42.0 『魔王と少女』
そして魔王が扉を開けると、あのニオイが漂ってきた。
あの家で嫌と言うほど嗅がされた、あのニオイが漂ってきてしまった。
扉の先には、汚物にまみれて震える少女が見えた。
物が散乱し、糞尿が飛び散ったシーツの上で、恐怖に震えたように蹲っている。
その光景を捉えてすぐ、自分の頭に血が上っていくのがわかった。
あの時の父親と魔王が重なった。
周囲には頼られているが家では俺を殴る、あの父親と重なってしまった。
あの少女はあの時の俺だ。
閉じ込められて、殴られて、弄ばれた俺なんだ。
この男は信じられると思っていたのに。
——裏切られた……! また裏切られた……! 『親』にも『仲間』にも裏切られて……ようやく信じられると思えたお前にまで裏切られた……!! こんな少女にまでそれをするのか……!! もういい……!! お前は【魔王】で、俺は【勇者】なんだからもういい!! だったらこの場で倒してしまえばいい!! どうせお前は【魔王】なんだから!!
この怒りは決して、蹲る少女を想っての怒りではなかった。
父親に対する自分の為の怒りだ。
身体中の血液が煮えたぎる、腰の刀に手をかけ、憎しみを込めて魔王を睨みつけた。
「キサマッッッ!!!!」と、そう叫んでやろうと、湧き上がる怒り全てをぶつけてやろうと。
息を吸い込み、喉から大声で叫んでやろうと、口を大きく開けた瞬間。
そこにヌルリと何かが入り込んだ。
喉の奥の更に奥、それは気道を優しく押さえつけてくる。
——息……息息息息息ッ……!
酸素を探すように焦点を合わせると、目の前には女の悪魔がいた。
悪魔の手が俺の顎をこじ開けてくる。
異物を排除するように、悪魔はこちらを凝視してくる。
必死に抵抗を試みても力が入らない。
「………………ッッッ!!!」
声が出ない、息が吐けない、吸い込んだ酸素が行き場をなくして咽せ返る。
胃液が逆流する、嗚咽が漏れて涙が出る、涎が垂れてくる。
顎が外れそうになりながら、手が震え、刀が擦れて音を立てる。
そして扉が閉まった。
部屋の中には『魔王』と『少女』。
外には『悪魔』と『勇者』。
乾いた声で女の悪魔は言う。
「お前は本当に学ばない。お前は『最強』でもなければ『無敵』でもないんスよ。この気道を少し塞ぐだけでお前は死ぬ。この手を地面までゆっくり下ろすだけでお前は死ぬ。わかるか? わかったらゆっくり跪け。そしてその血で汚れた刀を床に置け。少しでも声を出したら殺す。少しでも刀を抜いたら殺す。二度とここで間違いを犯すな」
————【勇者】は跪き刀を置いた————
――また俺は間違えたのか?
