76.0 『ベロニカ・リシテ・バルステラ』
「良いじゃろう、乗ってやる!」
「イイ顔だァ」
これまで気丈な表情を崩さなかったベロニカが、初めて見せたその笑顔。
それが俺には、見惚れるほどに眩しく映っていた。
民間人達も初めて見たのではないだろうか。
飛び交っていた罵声は静けさに変わり、皆唖然とした顔でそれを見ている。
ベロニカは他のルドミラ兵と違っていた。
民間人からすれば罵声の対象かもしれない。
非情な言動や振る舞いも、許せるものでは無いだろう。
でも少なくとも、ルーニーやゴライアスなどとは比べるべくもない。
表情や言葉の節々に、強い信念に似たものが感じられたのだ
この笑顔は、戦い以外の解決策が見つかったのではと、俺にそんな淡い期待を抱かせるものだった。
だが、そうはならなかった。
その笑顔はすぐに消え、ベリトを睨んでこう言った。
「覚悟せよバルベリト」
「来いよォ、ベロニカ・リシテ・バルステラァ」
深く腰を落としたベロニカは切先を向け、煌めく刀身に手を添える。
突如、ベリトの腕に小石が当たった。
誰かが石を投げたかと思い、周囲を伺うがその様子は無い。
パチッパチッと、次々に小石のぶつかる音が鳴る。
それは小石だけに留まらず、崩れた石ブロックやレンガ、折れた柱までも、周囲の無機物が全方位からベリトに向けて襲いかかる。
瓦礫が全身を埋め尽くすと、ミシミシと音をたて、ひび割れ、崩れ、砂となって収縮していく。
周囲の地面がズシンズシンと沈み込み、深さ10メートル程の巨大な陥没地が作られた。
その中心にはベリトを包んだ砂の球体、それは数センチ浮遊し、まるで惑星のように見える。
「終わりじゃ」
そう呟くと、地面を蹴り付け間合いを詰める。
煌めく剣が砂の球体を貫いた。
それを両手で握って力を込めていく。
「ハァァァ——ッ!!」
すると球体に亀裂が入った。
その亀裂は数を増し、そこから閃光が明滅していく。
風が強まり砂の嵐が吹き荒れた。
次第にそれは砂塵となって、二人を覆い尽くし姿を隠す。
中からは熱を帯びた光が、木漏れ日のように周囲を照らした。
そして大きな大きな声が響いたのだ。
「余を賛美し力を示せ! マグヌス・アグヌス!」
輝きが消え、砂塵が暗闇に包まれたかと思った、次の瞬間。
目が焼かれる程の、強烈な閃光が放たれた。
視界が白一色に包まれ、上下すらも認識できず脳が混乱する。
地軸を歪める爆音と、鼓膜を引き裂く炸裂音。
鳴り止まぬ地響きに恐怖を感じながらも、瞼は少しずつ景色を映していく。
民間人たちは身を寄せ合って震えているが、被害は大きくなさそうだ。
それにホッとしたのも束の間、俺はすぐ異様な光景に気付く。
黒い煙が頭上を覆っていたのだ。
その所々には稲光が発生し、ゴロゴロと音を立てている。
黒煙は陥没地の中心から上空に向け、放射状に広がっていた。
次元の違いすぎる大技に開いた口が塞がらない。
俺がマナを使えない事を差し引いたとしても、人間業とは到底思えなかった。
周囲の民間人たちも同じだろう。
さっきまで震えていた者も静まり返り、息を飲んでこの光景を凝視している。
そこにポタリと真っ赤な雫が落ちた。
黒煙の発生源からポタポタと、鮮血が滴り始めたのだ。
そこにできた血溜まりが、波紋を作って広がっていく。
地響きが収まっていくにつれて、ヒューヒューと出来損ないの笛の音が聞こえてきた。
耳を澄まさないと聞こえない程の、か細い笛の音。
それが喘鳴だと認識した直後、
「ゲッホッ……」
同時に溢れ落ちる、赤黒い吐瀉物。
それがビチャビチャと音を立てると、周囲を突風が吹きつけた。
二人の影すらも阻んでいた黒煙が、風に運ばれ消えていく。
そしてようやく二人が姿を現したのだ。
分かっていた事だった。
万が一の可能性があるならば、この作戦が実行されるなんて有り得ない。
それでも俺はこの時、生きてほしいと願ってしまっていた。
だから俺では駄目なのだ。
だから魔王はナーコに任せた。
決して優先順位を間違えない為に。
「なんか言ィ残す事ァあるかァ?」
手刀がベロニカを貫いていた。
胸から背中までを一直線に貫通し、汚れたドレスは綺麗な赤に洗われてゆく。
口から血を吐き咽せ返り、浮いた足は大地を探すように揺らしている。
それでもベロニカは歯を食いしばり、気丈な表情を保っていた。
だが呼吸もままならず、時折痛みに顔を歪めて声を漏らす。
そしてギリッと歯を軋らせた。
鋭い眼光をベリトに向け、ようやく震える声を絞り出す。
「……………見よ………余の勝ちじゃ…………」
見ると、ベリトの頬に一筋の赤い線が描かれていた。
