

 


 ブエルの拙い言葉を咀嚼するが、どうにも答えが見えてこない。

 魔王は腕を伸ばし、ブエルの鼻先をグニグニと押しつぶしながら、ベロニカに目を向ける。


「お前には興味があってな、人間の要素を少しだけ残した。とはいえ悪魔とほとんど変わらねーよ、限りなく悪魔に近い」


「説明としては言葉が足らぬじゃろう、どこが違う」


 ブエルの鼻から離した指で、ベロニカの胸骨にトン触れた。


「今のお前は、ただデカいだけの石ころなんだよ。磨けば光るし形も変わる。俺はその成長が見たかっただけだが……奇跡的に利害も一致しているじゃないか。他者の施しじゃ輝かないんだろ?」


 指を離すと再び椅子に身体を預け、したり顔を向けてきた。

 予想だにしなかった言葉に、ベロニカは思わず声をあげて笑っていた。


「ハハッ……アハハハッ、そうじゃその通りじゃ! 宝石を貰うより余程いい、都合のよい奇跡もあったものじゃな」


 不思議そうにブエルが見上げ、ニコッと笑顔を見せてきた。

 それを撫でながらベロニカは思う。


——なにが奇跡じゃ、どうせそれも当たりをつけておったのじゃろうに。素直でないのはお互い様じゃ。


 自然と口元がニヤけ、揶揄うように魔王を見やっていた。


「……なんだよその腹立つ顔は」


「いいやなんでもない。して、余は何故そうまでして生かされた」


「いやもうわかるだろう。ただのスカウトだよ、ヘッドハンティングというやつだ。殺すには惜しい、それだけだ」


「余を従えたいと言うか……なれば、主らの目的は麻薬の根絶であっておろうな?」


 確認程度のつもりだった。

 これまでの質問から、目的が同じだからこそのスカウトだと思っていたからだ、だが。

 

「違うな。俺たちの目的は、俺の妹を幸せにする事だ」


「は……? い、妹とな……??」


 あまりに想像の斜め上をいく答えで、唖然とした顔で魔王を見てしまう。

 聞き間違いかとも思ったが、どうやらそうでは無いらしい。


「そうだ、その為に麻薬の根絶が不可欠ってだけだ。なにか文句でもあるのか?」


「い、いや文句は無いが……しかしとんでもないシスコンも居ったもんじゃな……」


 これ以外の感想が浮かばなかった。

 魔王は舌打ちをして顔を背ける。


「チッ、いいんだようるせーな」


「ふむ、主らの通過点に、余の着地点があるという事か………」


 目的の達成が出来るのならば……と、これには納得したが、ベロニカは次の質問が出来ずに口ごもる。


 聞きたいが、不安の方が大きい質問だった。

 汗を滲ませ、目を泳がせ、縋るようにピンクの髪に手を置いた。

 たった一言の質問を聞けず、思考ばかりが巡りゆく。

 

——夢では、余の身体は燃やされておった……あれが現実なれば、この身体と記憶はなんじゃ……? もし懸念通りとすれば、自死すら厭わんのじゃが……。


 その震えを感じたブエルが心配そうに見上げる。


「ろにかー?」


「余………余は………」


 震える口をようやく開くが、うまく声が出せずに呼吸が荒む。

 人生で初めてとも言える極度の緊張が全身を包み、心臓が爆音を奏でていた。


 すると、見かねた魔王が手を伸ばし、ベロニカの額に向けてバチンと指を弾いた。


「あだッ……! な、なんじゃ」


 額を押さえ何事かと目を丸くしていると、テーブルに置かれたカップが黒い炎に包まれる。


「お前はそのままだ、複製体とかじゃないから安心しろ。この炎は運搬手段の一つなんだよ」


 するとカップは塵も残さず消え失せて、全く同じ物が魔王の手のひらに現れた。


「ほ、本当か……ッ!!」


 手渡されたカップを注意深く見ると、飲みかけのミルクはそのまま、唇の跡もついている。


「そもそも生命の複製なんて不可能だ、魔術はそこまで万能じゃねーよ」


 ベロニカはこれに深く安堵の吐息を漏らし、体の支えを求めるようにブエルに抱きついた。


「だーいじょーぶぅー?」


「あぁ……本当によかった……! すまんブエル……少し抱かせてくれ……余はもう……腰が抜けそうじゃ……」


「いーよー! ふふん♪」


 少女の頭にヘナヘナと覆いかぶさり、ゆっくりと呼吸を落ち着けていく。

 まるでピンクの髪が、精神安定剤かのように深呼吸を繰り返す。


「お前を治癒したのもブエルだ、今のうちに礼でも言っとけよ」


 この言葉で記憶がまたひとつ呼び起こされた。

 あの悪魔の太い腕に貫かれ、助かる見込みなど皆無の大怪我。

 バッと自分の襟ぐりを伸ばし、胸に目をやるが傷跡の一つも無いまっさらな肌色。


「ブ、ブエルよ……主が余を治したのか……?」


「そだよ? エルおてあてとくい! すごいー?」


 ニコニコと自慢げな笑顔を向けてくるその少女を抱き上げ、向かい合わせに座らせると、またギュッと抱きしめた。


「あぁすごいぞ……ブエルは本当にすごいのじゃな……! 今日だけで、余はどれだけ主に救われた事か……」


「えっへへ〜♪ ありっとー!」


 ブエルは顔に胸を押し付けられながら無邪気な声を響かせていた。

 そこに頬杖をついた魔王が問いかける。


「で、どうすんだ? 俺たちと一緒に来るか?」


 ベロニカの答えはすでに決まっていた。


「良いじゃろう、乗ってやる。今日より主が、余の王じゃ」


 ベロニカはまた口元に笑みを浮かばせながら、指先を突きつけてそう言った。


「偉っそうな配下だな……」


 魔王は不満げにそう溢すと、振り向いて扉に目を向ける。


「もう入っていいぞ」


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