女の悪魔はすぐに喉から手を引き抜いた。
咳き込みそうになるのを両手で押さえ、必死に音を立てないように我慢した。
怯えながら悪魔に目で訴えた。
『音をたてない、敵意もない、冷静になれた、だから許してくれ』と必死に顔をあげて目で訴えた。
いま音をたてれば、きっとこの悪魔に殺されるんだろう。
本能でそれがわかるほどに、女の悪魔は冷たい目をして俺を見ていた。
「次に扉が開くまでそこで待っていろ」
悪魔はその一言を残すと、ドアをノックして扉を開けた。
「アタシがやるからだーいじょぶッスよぉ~!」
そうやって中に声をかけながら悪魔は扉をくぐった。
そして、廊下に俺を残して扉がゆっくりと閉められた。
◇ ◆ ◇
震えていた身体も少しは落ち着き、頭も冷静になってくる。
胸に手をあてて、ゆっくりと深呼吸をした。
俺は刀を手の届かない位置に置いて、立ち上がった。
『きっとまた俺が間違っていたんだろう』と、強い後悔に苛まれる。
たまに自分の感情の抑えが一切効かなくなる事が悔しかった。
あの老剣士が言っていた『キケン』とはこの事だろうか。
包帯の中の傷をギュッと握って、自分に『痛み』を再認識させた。
——大丈夫、つぎは大丈夫。
すると扉が開いて声がかかった。
「もう入っていいッスよ~!」
扉から顔を出してきたのはにこやかなタロットだった。
気を引き締めて俺も返事をする。
「きっと俺が悪かった、もう大丈夫」
そう言って中に入ると、さっきの異臭はしなくなっていた。
汚物なども綺麗になくなり、散乱した物も片付けられている。
真ん中には木製の丸テーブルと丸椅子が四脚。
そして、その一つにはさっきの少女が座っていた。
少女はこの世のものとは思えないほど美しかった。
『美しい』という言葉を人に置き換えたら、この子が出来上がると思う程に美しかった。
だが意識があるようには見えなかった。
目は開いているが、顔も表情も動かない。
ただ、何も無い宙を静かに見つめている。
真っ白で艶のある長い髪、年齢は六歳程度だろう。
まつ毛の長い、大きく真っ黒な瞳。
うっすらピンクがかった頬に、透き通るような白い肌。
純白で大きめのワンピースを着ていて、胸元には可愛い猫の刺繍がされている。
その横には魔王が立っていた。
魔王はコップの中の液体を、少女の口元にスプーンで運んでいる。
スプーンを唇に向けて傾けると、口の端から白い液体が垂れた。
それをゆっくり拭き取ると、またスプーンを口に運んだ。
少女は動かず、かろうじて喉を動かしていることだけがわかる。
俺が入ると魔王は手を止め、こちらを見る。
「驚かせたな、直前でああなるとは思わなかったんだ」
とても優しい口調だった。
横からタロットも申し訳無さそうな笑みで「ごめんね」と手で合図している。
「先にさ……その口に入れてるのが何か、聞いていいかな?」
俺は自分の境遇もあって、まず口に入れられている液体を真っ先に聞いた。
魔王は少女へ目線を戻し、再びスプーンを運びながら答える。
「ミルクだよ、少し栄養価の高いミルクだ、粉ミルクと言えば伝わるか」
「あぁ……ありがとう。間違いなく俺が悪いな、ごめん……」
「構わない、タロットの過剰防衛だ。だがそれがあるから俺も安心できる」
魔王はそこまで言うと、スプーンをコップに入れて机に置いた。
タロットが少女の側まで小走りで寄ってニッコリ笑う。
そして魔王が少女の肩に手を置いて紹介するように言う。
「俺の『全て』だ」
「アタシたちの『全て』ッス~♪」
タロットも両手を翳してそう言った。
おそらくタロットの言っていた『大切な人』とは、この少女の事なのだろう。
そしてこの少女と魔王はどことなく似ていた、白い肌や綺麗に揃った並行の二重、真っ黒の瞳。
すぐに誰もが思いついた問いを俺は口にする。
「王様の子供の……ヤネちゃんって事でいいんだよな……?」
それには魔王からすぐ否定が入った。
「違うな。名前はアヤネ、俺の妹だ」
理解が追いつかなかった。
今の魔王の言葉には気になる点が多すぎて、何から聞けばいいかわからなくなった。
まず妹にしては歳があまりに掛け離れて見える。
だが家庭の事情なんてそれぞれだ、俺が気にすべき事じゃない。
今はそれよりも名前が。
「それは……『ア・ヤネ』とかそういう……」
「それも違う、名前は『アヤネ』だ。綾取りの『綾』に、音色の『音』で、『綾音』だ」
あまりにも聞き馴染みのある響き。
あまりにも聞き馴染みのある表現。
アヤネ、綾取り、音色、綾音。
咀嚼しきれず、必死に言葉を探して聞き返す。
「それってまさか……」
魔王は少女の髪を撫でながら答える。
「俺たちもお前たちと同じだよ」