そしてその線の端からは、一滴の血が滴り落ちたのだ。
手の甲でそれを拭ったベリトは不満を口にする。
「いやハンデ要らねぇッてェ……」
が、その声を聞き終える事なく、ベロニカの四肢が垂れ下がった。
貫く腕に負荷がかかってズシリと沈む。
瞳は既に閉じられていた。
口元に勝ち誇ったような笑みを浮かべながら。
「……ッんだよォ」
舌打ちをしたベリトが腕を下ろすと、ベロニカの身体はズルリと滑り落ちた。
足元の血溜まりが音を立てて波が立つ。
血に伏したベロニカはもうピクリとも動かない。
赤に揺蕩う水色はとても綺麗で美しく、でもそれはあまり似合わなかった。
そんな中、周囲から湧き上がる大歓声。
当然と言えば当然なのだろう。
自分たちを苦しめてきた統治者が討ち取られたのだ。
この人達からすれば当然なのだ。
当然なのだ当然なのだと、何度も何度も自分に言い聞かせた。
それでも俺にはこの歓声が、耳を塞ぎたくなるほど不快に感じた。
群衆が陥没地の淵まで駆け寄り、眼下のベリトに喝采の嵐を巻き起こす。
「すげぇぜベリト!!」
「お前めちゃくちゃ強いじゃねーか!」
「心配して損しちゃったじゃない!」
「ありがとうベリト!」
「ありがとう!」
だが、ベリトの口元に笑みは無かった。
まるで感情が抜け落ちてしまったように、それを見渡している。
歓声は段々と収まり、心配そうな視線を送り始める者たち。
「お、おい……ベリトどうしたんだよ……」
不穏な空気を感じ取ったラルズが、そうやって声をかけた。
興味を失ったようにそれを見上げるが、すぐににこやかな笑顔で肩を竦めた。
「あァすまなィ、達成感ッていうのかなァ。ちょッと余韻に浸ッていただけさァ」
「な、なんだよ心配させんなよ! それよりコイツだ……!」
一安心したラルズはそう言うと、眉を顰めながら陥没地に飛び降りた。
未だ冷めやらぬ怒りを瞳に宿らせ、剣を片手にベロニカへと歩み寄っていく。
「コイツだけはどうしても許せねぇ……!」
ラルズの怒りはもっともだ。
俯瞰している俺からは、可能性を探る余地がある。
でも何年も虐げられていた者からすれば、この怒りはもっともだ。
ベリトもこれを止めないだろう。
コイツは情で動くような奴じゃない。
ましてやこれは全世界が見ているのだ。
悪魔が人間に情けをかける姿を見せていい訳がない。
そして、ラルズは足を止めると、亡骸を眼下に睨みつける。
両手で剣を逆手に持ち、切先をベロニカに向けた。
「コイツのせいで……ッ!!」
——やめてくれ……。
その剣が突き立てられる直前。
ベロニカは真っ黒な炎に包まれた。
「な、なんだこれ……!?」
「いやァキミ危なかッたなァ。まだ生きてたらどォするのさァ、あァ危なィ危なィ」
横を見ると、ベリトは掌をベロニカに向けていた。
その火力は凄まじく、瞬く間に亡骸を燃やし尽くしてゆく。
「あ、あぁ……助かったよベリト……」
そして苦笑いするラルズの顔をゆっくり覗き込んだ。
「さァ早く退がッた方がイイ……じャなきャキミにまで燃え移ッてしまゥ……それでもイイのかァ?」
厭らしい笑みを口元に浮かべてそう忠告するベリトだが、その眼光は悪魔を強調するような悍ましさだった。
俺は心から感謝をしていた。
ただの気まぐれかもしれない。
トドメを刺したかっただけかもしれない。
でもどんな理由だろうと、これ以上ベロニカが好奇の目に晒される事はない。
冒涜される事も、辱められる事もない。
きっとベロニカに敬意を払ったのだろう。
ようやく俺の心に渦巻いていたモヤモヤが晴れていった。
「そ、そうだな……! ありがとうベリト……!」
ラルズが気圧されるように陥没地から出ていくのを見送ると、ベリトは大きく手を叩いて両手を広げた。
「さてェ、すこォし待ち時間が出来てしまッたァ! 配下の仕事が遅ィのが原因だァ、ボクァなァんにも悪くなィ! 本当さァ!」
得意げに少し肩を竦めて、困り顔を周囲へと向けるのだ。
「部下の責任は上司の責任だぞー」
「ベリトの配下かわいそー!」
「手伝ってやれよー」
こんなヤジがベリトに飛び交い、民間人達が和やかな空気に包まれた。
——コイツほんとにすげーな……。
「まァせッかく出来た時間だァ、友達やら家族やら探してみるとイイ。これ見てる皆もさァ、ココがどォなッてるかァ歩いてみろよォ。そろそろ動き回れるくらいにァ慣れただろォ?」
そうやって笑顔を振り撒いて、周囲が閑散とし始めると、陥没地の淵に腰を下ろした。
そして大きなため息をついて空を見上げ、小さな独り言を呟くのだった。
「はァ……ボクばッか働きすぎだろォ……」
——それは俺も思った。