そしてゆっくり俺を見て、気だるく低い声色で続けた。
「日本人だ」
「は……?」
あまりの衝撃に、扉の前で立ちすくんでいると、タロットから声がかかる。
「まぁまぁ~、とりあえず座るッスよぉ、ほらほらぁ!」
そう言って強引に席に引っ張ってくれる。
ゆっくりと腰掛け、息を整えながら部屋を見渡した。
部屋は六畳程度で、壁沿いにベッドが置かれている。
見るからにふかふかのベッドはピンク色で、所々にワンピースと同じ猫の刺繍がされていた。
その上には、たくさんのぬいぐるみ。
とてもよくできた物から、糸がはみ出して拙い作りの物、新しい物から、ボロボロになってしまっている物まで様々。
そのぬいぐるみは人の形を模しているように見えたが、全てにツノ、翼、尻尾、おそらく悪魔を模して作ったのだろう。
「あのぬいぐるみって……」
俺がそう言うと、タロットが満面の笑みで答えた。
「ここの悪魔たち、みーんなで作ってるッス~♪ アタシもいるッスよ? ほらほらぁ」
そう言ってベッドの上から黄色いサイドテールのぬいぐるみを手渡してきた。
とてもよく出来ているが、古くなって色褪せ、縫い目から綿が見えるほどボロボロになっている。
「これ、タロットが作ったのか?」
これには魔王がアヤネちゃんを見ながら口を開いた。
「そうだ、アヤネはそれが一番気に入っていてな。いつもそれと一緒に寝ている」
「ふっふーん、みんなに羨ましがられるッス~!」
「あぁ、すごいな、タロットそっくりだよ」
そう言ってぬいぐるみを返すと、タロットはアヤネちゃんの膝にちょこんと乗せた。
アヤネちゃんは目線を動かさず、常に一点を見つめていたが、そのタロットぬいぐるみを、両手でキュッと握った。
「ほらほらぁ! 可愛すぎるんスよぉ! もぉ! アヤネ様ってばぁ!」
その光景を見て、俺は少し涙が出そうになった。
魔王は優しげに溜息をついて話し始める。
「色々聞きたい事も多いだろうが、元の世界の話はあれだ。あのヘタクソにもアヤネを紹介した後にしよう、ゆっくりのがいい、積もる話だ」
「そうだな……正直一番気になるけど、絶対そっちのがいい」
タロットはアヤネちゃんの頬をツンツンしてはデレデレしている。
「まずアヤネだが、見ての通りだ。意識を取り戻さない。だがオムツが嫌いでな、たまに暴れてさっきのようになる」
「あぁ、なるほど。納得いった、ほんとにごめん」
魔王はまたアヤネちゃんを見つめて、とても優しげに言った。
「アヤネは俺たちの『全て』だ、七十二柱にその配下、何万という悪魔たちが、アヤネの意識を取り戻そうと死にものぐるいで動いてくれている」
「それでもまだ無理ってことなんだよな……」
それを言うとタロットから笑みが消え、悲しそうな顔で言う。
「そうッス……そもそもアタシたちはアヤネ様の為に、ソロモン様から呼ばれたッス。でもどうにも出来ない、四方八方手を尽くしても、意識を取り戻せずにいるッス」
すると魔王はすぐタロットに言う。
「別にお前らのせいじゃないんだよ、十分助けられている」
「でもソロモン様……ッ!」
「俺の願いが大きすぎただけだ」
魔王はそう言ってタロットの声を遮った。
そして俺をチラリと見てから、ベッドの上の沢山のぬいぐるみに目を移す。
「これを見たらなんとなくわかるだろう、悪魔達はもう命令だけで動いていない。本当にアヤネを大切に思ってくれている」
「だってちょー可愛いんスもん、アヤネ様ぁ! きゃ~♪」
タロットがアヤネちゃんの手に指をつけると、それをキュッと握られて大喜びしている。
俺はそれを見てから、魔王に目を移して口を開く。
「俺にも出来ることがあればしたい……! でも……王様やタロット達でどうにもならないのに……俺なんかに出来る事があるのか……?」
「助かるよ、ハルタロウはアヤネに触ってくれるだけでいい。頭から、首の裏、背骨に沿って背中を通って腰まで」
「それは、俺の……『絶縁体質』と関係あるのか?」
「あぁ、だがヘタクソにも同じ事をしてもらう。試せる事は全て試したい。頼めるか?」
「もちろんだ、俺なんかが役に立てるならなんだってやる」
タロットがそこに不安そうな表情で尋ねてきた。
「そ、それ……だいじょぶッスかね? いやハルタローを信用してないわけじゃなくて……ア、アタシがやばそうっていうか……」
魔王はそんなタロットを見て頭に手を置いてから言う。
「大丈夫だ、もし何かあっても俺がいるから気負うな」
タロットは恐らく、さっきのような『過剰防衛』を気にしているんだろう。
「わかったッス!!」
返事をしたタロットはニッコニコしていた。
——俺はちょっと怖いけどね?
そう思いながら俺は席を立つ。
なんとなく、アヤネちゃんを見下ろすのは違う気がして、目線が下に向かないよう、膝立ちになった。
そんな俺を見た魔王が言う。
「すまないな、ハルタロウも気楽にしてくれていい、ちょっと子供を撫でてやるくらいの心持ちでいいんだ」
「あぁ……」
俺はアヤネちゃんの真っ白の髪に手をおいた。
細くて美しい天使の輪が広がる艶髪。
枝毛や縮れの一本すら、手に伝わって来なかった。
ゆっくりそのまま後頭部を撫でて、首筋まで下ろす。
魔王が後ろ髪をかきあげて、直接首に触れる。
そこからワンピースの襟ぐりを通って背中、腰までゆっくりと撫で下ろした。
タロットからの『過剰防衛』は無かった。
タロット自身もそれに安心したように笑顔になっている。
そして手を離すと、魔王がアヤネ様を覗き込んで声をかける。
不安に怯えたような魔王の優しい声。
「アヤネ?」
少し待ってもアヤネ様の表情は変わらず、膝に置いてあるタロットぬいぐるみをキュッと握っているだけだった。
魔王はとても残念そうな顔をしていたが、俺に気遣ったんだろう。
すぐにいつもの無愛想で気だるい表情で俺に言う。
「大丈夫だ、本当に藁にも縋るというやつだ。ハルタロウが気に病む必要は本当に無い。俺たちがどれだけ手を尽くしてもどうにもならないんだ、気負わせてすまなかった」
そう言って、膝立ちの俺の頭にポンと手を置いてくれた。
その感触に涙が出そうになった。
コリステン邸で初めてタロットが泣いた時も、きっと同じ気持ちだったのだろう。
そう思えるほどに優しい手だった。
「ごめん……出来れば役に立ちたかった」
「問題ない。明日でも明後日でも、コリステン邸に戻ってからでもいい、何か思いついた方法があればいつでも教えてくれ。ダブスタかも知れんが、この件に関してはほぼ全てを許容している、現代知識でもなんでも構わない」
『ほぼ全て』と言われて、おそらくニールのような下劣な人の手は除いているのだろうと、俺は勝手に解釈した。
俺もアヤネ様は絶対に穢してはならない存在なのだと、既にそう思えていた。
俺が立ち上がろうとすると、魔王が「さて」と言って続ける
「次はあのヘタクソの番だな。タロットはここでアヤネと遊んでやっててくれ、俺もさっきのは少し反省したよ」
「まっかせてくださいッス~♪ ほーらアヤネ様ぁ、タロットちゃんと遊ぶッスよ~!」
そう言いながら尻尾の先で自分のぬいぐるみをつつく。
そして俺と魔王はアヤネ様の部屋を後にした。
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